(前回)「1956年(昭和31年)参院選大阪地方区で奇跡的勝利の淵源」に続きます。 参院大阪地方区の候補者に内定した、白木義一郎は慌てていた。 意気消沈したように、「えらいことになった、どうしたらいいのだろうか」と彼は、池田先生宅に訪ねたときに胸の内を吐露して
宗教哲学なき人生は、羅針盤のない船のようなものです。 このブログの目的は、そうした人生全般にわたる指南を書き記しておく、私の学びのノートです。
たいへんお気の毒なことです。しかし、いつかは、誰人たりとも一度は死ぬものです。また、御主人を亡くされたのは、あなただけではありません。その悲しみは深く、寂しいこともあるでしょう、そいう目に会った人でなければ、その奥底の苦しみ、苦悩は、わかるものではないで
常楽我浄の ”常” とは、私たちの生命は三世常住です。永遠の生命であるということです。小乗経、爾前経は、その反対の諸行無常であり、永遠ではないと説いています。したがって、ずっと低い教えになります。一般に、世間の社会観、人生観というものを見ても、永遠の生命
フランスの共産党は、「自由の宣言」のなかで、宗教に関する全き自由を謳い、イタリアの共産党は、バチカンとの共存を志向している。資本主義国の共産主義者たちは、宗教について、新たなる次元に立って、思考せざるを得なくなりつつある。現実の厳しさは、いつか人間の知恵
「宗教上の不幸は、一つには現実の不幸の表現であり、一つには現実の不幸に対する抗議である。宗教は、なやめるもののため息であり、心なき世界の心情であるとともに精神なき状態の精神である。それは民衆のアヘンである」この宗教アヘン説は、以来、マルキストたちのイロハ
政治と宗教の問題は、社会主義体制のもとにあっては、鋭く対立せざるを得ない。政治権力による宗教抑圧政策は、日蓮大聖人の仏法といえども、その対立を危うくさせるにいたるだろう。日蓮大聖人は、当時の既成仏教を破折されたが、マルクスも宗教をアヘンとして批判した。一
選挙があろうとあるまいと、学会行事は、いささかの変更もなく推進することが、たゆみない広宣流布の姿でなければならない。座談会その他、日常の活動を、一層、活発化することによって、まず、組織の活力を取り戻さなければならない。私たちは何をもって勝つのか。それは団
本当の日本の国の平和と安泰を思う時、政治の分野では衆議院にも参議員にも、真に民衆のために体を張っていく妙法の使徒が、数多く輩出されなければならない。これは、教育の分野にも、また芸術や科学といった世界にも通ずることである。政治のための政治をするのではない、
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(前回)「1956年(昭和31年)参院選大阪地方区で奇跡的勝利の淵源」に続きます。 参院大阪地方区の候補者に内定した、白木義一郎は慌てていた。 意気消沈したように、「えらいことになった、どうしたらいいのだろうか」と彼は、池田先生宅に訪ねたときに胸の内を吐露して
公明党の前身・公明政治連盟の結成は1962年。そのさらに前史として、54年に設置された、創価学会文化部による政治進出があった。 文化部は、55年4月の統一地方選挙で初陣を飾った。創価学会から文化部員として立候補した54人のうち、市議選で1名が落選した以外は、全員が
私(ブログ管理人)の好きな歌に、旧制大阪高等学校の寮歌、「嗚呼黎明は近づけり」がある。この歌は、学会歌としても愛唱歌としてよく歌った。特に、私が好きな歌詞は3番の歌詞である。それ青春の三春秋交に友と呼び交わし君が愁いに我は泣き我が喜びに君は舞う若き我らが頬
過去を振り返るのではない。常に「現在」から「未来」への挑戦を始める。永遠に「これから」「これから」である。ゆえに行き詰まりがない。目先のことに右往左往するのではなく、世の毀誉褒貶をはるかに見下ろしながら、永遠に「これから」の決心で進む。そこに人間も鍛えら
時代の混乱の原因の一つには、「知識」と「知恵」の混同がある。 学んだ「知識」を何に使うか。それが「知恵」である。「知恵」のない「知識」をいくら集めても、価値は生まれない。習った「知識」を記憶しているだけでは観念である。それに対し、「知恵」は、生活であり
学会活動に邁進している人は、いかなる試練もすべて、「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」(生死即涅槃)と転じていくことができる。 どんなに「いやだな」と思うことがあっても、すべて希望と福運の方向へ、永遠なる幸福の方向へと、回転させていくことができる。なん
母の日は、アメリカで制定され、各国に広がった。その淵源は、母を思う一人の女性の呼びかけであった。人間性の真髄にふれるもの。それを一人の勇気ある人が訴え始める時、人類の心の海を、一波から千波、万波と伝わり、広がっていく。そして、仏法は「人間性」の究極の世界
「自由」とは何か。 どうすれば人間は自由を楽しみきっていけるのか。古来から無数の賢人、哲学者らが、このテーマを追い求めてきた。 いな、そうした理屈以前に、人間は誰しも自由にあこがれる。不自由や束縛を嫌い、自由に生きたいと願うのは、人間本来の欲求である。
世間の人びとの常識では、とうてい不可能と思い込んでいることを可能にする力が、御本尊にはある。 ただあきらめて、不可能と思っている人は、妙法の力を知らない人たちです。すべてを可能にする人は、その妙法の力を引き出すことのできる人です。 日蓮大聖人は、このこ
天台大師の止観に云く「無明癡惑・本是れ法性なり癡迷を以ての故に法性変じて無明と作る」とは何のことか。 上記の文は、天台の「摩訶止観」にある一節ですが、この文のすぐ後の箇所に、「起は是れ法性の起、滅は是れ法性の滅」という有名な文があります。 法性(ほっし
大胆なれ、さらに大胆なれ、常に大胆なれ、、、、、大事に臨んでの、先人の箴言である。
戦いの要諦は、必ずしも数にあるのではなく、少数でも、固い団結があり、そこに強盛な信力があれば、不可能をも可能にする。「何の兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし」(四条金吾殿御返事:法華経兵法の事ー1192p)。 われわれは、宗教屋ではない。みんな、それぞ
1955年(昭和30年)の秋は、創価学会の大飛躍を示す行事が、次々に続いた。 11月3日の秋季総会は、後楽園球場で、7万余の会員が結集したこの秋季総会には、テレビをはじめ、新聞各社の記者やカメラマンも取材に来ていた。 ところが、どうしたわけか、どの新聞も、テレビ
1955年(昭和30年)11月19日のM紙に、思いがけない報道記事が載った。公安調査庁長官という位置にある役人が、ある講演会で話をし、そのなかで、創価学会を破防法で取り締まるというようなことを言ったというのである。注(破防法)破壊活動防止法の略。暴力主義的破壊活動
たいへんお気の毒なことです。しかし、いつかは、誰人たりとも一度は死ぬものです。また、御主人を亡くされたのは、あなただけではありません。その悲しみは深く、寂しいこともあるでしょう、そいう目に会った人でなければ、その奥底の苦しみ、苦悩は、わかるものではないで
常楽我浄の ”常” とは、私たちの生命は三世常住です。永遠の生命であるということです。小乗経、爾前経は、その反対の諸行無常であり、永遠ではないと説いています。したがって、ずっと低い教えになります。一般に、世間の社会観、人生観というものを見ても、永遠の生命
フランスの共産党は、「自由の宣言」のなかで、宗教に関する全き自由を謳い、イタリアの共産党は、バチカンとの共存を志向している。資本主義国の共産主義者たちは、宗教について、新たなる次元に立って、思考せざるを得なくなりつつある。現実の厳しさは、いつか人間の知恵
「宗教上の不幸は、一つには現実の不幸の表現であり、一つには現実の不幸に対する抗議である。宗教は、なやめるもののため息であり、心なき世界の心情であるとともに精神なき状態の精神である。それは民衆のアヘンである」この宗教アヘン説は、以来、マルキストたちのイロハ
政治と宗教の問題は、社会主義体制のもとにあっては、鋭く対立せざるを得ない。政治権力による宗教抑圧政策は、日蓮大聖人の仏法といえども、その対立を危うくさせるにいたるだろう。日蓮大聖人は、当時の既成仏教を破折されたが、マルクスも宗教をアヘンとして批判した。一
選挙があろうとあるまいと、学会行事は、いささかの変更もなく推進することが、たゆみない広宣流布の姿でなければならない。座談会その他、日常の活動を、一層、活発化することによって、まず、組織の活力を取り戻さなければならない。私たちは何をもって勝つのか。それは団
(前回)「1956年(昭和31年)参院選大阪地方区で奇跡的勝利の淵源」に続きます。 参院大阪地方区の候補者に内定した、白木義一郎は慌てていた。 意気消沈したように、「えらいことになった、どうしたらいいのだろうか」と彼は、池田先生宅に訪ねたときに胸の内を吐露して
公明党の前身・公明政治連盟の結成は1962年。そのさらに前史として、54年に設置された、創価学会文化部による政治進出があった。 文化部は、55年4月の統一地方選挙で初陣を飾った。創価学会から文化部員として立候補した54人のうち、市議選で1名が落選した以外は、全員が
私(ブログ管理人)の好きな歌に、旧制大阪高等学校の寮歌、「嗚呼黎明は近づけり」がある。この歌は、学会歌としても愛唱歌としてよく歌った。特に、私が好きな歌詞は3番の歌詞である。それ青春の三春秋交に友と呼び交わし君が愁いに我は泣き我が喜びに君は舞う若き我らが頬
過去を振り返るのではない。常に「現在」から「未来」への挑戦を始める。永遠に「これから」「これから」である。ゆえに行き詰まりがない。目先のことに右往左往するのではなく、世の毀誉褒貶をはるかに見下ろしながら、永遠に「これから」の決心で進む。そこに人間も鍛えら
時代の混乱の原因の一つには、「知識」と「知恵」の混同がある。 学んだ「知識」を何に使うか。それが「知恵」である。「知恵」のない「知識」をいくら集めても、価値は生まれない。習った「知識」を記憶しているだけでは観念である。それに対し、「知恵」は、生活であり
学会活動に邁進している人は、いかなる試練もすべて、「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」(生死即涅槃)と転じていくことができる。 どんなに「いやだな」と思うことがあっても、すべて希望と福運の方向へ、永遠なる幸福の方向へと、回転させていくことができる。なん
母の日は、アメリカで制定され、各国に広がった。その淵源は、母を思う一人の女性の呼びかけであった。人間性の真髄にふれるもの。それを一人の勇気ある人が訴え始める時、人類の心の海を、一波から千波、万波と伝わり、広がっていく。そして、仏法は「人間性」の究極の世界
「自由」とは何か。 どうすれば人間は自由を楽しみきっていけるのか。古来から無数の賢人、哲学者らが、このテーマを追い求めてきた。 いな、そうした理屈以前に、人間は誰しも自由にあこがれる。不自由や束縛を嫌い、自由に生きたいと願うのは、人間本来の欲求である。
世間の人びとの常識では、とうてい不可能と思い込んでいることを可能にする力が、御本尊にはある。 ただあきらめて、不可能と思っている人は、妙法の力を知らない人たちです。すべてを可能にする人は、その妙法の力を引き出すことのできる人です。 日蓮大聖人は、このこ
天台大師の止観に云く「無明癡惑・本是れ法性なり癡迷を以ての故に法性変じて無明と作る」とは何のことか。 上記の文は、天台の「摩訶止観」にある一節ですが、この文のすぐ後の箇所に、「起は是れ法性の起、滅は是れ法性の滅」という有名な文があります。 法性(ほっし
大胆なれ、さらに大胆なれ、常に大胆なれ、、、、、大事に臨んでの、先人の箴言である。
戦いの要諦は、必ずしも数にあるのではなく、少数でも、固い団結があり、そこに強盛な信力があれば、不可能をも可能にする。「何の兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし」(四条金吾殿御返事:法華経兵法の事ー1192p)。 われわれは、宗教屋ではない。みんな、それぞ
1955年(昭和30年)の秋は、創価学会の大飛躍を示す行事が、次々に続いた。 11月3日の秋季総会は、後楽園球場で、7万余の会員が結集したこの秋季総会には、テレビをはじめ、新聞各社の記者やカメラマンも取材に来ていた。 ところが、どうしたわけか、どの新聞も、テレビ
1955年(昭和30年)11月19日のM紙に、思いがけない報道記事が載った。公安調査庁長官という位置にある役人が、ある講演会で話をし、そのなかで、創価学会を破防法で取り締まるというようなことを言ったというのである。注(破防法)破壊活動防止法の略。暴力主義的破壊活動