「ドクターの専門は?」 「皮膚科です」 「申し訳ありませんが、そのまま速やかに席についてください」 「以前の専門は救急です」ドクターは眉を器用に上げる。「年齢に伴いまして引退したのですよ」 女性刑事は顔の角度をきつく、上階を眺める。二階に再び姿を見せた男性の刑事をじっと見詰めている。ドクターの声も年齢にしては大きく、会場はいつになく寝静まっている、たぶん二階の刑事にも声は届いただろう。アイラは代替の会場を押さえる許可が下りる時間を、彼らの観察に充てた。 一階のステージ、紫の照明が煌びやかに目に映ったのは始まりの一曲が演奏されたもう、幻の時に遡らなくては。二人の刑事が声を潜めて対策を話し合う。表…
「ホーディング東京と肩を並べる箱が早々見つかりますかね」 「振り替え公演をまずは行うか、否かの判断を仰ぐことが先決。お二人に権限はあるんですか?」アイラは不躾とも取れる問いかけを難なく、言ってのける。スタッフは顔を見合わせ、困惑。どうやらひげの男性が上司のよう。しかし、彼がすべての方向を決める権限を持っているのではない、インカムで連絡を取り始めた。誰かを呼び出す、どうやら相談相手は別の場所にいるようだ。 アイラは正面に向き直る。お客が振る手に振り返した。いつもならば行わない仕草、対応。久しぶりにつけたテレビ、スポーツ選手のインタビューを思い出す。練習後のサインに三十分も時間をとられて大変ではな…
埋め合わせ、新しい会場のセッティングと収容人数、今日と明日の二日間の延べ人数は?なぜ二度も同じことをしなくてはならないのか、できれば早々に反応がほしかった。 なんて稚拙、遅延。 人が亡くなるという稀有な状況を楽しめるのは歪んだ証拠、いや、そうとは言い切れない。一人ぐらいは興奮しているはず。あざとく、お客の手元が動いているのをアイラは見逃さない。 発信は、自分を介した欲求でいたいらしい。 スタッフを呼ぶ、ギターに差し込むコードを抜いてギターごと手渡した。刑事、彼女の言葉に私も含まれている、身勝手な行動は許されない、アイラは状況を飲み込んだ。死体にいやでも目が向く。突っ伏した女性、テーブル、砕けた…
ステージの歌手と目が合った。観客の何人かが歌手の目線を追って私を見据える。嫉妬か?人間の野性味は感情の発火に残されたのかも、熊田は思考を飛び越える動作と意識が通った観客の行動に意味付け。軽く頭を下げた。彼女の活躍の場を奪ってしまった非礼を詫びたつもりである。しかし、歌手はお辞儀を返すどころか、興味を失っていつの間にか持ち運んだスツールに腰を下ろし、ぶらりと両足を振っていた。もちろん、視線は外れている。 三階の観客はかなり少ない。一列に一人か二人。もっとも安価なチケットの購入者は、階下の高額な席と比較するまでもなく全体的な収入の格差は否めない。つまりは、電車、地下鉄以外の交通手段に割く出費は収入…
美弥都との接触はこれほど緊張を強いるのか、熊田は息を切らせた呼吸を階段を上る足取りの重さに擦り付けず、正直に反応と向き合う。普段の彼女と別人の姿、元々の素養は備わっていたが、改めて見つめられると、彼女が一人を好む理由はわからないではない。熊田は腿を上げて、幅の狭い一段をかみ締めるようにのぼる。ひっきりなしに襲うノイズに対して、はじめから一切取り合わない姿勢を見せ付ける態度が何よりの効力だろう。一度でも入り込める隙を見せようものなら、押し込まれ、扉を無理やり開け、止むことのないイナゴの大群が襲い掛かるはず。過去に体験済み、そうして現在、彼女のスタイルが確立した。しかし、もしかすると本質的に彼女は…
「どうしてこちらに?」 「仕事です」 「ライブ鑑賞がですか?」冷やかすように熊田は揚げ足を取る。相手はそれでも、不変で無表情、皺一つ作ってくれはしない。 「こちらの料理を勧められたの、店長さんに。断りましたが、チケットが余っていたそうで、奥さんと出かけるつもりだったようですね。私は日頃お世話になっているし、休みは定休日の一日。たまには有給休暇も必要だから、と店長の後押し。このような背景が私をこの場所へ連れてきた。本心ではありませんよ」 「今日は饒舌ですね」 「そうでしょうか。一般的なおしゃべりと比較すれば、さわり部分を話した長さ」日井田美弥都は首を傾ける。「死体に縁があるのね」笑顔だ。今日は晴…
二階。コの字型に切り取られた空間に沿ってテーブルが並ぶ。一階客席の中空がそのまま三階、つまり四階の床まで吹き抜けになっている。ステージ正面を見下ろす並びは一段落ち窪んでバーのカウンターを思わせる一人のみの席、左右に抜ける細い通路の奥まった位置に隣との視界を遮断する豪華なボックス席。熊田が登ってきた階段近く、ステージを横から眺める側面の席は、二人が座るソファ席が用意されていた。二人席は空席が目立ち、一人席は二つ空いていて、残りはすべて埋まる。人でごった返す会場に足を運び、無差別な歓声に飲まれてまで演奏を聴きたい、という欲求はこれまで膨らんだためしがない。わずかに一人席ならば、と熊田は会場に赴く姿…
「エレベーターはどちらに」死体に見入っていた給仕係が一拍遅れて、ステージ袖を指差す。歌手が登場した場所とはステージを挟んで反対側。ほぼステージの正面であるこの角度から、出入り口は全容を確認できない。「料理に携わるスタッフのあなたを含めた人数は?」熊田はきいた。 「四人です。一階に二人、二階に二人です」 「三階は?」 「飲食の提供は各自お客様が受付で軽食を購入するシステムですので」 「では、もう一人の方をここへ呼んでもらえますか?」 「あ、は、はい」給仕係を見送り、熊田は振り返る。 「種田!」 「はい」緊張感を感じさせる歯切れのいい種田の返答。 「二階を見てくる。誰も動かすな」 「マイクを借りら…
「動かないでっ!」種田がいち早く立ち上がり、周囲の動作を停止させた。左手に、引き抜いた警察手帳。動揺し現状を確かめようと立ち上がる観客を一人一人有無を言わせない圧力で種田の動物的な視線が射止める。対照的に熊田は時間が止まる会場を悠々歩いて、現場と目される騒ぎのテーブルへ。 テーブルはステージ向かって最前列、中央から右に二つ目の席。対面の席は空席なのか、熊田は残り数歩のところで、立ち止まり観察。テーブルに突っ伏する女性が、眠りこけたみたいに、たとえれば授業中の居眠りが適切だろうか。とにかく、生命活動に終わりを告げた者が突如として、ライブ会場に表出してしまったのだ。しかも、確実に見覚えのある人物が…
軽快だけど正確なストローク。でも、時折ミス、音をはずす。それがライブ、生の音。彼女の曲は、他社との共有、一時の統一を味合わせてくれる。シンクロ、鏡よりも身近で水面よりも儚い。それが彼女そのもの。 私は一人、席に着く。受付で相手を待つ人が数人いた。雪で遅れた相手と一緒に入るつもりなのか。私は最後まで一人だ。料理、透明な皿に四つの島が浮かんでいるみたいに、前菜が盛られた一品目がテーブルに置かれた。給仕係が会釈。ウエルカムドリンクを傾ける。少量でもアルコールの度数は高い。成功者の飲み物とされる液体。たんにそれは、高額価格帯であり、私たち庶民でも買える値段である。しかし、毎晩の晩酌に食卓を飾れない、だ…
歌っている、あの人が、私が歌えているの。ギターは、そう、いつもの相棒だ。前のモデルは絶対に駄目、不釣合い。この日を何ヶ月待ちわびたか、手帳の罰印を書き込むたび、私が眺めるあの人の歌う姿に近づけるのだと言い聞かせ、今日まで生きてきた。本来なら、もうとっくに見限りを付けていたはず。都会の生活はどうも私の体質には合わないのだと、気づいてから数年。しかし、帰る家は私が働いて私に提供する、それが唯一の方法。それでも世界を離れなかったのは、あの人と出会いが、私を引き戻したと言っても言い過ぎではない、それほど私は助けられていた。 一日の締めくくりにあの人の曲を私は覚えているはずなのに、何度も繰り返し、それこ…
十分。 スタッフがステージ袖に案内、彼に続く。廊下、見守る眼差し、広げた手のひらに不本意ならがら手を合わせた。 うつむいて歩く。スニーカーのまま。 ナツを呼ぶ。彼女はしっかり背の低いヒールをぶら下げて、私を後を追っていた。 感謝。 ステージ袖。音楽が流れている。打ち寄せる波の音。靴を履き替えた。水を一口、口に含む。ざわめき。虫の声は一様に聞こえるのだから、聞いていても疲れない。方や人間は好き勝手に話す。聞いてなどいられない。悪態。いつもの私だ。 開演時刻。ブザーを鳴らす。スタッフと目配せ、足を進める、光、淡い紫のステージ。歓声、拍手、人、テーブル、料理、空席、二階、三階、左右、マイクスタンド、…
ナツは部屋の隅、ソファで待機。不測の事態の備えて居座る。端末を手に指先を器用に動かしていた。 慌しく、人の出入りが活発な楽屋、アイラはテーブルに向き直り、何気に一点を見つめる。 セットリスト。 状況を端的に述べよ。 ライブ。 歌を歌う。 一人。 ギターの演奏。 ギターのチェックはまだだった、最終チェックを行うべき。 会場はかなり狭い、いつもと比べての感想。 一階と二階、三階席、上から見られてる意識が必要。 今日は雪。 会場に足を運ぶだけでも疲労は蓄積。 歌は徐々にテンポを上げる。 ミディアムに飛んで、一度逸る気持ちをテンポの速い曲で連れ去る。 そして、ミディアム、ゆったり、疾走。 終わりの二曲…
開場の一時間前。 髪のセットが出来上がる。スタイリストのナツが自分の仕事をしたいと、アイラにそれとなく機嫌を損ねないように要求を申し出たのだ。伸びた髪は左右にゆれて邪魔になったので、後ろで結んでもらう。アイラから提案したのではなくて、中途半端に伸びた髪を掴んだナツがスタイリングの方向性に困っていたため。髪が持つ固有特性とステージにあわせた公倍数がうまく見つからなかったらしい。過度なスタイルの変化を好まないので、ナツがいつも私に施すアレンジが適用外にまで伸びた髪だった。反論はない。誰がどう見ていようと受け取るのは曲である、とアイラは考えた。 「メイクはいつもの感じでいいですか?」大きすぎる鏡越し…
熊田はタバコを取り出して、佐知代に火を借りる。佐知代はそっけなく応えた。 「どうぞ、ああ、二度目はやめて下さる。こちらを差し上げますので、ご自由にお使いなって」佐知代はマッチを熊田に差し出した。演出。ついさっき顔をあわせてばかりで、ライターがなく、火を借りた、という設定だろう。 「すいません」熊田は身をかがめて、顔を突き出した。「開場前の下見に行く。種田はここで、佐知代さんを見張っていろ」 「彼女が移動したら、追跡しますか?」 「こっちに連絡だ。受付から私が見張る」 「わかりました」 「あとは頼む」熊田は灰皿に長く残るタバコを押しつけ、ドアをくぐった。どうやら、外に出るときは自動でドアが反応す…
「パティか佐知代で結構です。堅苦しいのは好きではないの」自らの堅苦しい言葉遣いを棚に上げた意見である。 「それは少々私には呼びにくい。佐知代さんではどうでしょうか?」何の取り決めだろうか、種田は呆れる。 「ええ、いいでしょう」立ったままの熊田に佐知代が変化を加えた質問。「あなた、まじめそうね。ご結婚はされていらっしゃる?」 「一人身です」 「そうよね、どこか危なっかしさが漂っているのに、放っては置けない感じ。普段はしゃべらないの」気を抜くと片言の言葉が口をつく。 「まあ、はい」熊田はそれとなく相手が求める回答を口にした。 「いいのよ、気を使わなくっても。経った半日、いいえもっと少ないわ、数時間…
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