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徒然なるままにその日暮らし PCに向かひて心に移りゆくよしなし事を そこはかとなく書きつくれば   あやしき人にこそなりにけり

ブログタイトル
お気楽 Oji3 のブログ
ブログURL
https://blog.goo.ne.jp/moai291
ブログ紹介文
時事(爺々)ネタを中心に、お気楽に! 等身大の私 と 不等身大の私?
更新頻度(1年)

58回 / 57日(平均7.1回/週)

ブログ村参加:2020/05/08

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君達君さん
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君達君さんの新着記事

1件〜30件

  • 「恩は石に (慈30) 」(oji3のブログ75)

    「恩は石に刻み、恨みは水に流す」(高田好胤)*奈良・法相宗総本山薬師寺の第127代管長大正13年、大阪市生まれ金堂、西塔、中門、回廊などの再建を実現俗人(凡夫)は、「恨み骨髄」との言葉がある様になかなか水に流すことなど出来ないものです。恩を仇で返す様な人も多い。恩をかけられた事すら覚えていない人もいる。かけられた「恩」を何時までも忘れないためには今の自分が普通に生かされて存在しているのは、間違いなく多くの人々の支えがあっての事たと認識することから始まるのでしょう。様々な恩によって支えられ生きているとの認識を常日頃から持ち続ける事が大切なのでしょう。これが、いわゆる「悟り」にも繫がるものなのでしょう。高田管長は「結局のところ悟るとは決心することだよ」とも言っています。いらだちは自分の未熟さからくるもの。何時までも...「恩は石に(慈30)」(oji3のブログ75)

  • 「究める (慈29) 」(oji3のブログ74)

    「未だ得ざるを得たると謂い、未だせざるを  証せりと謂えり」 (法華経)凡夫は、いい加減なところで、分かったつもりでいる。何もマスター出来ていないのに、出来たと思い込み、理(コトワリ)を理解していないのに既に悟ったと思いあがっている者は多い。目指すレベルは個々人で違っていても仕方はないが常に「本当に本物をマスター出来たのだろうか」と各々が自身に問いかけていく事が「理」に近づける唯一の方法なのでしょう。人は、何も知らないから、悟ろうとします。こうした謙虚な反省のこころが常に必要なのでしょう。閑話休題:打撃の極意プロ野球のイチロー選手は、終身打率3割をこえている超一流の選手です。このイチロー選手が、こんなことを言っています。「考える労力を惜しむと、前に進むことを止めてしまう」と。打撃の極意を究めたかに見えるイチロー...「究める(慈29)」(oji3のブログ74)

  • 「平等 (慈28) 」(oji3のブログ73)

    「嫉妬の心は彼岸(ひが)より生ず、平等を得ればすなわち嫉妬を離る」(空海:弘法大師)*空海は日本での真言宗の開祖、密教を導入した人。「わが心空の如く、わが心海の如く」から空海と名付けた。自分と他者を比較し、区別するこころを持つとその感情が嫉妬心になる事が往々にしてあります。自分にないものを持っている人に対する嫉妬心は、自分と相手を比較することにより、生まれる感情です。空海は、人々が平等であると悟ればこの様な嫉妬心も、ねたみ、怒りもなくなると言っています。現代では、何の根拠もなく自分たちが「優位」であると思い込み、他者を差別する傾向があります。「黒人」等に対する「白人」のいわれのない差別意識がその典型でしょう。表面的な差別意識への反対は、違う差別を生む可能性をも秘めています。このままでは、いつの日か、逆に「白人」...「平等(慈28)」(oji3のブログ73)

  • 「裏を見せ (慈27) 」(oji3のブログ72)

     「如何にして真の道にかなひなむ、千歳のうちに一日なりとも」(良寛和尚)*江戸時代後期の曹洞宗の僧侶、歌人、漢詩人、書家。良寛和尚は、「一日でもいい、仏法に叶った生活がしたい。どの様にすればいいのだろうか」と自省しています。良寛和尚の生涯は、誰が見ても「仏法に叶った生活」にしか見えないはずです。良寛和尚が究極的に行きつこうとした処は、いったい何処だったのでしょうか?辞世と言われている句に、  「裏を見せ表を見せて散るもみじ」があります。まず「裏を見せ」と書き出したところに深い意味がある様な気がしています。「裏」とは 「こころの裏」なのでしょうか。そして「表」を見せて散っていく………また、もう一つの辞世の句と言われるものに「散る桜残る桜も散る桜」があります。これは、良寛和尚が重病になったとき、何か心残りはないかと...「裏を見せ(慈27)」(oji3のブログ72)

  • 「クドイ (慈26) 」(oji3のブログ71)

    「一つの事を聞きていつも珍しく初めたるように信のうえにはあるべきなり」(蓮如上人)*室町時代の浄土真宗の僧。浄土真宗・本願寺中興の祖。同じことを何度も聞いたとしても、初めて聞いたように新鮮に受け止めるべきであると言っています。信仰とは理論ではなく、生き方であるので、教えは一度聞いただけでは身につくはずもない。何度も新鮮な気持ちで聞いて、自分なりに咀嚼して理解する心掛けが必要と言うことなのでしょう。日常生活では、お年寄りの話は、何度も同じことを言うので、「クドイ」と言う気持ちが先行しがちです。 「初めて聞いたように新鮮に受け止めるべき」との蓮如上人のお言葉を尊重して頂きたいものです。「クドイ」なかにも、何か得るものがあれば、「もうけもの」と言う柔軟な心で老人に接していただければ幸いです。(byOldman)しかし...「クドイ(慈26)」(oji3のブログ71)

  • 「師匠 (慈25) 」(oji3のブログ70)

    「若し全肯すれば、即ち先師に辜負(コフ)す」(洞山良价)*中国の唐代の禅僧、曹洞宗の開祖洞山禅師は、師匠の説法等について、「半分は認め、半分は認めない」と言っています。師匠の説法等をそのまま受け継いだとしても、それをどのように生かすのかは、同じはずがない。教えられたことを自分なりに解釈(理解)してから、次に伝えていくことが大切であり、そこに発展性や未来があると言うことなのでしょう。全面的な肯定は、むしろ師匠に対して失礼である。との考え方です。これは、弟子が師匠の教えをほぼ完全に理解できる力量を持っていることが前提になると考えられます。私などには、到底無理なレベルです。※辜負(コフ):(好意などを)無にすること。背くこと。送り梅雨山川木々を破壊せり   2020.06.29moai291「師匠(慈25)」(oji3のブログ70)

  • 「敵・味方 (慈24) 」(oji3のブログ69)

    「原爆、水爆は味方を救うことができても、敵を救うことはできぬ。敵も味方も救うことができるのは坐禅のみである」 (澤木興道老師)*明治から昭和を代表する日本の曹洞宗の僧侶。原爆、水爆は、「敵・味方」双方ともに救うことは出来ないものと、私は思います。導師は、「敵・味」ともに救うことができるのは坐禅のみであると強調したかったので、あえて「原爆、水爆は味方を救うことができても~」との表現にしたのでしょう。本当は「原爆や水爆では、味方さえ救うことは出来ない」と言いたかったのでしょう。武器により「本質的に人を救う事」など到底できないのは、自明の理です。導師は、「敵も味方も救う事」が出来る理や方策、本当の調和は「禅」にあると説いています。人(凡夫)と言うものは、どうしても現実の状況を考えすぎてしまいます。広島市では、当時の被...「敵・味方(慈24)」(oji3のブログ69)

  • 「生きながら死す (慈23) 」(oji3のブログ68)

    「生きながら死人となりてなりはてて思いのままにするわざぞよき」 (至道無難禅師)*江戸時代初期の臨済宗の僧侶。岐阜県関ヶ原に生まれ。もしも、生前の「死」を完全に実現出来たなら、思いのままに振る舞ったとしても、その行い(わざ)はよいものであると述べています。生前の「死」とは、自分のエゴを「無」にすることを意味するのでしょう。その意味においては「ありのままの自分」といった言葉とは全く違います。 「思いのまま」や「ありのまま」の状態が許されるのは自分のエゴを完全に克服した時です。「ありのまま」は決して安易な自己肯定であってはなりません。 「自分はもうこれでよい」と自分で決めつけて反省することをやめてしまったならば、人としての成長はそこで終わってしまうことでしょう。常に今の自分の有り様を問い直しつつ、次なる高みを目指し...「生きながら死す(慈23)」(oji3のブログ68)

  • 「 戒 (慈22) 」(oji3のブログ67)

    「戒あって犯する者は、戒なくして犯せざるに勝る」智顗(チギ)天台宗の「五戒」とは、1.命のあるものを、むやみに殺さず、積極的に生かす。2.与えられないものを、強引に手にいれない。3.情愛は社会の秩序、子孫繁栄の元と心得る。4.常に真実を語り、正しい行いをする。5.自制心を持ち、よこしまな考えをしない。正しい安定した生活を送るには、「戒」が基本とならなければならないとしています。常に心身の平静に心掛け、正しい行動をとれる状態にするよう説いています。「戒あって犯する者」との解釈は困難である。そもそも「戒」がある者は、どの様な過ちを犯すと言うのでしょうか。 「戒」ある者ならば、そもそも過ちを犯す事など無いのでは?「戒あって犯する者」の方が悪質との考え方もあります。いわゆる「確信犯」と言うやつです。これは「凡夫のつぶ...「戒(慈22)」(oji3のブログ67)

  • 「学を好まば (慈21) 」(oji3のブログ66)

    「無常迅速なり。 生死事大なり。 且く存命の際、業を修し学を好まば、只仏道を行じ仏法を学すべきなり」(正法眼蔵随聞記)*「正法眼蔵随聞記」は道元禅師の説示を、懐奘禅師が筆録したもの。世の中の一切の事象は速やかに過ぎていくものです。また、人間に生まれて、人間の生死を明らかにすることは最も大切なことです。人間の短い生涯の間に、何かを学ぼうと思うならば、仏法を学び、生死の真理を究めなさいと説いています。道元禅師は、「まず仏法を学び」ではなく、「仏法以外は学ぶ必要はない、仏法さえ学べばよい」と言っています。道を究めるには、「よそ見をするな」と言うことなのでしょうが、凡夫の私は「よそ見が大好き」です。吾が、凡夫を抜けきれない要因はこれなのでしょうか。苔寺や暑し夕暮れ風を待つ2020.06.25moai291「学を好まば(慈21)」(oji3のブログ66)

  • 「三毒 (慈20) 」(oji3のブログ65)

    「飢渇は大貪より起こり、疫病は愚癡より起こり 合戦は瞋恚より起こる」(日蓮聖人)*鎌倉時代の仏教の僧。鎌倉仏教のひとつである日蓮宗(法華宗)の宗祖。「貪(トン)」、「瞋(ジン)」、「癡(チ)」は、苦を引き起こす煩悩であり、仏教における「三毒」といわれています。大貪(ダイトン):欲の深いこと。むさぼること。    瞋恚(シンニ):自分の心にかなわないことに対し  憎しみ憤る心作用のこと愚癡(グチ):教養がなく物の道理を知らないこと。日蓮は、社会悪を引き起こすのも、「三毒」であると説いています。今日の世界における、内戦、侵略、報復合戦、途上国の飢餓、環境破壊、人種差別、疫病などどれをを見ても「三毒」が要因となっている部分が多々あります。人間同士の愚かさに基づく制御しきれない怒りや、欲望をどの様にコントロールす...「三毒(慈20)」(oji3のブログ65)

  • 「平常是道 (慈19) 」(oji3のブログ64)

    「平常是道」(景徳伝灯録)*中国の禅宗史書の一つ。禅宗の系譜、インド・中国の諸師の伝記を記した中国の仏書。1004年(景徳元年)宋(そう)の道原の編。普通通りに行うことが、「仏道」であると言っている。普通通りにルールを守ることの難しさは、人々の行為自体が、難しさを増幅しているものとも考えられます。「サッカー」という競技が嫌いである。サッカーは、審判が見ていないところでは反則行為を行ってもいいという暗黙の了解みたいなものが存在する様です(あくまでも個人的な見解)。元日本代表監督の「T」などは、「相手に肘打・手を使う・オーバーアクションで倒れる」等の行為を行っても、「審判に分からなければ構わない、どんな手段を使っても勝つのだ」と言っていた様です。サッカーと言うスポーツでは、これが普通と言うことなのでしょうか? 紳士...「平常是道(慈19)」(oji3のブログ64)

  • 「パンチ力 (慈18) 」(oji3のブログ63)

    「打つ人も打たるる人ももろともにただひとときの夢のたわむれ」(夢窓疎石)*鎌倉末〜室町初期の臨済宗の僧。伊勢の人。京都嵯峨に天竜寺を開山。疎石が、弟子を連れて信州に旅に出た。途中、天竜川を下ろうとしたとき、傍若無人な酔った武士がいた。疎石が、武士の傍若無人ぶりをたしなめると、その武士は手に持っていた扇子で、疎石の眉間をビシッ!と叩いたので、カッとなった弟子と一触即発の状況になった。その時疎石は、それを止めて一筆したためた。それが、この和歌である。世間には、論理的には正しいと賛成はするが、自分ではそれを容易に実行出来ない事がよくある。「殴られたら殴り返す」と言う行為をしない難しさは、多くは物理的な問題ではなく、「こころ」の問題と言うことなのでしょう。さあ来いと怒る仔猫のパンチ力2020.06.22moai291「パンチ力(慈18)」(oji3のブログ63)

  • 「安心 (慈17) 」(oji3のブログ62)

    「捨てし身をいかにと問えばひさかたの雨降らば降れ風吹かば吹け」(良寛)良寛和尚は、越後の国三島郡出雲崎(新潟県)で、名主をしていた裕福な家の息子。江戸時代後期の曹洞宗の僧侶、歌人、漢詩人、書家。色々な困難が待ち構えている人生、世捨て人と思われる人生であっても、生きていくうえでは、数々の困難が待ち受けている。この困難をも素直に受け止め、処していくという生き方がある。この和歌には、雨が降っても風が吹いても、泰然自若として人生を生き抜かなければならないと言う決意が現れている。人生を生きぬく全てのプロセスにおける「安らぎ」ともいえる。仏法の功徳によって、迷いがなくなった「安らぎの境地」を仏教では、「安心(あんじん)」と呼んでいる。現代の安心(あんしん)と言う言葉は、一時の「こころ」の安らぎでしかない。常に、「安心(あん...「安心(慈17)」(oji3のブログ62)

  • 「花 (慈16) 」(oji3のブログ61)

     「捨てられてなお咲く花のあわれさにまた取り上げて水与えけり」(九条武子)*西本願寺・大谷光尊の次女として生まれる。大正~昭和時代前期の歌人。後年には社会運動活動家としても活躍した。シンプルな表現がなされている和歌です。「花」をそのままの花と理解しても良いし、「花」を「人(女の人)」と詠んでも理解できる和歌です。捨てられた花にも「いのち」がある。まだ生かせるものとして、(水を与えて)慈しむ心の表現がある。言い方を変えれば、仏のこころ、福祉の心とでも言うのでしょうか…*「おほいなるもののちからにひかれゆくわがあしあとのおぼつかなしや」築地本願寺にこの歌碑があります。九条武子の一生を表現しているような和歌です。九条武子の人生をこれほど的確に謳った歌は他にはないと思います。如月忌九条の句碑の石白し2020.06.20...「花(慈16)」(oji3のブログ61)

  • 「自分を生きよ (慈15) 」(oji3のブログ60)

      「自分を生きよ、おれは他人の鼻を借りて息をしておらん。おれはおれの鼻で息をしているんだ」 (澤木興道老師)明治から昭和を代表する日本の曹洞宗の僧侶。定住する寺を持たず「宿なし興道」と呼ばれた。「自分を生きよ」と言われても、俗人(凡夫)の私は、その「自分」がまだ分かっていない。自分なりに「分かろうとせよ」と言っているのでしょう。導師は、「我々は意識に味をもたしなれているので、無味無色の仏法にはなかなか入りにくい」とも言っています。また、こうも言っています。「明日のことは、今日わからない。われわれには現在の瞬間ぎりのことしか、確かなことはわからない。 つまり、今だけが本当だと思っておればよい」と。凡夫は凡夫なりに、現在の自分を見つめていく「意識」を持つ事が大切であると言うことなのだと勝手に解釈しています。凡夫に...「自分を生きよ(慈15)」(oji3のブログ60)

  • 「歩み (慈14) 」(oji3のブログ59)

    「行を同じくして、歩みを同じくせず」(従容録)「従容録」は、碧巌録と並ぶ禅門二大宝典のひとつ。中国,元代の禅文献の一つ。仏道を学び、修行する道は同じであるが、その方法は、個々人によって当然違いが出てくる。目指す方向は同じであるが、その方法は個人により異なるものである。どう目指すのかは、所詮は自身の責任である。自己流の理論は、根拠のないものでは意味がない。ある程度の「基本」を備えてからの「自己流」であるべきである。この「基本」と言うものが、なかなかの曲者である。プロ野球の王選手の、「一本足打法」の習得(開眼)も、この「行を同じくして、歩みを同じくせず」に通じるものがあるのでしょう。炎昼や球高々と放物線2020.06.18moai291「歩み(慈14)」(oji3のブログ59)

  • 「短気 (慈13) 」(oji3のブログ58)

    「そなたは面白い物を思いつかれたの。今も短気がござるか。あればここへ出さっしゃれ、直して進ぜよう。」 (盤珪)盤珪:江戸時代初頭の臨済宗系の禅僧。自らの修行遍歴の体験から、「不生の仏心」を説く「不生禅」を創始。 「短気」や「絶望」などは、一時の感情である。 物品のように表に出せるはずなどない。 これらの感情は、その人自身でしか直せない。 *さすれば問ふ、「短気」は出されずとも、  「短気(感情)を制御する術は如何に」と。(盤珪導師の言葉)・「昔思えば夕べの夢じゃ、とかく思うは皆うそじゃ」 (盤珪)・「今日生まれ変わったように始めて示しを聞くように聞けば、内に一物がないから法成就が早くなりまする。」 (盤珪)これが答えでしょう。これが感情を、その人自身で制御する術の一端なのでしょう。閑話休題:「秋月竜珉(日本の仏...「短気(慈13)」(oji3のブログ58)

  • 「臨終停年 (慈12) 」(oji3のブログ57)

    「掃けば散り払えばまたも塵つもる、人の心も庭の落ち葉も」(松原泰道)日本の臨済宗の僧侶。東京都港区の龍源寺住職。不要なものは捨て、必要なものは整理しておけばいつもきれいなはずである。しかしながら、時間が立つと、いつの間にかまた不要なものが出てくる。 「物」も「こころ」も。この「こころ」の塵を払う術が、仏法なのでしょうか?人それぞれに違いはあるとは思いますが………〇松原導師の言葉・習うより慣れよ、慣れたらもう一度学べ・花が咲いている、精いっぱい咲いている。私達も精いっぱい生きよう。・悲しかったら鏡をごらんなさい。苦しかったら手を合わせなさい。・言葉は心の足音である。・人は生まれたから死ぬんですよ。・子ども叱るな、来た道じゃ。年寄り叱るな、行く道じゃ。・生涯修行、臨終停年色々と考えさせられますね。碧空に雨を見たかい...「臨終停年(慈12)」(oji3のブログ57)

  • 「菜根譚 (慈11) 」(oji3のブログ56)

    「かりに悪事をはたらこうとも、人に知られることを恐るるなら、まだ見所あり。せっかく善行を積もうとも、早く人に知らるるを願うようでは、すでに悪の芽を宿すなり。」(菜根譚)「悪事」を「悪事」と認識できる者は、まだ見どころがある。何が悪かったかの一端を理解しているからである。いわゆる「善行」と思われる行為を行った人でも、世間に広くその行為を知らせたいとの思いが強ければ強いほど、行った「善行」の価値は減じてしまう。なぜなら、この人にとっては、成しえた「善行」より「周知する事」が主になってしまうからである。「菜根譚」では、「三教(仏教・儒教・道教)」を 対立した位置づけとはせず、それぞれの思想を融合する事により、よりよく生きる方策を見いだす事が出来るとの主張があります。「菜根譚」に色濃く表れているのは、「中庸」の考え方で...「菜根譚(慈11)」(oji3のブログ56)

  • 「道をしへ (慈10) 」(oji3のブログ55)

    人は「阿留辺畿夜宇和(アルベキヨウワ)」という七文字を持つべきなり。僧は僧のあるべきよう、俗は俗のあるべきようなり。(明恵上人)明恵(ミョウエ)上人は、鎌倉時代前期の華厳宗中興の祖。当時は混乱した時代でもあり、僧・俗とも生き方に乱れが生じていました。それ故に、「自分は来世では、極楽へ行きたい、現世などどうでもよい」と思う者が多く存在していました。「あるべきようわ」とは、戒も律も守らず、俗人以上に俗な生活を送って全く恥じいる事も無い当時の僧侶達に対して、自分がなぜ僧なのかを今一度向きあえと言っています。僧は僧のあるべき様、俗は俗のあるべき様なり。乃至、帝王は帝王のあるべき様、臣下は臣下のあるべき様なり。此のあるべき様を背く故に、一切悪しきなり。明恵上人は、「阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)」について、「此の世に...「道をしへ(慈10)」(oji3のブログ55)

  • 「看脚下、足元を (慈9) 」(oji3のブログ54)

    「知らず脚跟下(キャッコンカ)に大光明を放つことを」(碧巌録:臨済宗の公案を集めたもの)「脚跟下(看脚下)」と言う言葉は、他を論ずるより先に、まず自己を見つめていく事をすべきと言う意味があります。前ばかり見ていないで、足元をよく見よ、そこに大きな解決策があると言っています。人は人生の悲劇に遭遇したとき、右往左往してしまう。どの様な解決方法があるのかを模索するとき、得てして根拠のない神頼みや、他者の意見に流されやすい。解決策は、身近にあると言うのに。道元禅師も、「仏道は人々の脚跟下にあり」と説いています。道は、遠い彼方の深遠な哲理ではなく、生活するわれわれの脚跟下にあるのであり、まず脚下を見つめる事から始まると説いています。私が今後人生の悲劇に遭遇したときには、この様な境地になれるのでしょうか?無理だと思います。...「看脚下、足元を(慈9)」(oji3のブログ54)

  • 「無為の境地 (慈8) 」(oji3のブログ53)

    「無事是れ貴人なり、ただ造作することなかれ」(臨在録:中国唐時代の臨在禅師のことば。)無事とは平凡なこと。造作することなかれとは、「カッコつけるなよ」と言う事。見せるための修行であってはならないと解される。禅宗の修行においては、何もしていない様に平凡に見える事の中にも、多くの修行がある。禅僧として何か目立つ特別な事をしていないにも関わらず、禅僧としての「いきかた」にかなっている者は多い。ここでは、これを貴人と呼んでいる。外からは見えない、「無為の境地」とでも言うのだろうか。まさに、「TheZEN」である。窓全開朝の光と蝉時雨2020.06.12moai291「無為の境地(慈8)」(oji3のブログ53)

  • 「ありのまま(慈7) 」(oji3のブログ52)

    「貧しきてへつらわざるはあれども、冨みておごらざるはなし」(道元禅師)道元禅師は、鎌倉時代の1200年京都生れ、曹洞宗の開祖。自分が貧しいと思っていても、他人に「へつらう」ことはしない者がいる。一方、自分が優位であると思っている者は、すべからく、尊大な態度を取るものだと、道元禅師は言い切っています。富や地位、権力がある者は、全て「おごりある者」と言うことになります。富や地位、権力があるにも拘らず、「おごり無き者」は本当にいないのでしょうか?私の周りには……………そもそも、富とか地位とかは……………人間性を損なう元凶となりうる富とは……………さて、私は「おごりある者」なのでしょうか。富もそんなに無い事だし「おごりある者」では無いつもりなのですが、自覚が無いだけなのでしょうか。そういえば、他の方々に食事などを「おご...「ありのまま(慈7)」(oji3のブログ52)

  • 「虚心坦懐 (慈6) 」(oji3のブログ51)

    「目近きことを知らずして、人を恥ずかしむべきにあらず。めずらしきことを一句知りたりとて、人を高くみるべきにあらず」(沢庵和尚)沢庵宗彭和尚は一五七三年、但馬国出石の生まれ。臨済宗の僧。みんなが知っている様な事を知らないからといって、その人を見下してはならない。また、たまたま良いことを言ったからといって、その人が偉い訳でもない。人間の評価は知識の多可によるものなどではない。では、人間の評価とは、如何にすべきであろうか?そもそも、人間が人間を評価する事など不可能な事ではないのでしょうか?もし、他者を評価しなければならないとしたら、虚心坦懐、素直な心で接して判断することが大切だと言っているのでしょう。沢庵の香密やかひとり飯  2020.06.10moai291「虚心坦懐(慈6)」(oji3のブログ51)

  • 「独り断ぜざる~(慈5) 」(oji3のブログ50)

    「夫れ事独り断ずべからず、必ず衆とともに宜しく論ずべし」(聖徳太子:十七条憲法)聖徳太子が推古12(604)年に制定したとされる「十七条憲法」は、政治に関わる人々に道徳や心がけを説いたもので、現代の憲法とは少し趣を異にしています。見出しの文は、この憲法の最後の条項(17条)の一部です。ここでは、「物事は一人で判断してはならない、必ずみんなで論議して判断すべきである」と言っています。1400年以上も前に、すでに現代の民主主義に通じる事が書かれています。戦後生まれの殆どの日本人は、アメリカによって、民主主義がもたらされたものと思い込んでいます。日本は世界でも稀な多神教の国です。多神教下では、それぞれの神々が他の教義と融和をはかりつつ、信仰を深めてきています。日本人は、神道のみならず、他の宗教に関しても寛大です。ここ...「独り断ぜざる~(慈5)」(oji3のブログ50)

  • 「気づき(慈4)」(oji3のブログ49)

    「まことに知る、智者の手に入るときは則ち黄葉もまた真金なり」 (白隠禅師)白隠禅師は、江戸中期の臨済宗中興の祖、駿河の国の仏僧。物事の価値は、それをどの様に扱うかによって決まる。智者は、価値の無いと思われるものでも、価値あるものとして活用することが出来る。それに引き換え、愚者は、価値のないと思われるものを生かす術を知らない。今まで、本当は価値を見出せるはずのものを、価値のないものとして、どれだけ切り捨ててきたことだろうか?知らなかったでは済まされることでは無かろうに…… 笹の葉に夜風に逆らう蛍かな      2020.06.08moai291「気づき(慈4)」(oji3のブログ49)

  • 「道と徳、山と海(慈,3)」(oji3のブログ48)

      「道は山のごとく、登ればますます高し、徳は海のごとし、いればますます深し」(瑩山禅師)瑩山禅師は、鎌倉時代の禅僧。曹洞宗中興の祖(越前の人)。修行が進めば進むほど、その奥行きは深まってくる。いくら「徳」をつんだと思っても、更に探求することが際限なく深まってくる……禅師のことばは、簡単な表現ですが、人(僧侶)として進んでいく道はどうあるべきかを示しているような気がします。私は、この禅師の言葉の冒頭の「道は~」、「徳は~」を取って、勝手に「道徳」と呼んでいます。何か、ことば遊びをしているようで、申し訳ない気分です。 「徳」をつむには、まだまだ時間がかかりそうです。もう、後がない(?)と言うのに……緑陰に借りて読む書は龍之介      2020.06.07moai291「道と徳、山と海(慈,3)」(oji3のブログ48)

  • 「まんまるまるく?」(oji3のブログ47)

    「まるまるとまるめまるめよわが心まんまるまるくまるくまんまる」(木食上人)木食上人は、江戸時代後期の真言宗の僧です。声に出して読むと、なんだか「まるく」なった様な気がします。(本当ですよ。 気のせいでしょうか?)西洋の諺には、「Arollingstonegathersnomoss」   (ころがる石は苔を生ぜず)があります。このことわざには、「自分の能力や適正を、機会あるごとに探求する人には、明るい未来が開けてくる」という意味がある様です。また、逆に「一箇所に落ち着かない者は大成しない、信用のならない人」との解釈もある様です。どちらにしても「まんまるまるく」感じていきたいものです。まるく柔軟な心を何時までも持ち続けていけたらイイナと思う今日この頃です。炎天や ローリングストーンズの響            20...「まんまるまるく?」(oji3のブログ47)

  • 「何も持たずに~」(oji3のブログ46)

      「裸にて生まれて来たに何不足」(一休禅師)経済(金)中心の世の中、物にあふれる時代、財物に執着するこころ、シンプルにものを考えることを困難にさせている現代、あらためて考えると、一休禅師の冒頭の言葉が身に沁みます。私自身もその当事者です。欲深き私には、まだまだこの域に達する事など出来ません。もう、いい年歳なのでそろそろとも思ってはいるのですが……何も持たずに生まれてきたのに………片蔭や今日のブログの空疎なる           2020.06.05moai291「何も持たずに~」(oji3のブログ46)

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