ロドリゲスは病を得て長崎に帰るが、秀吉がそれを知ると、名護屋で治療できただろうと憤慨し、施薬院全宗がロドリゲスは西洋人なので、かの地の療法でなければ効果がないのだと取りなしたという[12]。1593(文禄2)年、ポルトガル船が長崎に着くと、船長らを引き連れて名護屋を訪問し、歓待の席で黒人のダンスや西洋楽器演奏などが披露され、たいへん興がられたという。このとき、徳川家康や前田玄以らと面会し、キリスト教の教義や、仏教の天体論と異なるキリスト教の天体論を説き、宗論を争わせた。家康は禅僧のいる前でロドリゲスの話を聞き、それらが論理的であると評し、追放令が解除されるまで、自身の領地で秘密裏に生活することを認めたという[13]。また、大型船に鉄甲を被らせた舟を何隻も目撃したという。1594年と95年にも秀吉を訪れる。...単身呼ばれたロドリゲスは、病床の秀吉を見舞う。翌日にも呼ばれると、秀吉はロドリゲスの訪問を喜び、最後になろうことを言う。