平成18年に廃止された木島平線(飯山駅〜木島駅〜木島平〜糠塚〜落合)。元々はこちらも廃止になってしまいましたが須賀川線(信州中野駅〜夜間瀬〜須賀川〜落合北)と通しの路線でした。分割されたのがいつかはすぐに出せる資料が手元にありませんが。。。晩年の木島平線
長野県在住者。 ブログではバスや長野県外の鉄道などなど 最近は再びモノクロフィルムでスナップ撮影もしています。
【アルピコ交通[73]県道戸隠線】05494号車 長野市街地
灯少ない県道から、イルミネーション煌めく中央通りを行く。
整備庫前で志賀高原へ上がる前のタイヤチェーン整備中(運転士さんは写っていません)。冬の志賀高原を走る為の絶対必要な整備。
【アルピコ交通[70]急行ループ橋戸隠線】99428号車 浅川ループライン
久しぶりの更新です。SNSの使い方・発表の仕方を試行錯誤というか、どのようにしたら良いか迷っている中、季節が巡ってしまいました。。。そんなわけでこちらではバスのみを上げていこうと思います。鉄道関係はインスタとFBで。秋深まり紅葉も終盤、陽が山に隠れるギリギリの
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平成18年に廃止された木島平線(飯山駅〜木島駅〜木島平〜糠塚〜落合)。元々はこちらも廃止になってしまいましたが須賀川線(信州中野駅〜夜間瀬〜須賀川〜落合北)と通しの路線でした。分割されたのがいつかはすぐに出せる資料が手元にありませんが。。。晩年の木島平線
飯山営業所で待機中の中野木島線246号車と326号車。当時はまだ幕の時代。エアロスターとブルーリボンシティの並びがまた良きかと。
たまにはHT以外の車でも。元神奈中の1406号車、都会の車でも雪道を快走!!
影山の先、ラストの狭隘区間の手前にパッと開ける場所があります。地籍では「入山」になりますが、広範囲な地籍になるので地元では多分「愛称」のようなものがあるのでしょうね。撮影した時は周りは雪に閉ざされていましたが、ここは限られた土地の中に田畑が広がっていると
6月30日催行【「志賀高原シャトル」で行くバスファン向けツアー】の受付が昨日12時から始まりましたが3分で完売となったようです。長電バスの現役車代表とも言えるHTの人気をあらためて感じました。完売記念で3年前に行なった「貸切フォトラン」を。長野・群馬県境の
この日はもう1台、ループ橋線にエアロスターが入っていました。冬季輸送で白馬へ松本ナンバーに変更し貸出したもののエンジントラブルで使えなくなり、長野へ戻された40917号車。整備を行い松本ナンバーのまま戸隠営業所へ貸出し運用入りしていました。松本ナンバーの
座席定員の都合からいつもは県道線専用車となっている06493号車。車両のやりくりの都合から昨冬はループ橋線へ入っているのを何度か見かけました。この日もループ橋線の運用へ入っていたので記録で1カット。個体差があると思いますが、ふそうの車は調子が悪くなること
2024年3月31日に新しい新潟駅バスターミナルがオープンし、新潟市のバスも新たな時代に入りました。まだ新しいバスターミナルへ訪問していないのでこちらはまだ機会があった時に。そして、新潟駅南北が結ばれ合わせてバス路線が再編、その中で2015年9月5日開業
激しく降っていた雪が小康状態となりました。湿った雪を踏み締め、長野行きがゆっくり慎重にカーブを曲がってきました。
奥志賀高原バス停前にある昔ながらの郵便ポスト。地の果て感があるこの地にも郵便事業がきちんと機能していることに感動してしまいます。
戸隠営業所で並ぶ元山陽キュービック。2台並びの撮影もこれが最後となりました。さよなら99443号車、残るは99428号車のみ。
蓮池山の駅で発車待ちの690号車。貸切下りのSHDの背高なボディがいつもの急行バスよりちょっと豪勢な感じがします。
一時小康状態だった雪がまた強く降り出しループ橋経由で戸隠へ上がってくるバスも若干の遅れ。戸隠スキー場へ到着、折り返しの点検を済ませ待っていたお客さんを乗せ、再び長野へ下っていきました。
雪が舞っている時は特に「SHIGAKOGEN SHUTTLE」のロゴが良く似合う。
先日乗車した長野新宿線。予約時のシート配置から夜行仕様というのは分かってましたが、やってきたのはベテラン11092号車。それでも独3シートはゆったりとして、長距離移動も苦になりません。そして、シートに目をやると、懐かしいステレオサービスが。30年ほど前の
スキーシャトルとしての活躍も僅か。
新旧バス停銘板が並ぶ扇平。待合室も新しくなっていました。
丸池からの坂を駆け上がってきた2265号車。周囲にエンジンとチェーンの音が響き渡りました。
灯少ない県道から、イルミネーション煌めく中央通りを行く。
整備庫前で志賀高原へ上がる前のタイヤチェーン整備中(運転士さんは写っていません)。冬の志賀高原を走る為の絶対必要な整備。
長野県内私鉄4社共同企画「謹賀新年」HMの別所線バージョン。別所線は1001編成に1月31日まで取り付けられていました。1001号車には「リアルバージョン」そして1101号車には「SDバージョン」。
山形新幹線の新型車両E8系が落成し仙台へ運ばれたとのこと。これによりE3系が徐々に置き換えとなります。また、かつてのシルバーカラーを復刻するとのことなので、再び新旧カラーの並びの記録も出来るかもしれませんね。
今では真っ赤に実ったりんごを車窓から楽しめるこの付近。一時期「そば畑」だったこともあったり。
朝方は冷え込みましたが陽が昇るにつれ暖かくなり、遠景はボヤボヤ〜〜と。長野市民の山「飯綱山」と北アルプス「五竜」をバックに夜間瀬川橋梁を渡るN8編成。
おとといのブログで紹介出来なかった画像を少しずつアップしていきます。まだ12月分の別の画像もアップ出来ていないですが。。。相変わらずマイペースで参ります。夏恒例の「ながでんビアトレイン」これに乗らないと夏が始まらないと沿線で言われているとか(笑)いまでは
先日、新しいSR1系が輸送されたそうで。コロナの減収で予定が遅れ気味になっているようですが徐々に115系を置き換えていきますね。「しなのサンライズ号」運転初日の簡単な様子をこのブログでも上げていますが、まだまだ115系がゴロゴロしていた時。スカ色や長野色
平成5年に当時の営団地下鉄から譲渡され運転を開始した3500・3600系。以来30年余りに渡って長野電鉄の主力車両として北信濃を地道に走ってきましたが、本日令和5年1月19日を以ってその歴史に幕を閉じました。その間、平成14年に木島線信州中野〜木島間廃線
イルミネーションで彩られた中央通りをキュービック2台続行で長野駅へ向かう。
方向幕が劣化すると破れたり破損するわけで。幕のストックがない場合はパソコンで作成し、ラミネートで包んだ行先表示が活躍しました。この時はO1編成の上下幕が使用中止になっており、屋代線や日中の山ノ内ローカルで代用表示が掲出されました。
撮り忘れたものはないかと暇さえあれば考えていますが、そういえばこれは撮ったかそれともまだか・・・それなら行っちゃえとこのためともう1カットのために出勤前に出撃。温泉「まんぢう」というのがまた風情があるというか。私もたまに店まで買いに行きますが、ここでも買
屋代線の廃線が発表になると、O6編成が赤帯を剥いで運転されるようになりました。すっきりとした原型のお顔がこんな田舎でも似合っていたりします。廃線が決まってもこの時の撮影者は私一人。乗る人はおらず、一人下車しただけで須坂へ向けて発車していきました。
東京行き「やまびこ」と山形新幹線「つばさ」の連結に伴う福島駅下り線の平面交差解消を目的として、現在奥羽本線から東京方面への連絡線を建設中(画像左の緑色シートで覆われた部分)。E3系も置き換えが発表されたのでその過渡期として撮影。東北新幹線と奥羽本線との連
いまでは棒線の湯田中駅ですが以前はミニスイッチバック付きの「停車場」でした。先にD編成の「特急長野」行きが出た後を追うように2600系T3編成がスイッチバックをして長野へ向け発車していきました。
木島駅車庫内から木造車庫の重厚感と裸電球の温かみを感じさせます
木島駅に掲げられたスキー場案内の広告。ここまで来れば有数の豪雪地帯になるので高度成長期から至る所にスキー場がオープンしていました。その中で「信州中野スキー場」とは一体どこぞや?「中野」だから今の高井富士や小丸山辺りでしょうかね。もうこの当時にこの名称のス
3500系の方向幕には色々なバリエーションがありまして、当初は本線用N・L編成の方向幕は黒地に白抜き、そして屋代・木島線用O編成は平成5年10月からワンマン運転が開始したので専用の方向幕で緑地に白抜き「ワンマン」と白地に黒字の行き先の幕が用意されました。
木島駅といえば木造車庫。冬季留置の際の雪除けのためものですが、いつから使用されていたのか資料がなくわかりませんが廃線まで支えてきた無骨な車庫。翌朝までの短い眠り、一日の運転を終えた車両を優しく包んでいました。
木製の扉をガラガラ・・・と、開けてホームへ。なんとなく年季の入った民家のようですが屋代線が廃止になる少し前まで民間委託で住み込みで駅の管理をしていました。他にも以前は北須坂、四ケ郷、中野松川などもそうでした(北須坂や中野松川は委託から職員に戻しました)。
「きじま」「きじま」「きじま」・・・・柱に何かしらのホーロなりプラなりの案内板が取り付けられていました。そーいえば屋代もこんな感じだったような
この日は木島駅上屋の雪下ろしがメインで、ついでに線路内に積もった雪が凍ったのでその雪を除雪するためにMCRが出場しました。 列車間合いで線閉をかけてMCRが木島駅3番線に到着。 廃線の議論がされる前で自分一人しかいない静かな撮影でした。