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琉球史と絡む先祖調査の記録です https://blog.goo.ne.jp/yononushi

琉球が三山時代であった北山王の次男と言われる沖永良部の島主「世之主」 当家のご先祖様であるという伝承をもとに、ご先祖調査をしており、その内容をブログに記録しています。

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2021/02/12

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  • Vol.402 ハブのいない奄美の島々と交易の拠点

    南の島々には毒蛇のハブがいることは知られていますが、奄美群島の場合は全ての島々に生息しているわけではありません。ハブのいない島があるのです。奄美大島・加計呂麻島・請島・与路島・徳之島にハブはいますが、喜界島・沖永良部島・与論島にはいないのです。喜界島・沖永良部島・与論島のハブのいない島は標高が低い珊瑚隆起の島です。これに対してハブが生息している他の島は、標高の高い火山島です。ハブの生息に関しては理由が諸説あるようですが、よく言われている理由を2つあげてみます。これらの島々がむかしむかしに陸続きだった時代に、ハブはその陸地の至る所に生息していたが、海面上昇によって珊瑚隆起の場所だったところ(現在のハブのいない島)が完全に沈んでしまい、そこに住むハブは滅んでしまったと言われています。火山島は完全に沈んだわけで...Vol.402ハブのいない奄美の島々と交易の拠点

  • Vol.401 畦布の運濱(ウパマ)②海の中道

    ウパマの4つの洞籠墓は海岸沿いの崖の上の方にありました。現在は道路が整備され東西から行くことができますが、昔は今のような道路が無く全方位から侵入することが難しかったようで、急な坂を下り西側から巡回するか、干潮時にリーフ上を東から回り込むかの進入路しかなかったそうです。ここは風葬墓だったわけですが、こんなに侵入するのが難しい場所に、どうやって亡くなった方を運んでいたのか?この崖の上の外城原には島見し当があったようですので、亡くなった方に最後にこの世を見せお別れの儀式をこの場所で行っていたということです。そうなれば、その後はすぐにお墓に亡くなった方を安置となるでしょうが、そこからご遺体を巡回したりして足場の悪い道から運び込むのはかなり難しかったのではないかと思うのですね。沖縄の今帰仁にある崖上にある洞窟のお墓...Vol.401畦布の運濱(ウパマ)②海の中道

  • Vol.400 畦布の運濱(ウパマ)①洞籠墓

    沖永良部島の畦布の湾門(ワンジョ)と呼ばれる浜の東側に、運濱(ウパマ)と呼ばれる小さな浜があります。そこの崖に4基の洞籠墓(トゥール墓)があります。この場所は以前は崖下の海岸まで降りてから、墓の場所まで登っていったようですが、現在はワンジョの海水浴場から道路が作られ、道路沿いから墓に行き着けます。お墓は木々に覆われていて、海岸の方からは全く確認できないようです。海の方から見た場所は、ピンクのラインの辺りです。運濱のビーチに沿って道路が走っていますが、道路の奥の崖に洞籠墓があります。この4基のトゥール墓は、島の昔の琉球スタイルであった風葬墓として使われていたものです。昭和初期の調査記録によれば、近年までは使われていたということですので、100年ほど前までは使われていた墓になります。上の写真の左側が東、右が西...Vol.400畦布の運濱(ウパマ)①洞籠墓

  • Vol.399 後蘭はなぜ和泊町なのか?

    沖永良部出身の方やその関係者で構成されている沖洲会という団体が全国にあります。地方から都会に出てきた方々で組織する〇〇県人会みたいなやつです。私が住むエリアの会合が2月に開催され、お誘いがあり参加させていただきました。私の先祖調査のことでお世話になっている方々に初めて直接お会いしたり、島の話ができたりと大変貴重な時間を過ごすことができました。その中である方から、世之主の家臣の一人であった後蘭孫八の居城があった後蘭地区についての話題がありました。この後蘭地区は、現在は島に2つある行政区のうちの和泊町になるのですが、町境を見てみると、直線ではなく曲線を描いて後蘭地区が和泊町になっているのだそうです。確かに地図を見ると知名町の方にぐっと入り込んだ場所(後蘭孫八の城跡となっている個所)ですが、和泊町になっています...Vol.399後蘭はなぜ和泊町なのか?

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