日々考えたことをつらつらと書いています。 日常的なことを、かなり小理屈めいて考えています。 興味がありそうでしたら、ちょろっと覗いてみてください。
伝達の齟齬が生じる問題は、まず互いに相手の伝達内容に対して拒絶的であるからだ。 と、とりあえず考えられました。 これはごくごく当たり前のことでしょうから、すぐ納得がいきそうです。言う方も聞く方も、相手を受け入れる気がなければ話が通じなくても普通でしょうね。 さて、ではお互いに相手のことを受け入れる態度がある、と仮定しましょう。ですが、この受け入れる態度というものもどのようなことを指すのか、これを少し考えてみましょうか。 まず伝達者の側です。 1つは自説に固執しない、ということでしょう。 自分が伝えようとする内容を間違いないものとして疑わない。また自分の伝えようとしている内容は正しいので、それが…
伝達の齟齬という問題を考えていると、論理の問題だけでなくコミュニケーションの問題とも関わってきそうです。 論理を伝達の問題とするならば、A(123456789)はTとSやU1とU2といった間柄であっても、その内容は一緒のはずです。伝達内容A(123456789)を誰かに伝えようとするならば、TA→SAであろうとU1A→U2AであろうとAの中身は同じになるはずですからね。これがT→Sの場合とU1→U2の場合とで伝達された後の内容が違うとなれば、それは伝達内容A(123456789)自体の問題ではなくなります。つまり◯→◯という関係の中に問題があるわけで、それはきっと伝達方法の問題、つまりコミュニ…
相手に伝達する時、相手側の理解が十分ではない、ということはあり得ます。 それは伝える人が伝達内容A(123456789)を相手に伝えようとしても、どうしてもA(1 45 89)としかならない場合です。 この時伝える側ではなんの落ち度もないと仮定します。つまり伝達者は自分の伝えるべき伝達内容A(123456789)を過不足なく相手に伝えている。自分の伝達が完璧であるとみなしておらず、相手の理解がA(1 45 89)であることも理解している。その上で不足分( 23 67 )を埋めるため伝達のやり直しを行なっている。こうしましょう。 このような場合であれば、相手に問題があると考えることもゆるされるか…
次に考えられることは伝える人と伝えられる人との齟齬です。これは伝える人と伝えられる人とするよりも、教える人と教えられる人と捉えた方がわかりやすいかもしれません。つまり先生と生徒ですね。 先生がなにか教えようとしています。なににしましょう。国語とでもしておきましょうか。それを生徒に教えるとなると、その関係は教師Tが国語という内容Aを、生徒Sに伝えるのだからTA→SAとなります。 この時Aはその中に123456789と含まれる、ととりあえずここでは仮定してみます。すると図はTA(123456789)→SA(123456789)となるわけです。しかし普通、先生の言ってることなんて聞いただけですべてわ…
伝えられる情報は同じはずなのに、伝えられた方では違いが出てくる。伝言ゲームのように意図した障害はないはずなのに、どういうわけかズレは生じていく。 これが不思議なことでした。 その理由として考えられるのは、まず伝えるべき内容がそもそも難しい、という場合です。 マルクスの場合で考えてみましょう。 マルクスの考えは当然20世紀最大級の思想だといえます。それが難しいということは当たり前のことかもしれません。ですからそんな考えを誰かに伝えようとしても、元々の考えのままに伝えること自体困難なことである、ともいえないこともないでしょう。 マルクスの考えをMAとした場合、一見マルクス主義者M'にAを伝えるだけ…
教わることと伝言ゲーム性 〜伝えられるものの中身は一緒のはずなのに、なんで差が出るの⁈
1つの考えがある人からある人へと移る際、その考えが変わってしまっているということは、日常では当たり前にあることです。 TV番組を思い浮かべてみましょう。最近はあまりやらないかもしれませんが、昔は伝言ゲームなんていうのがバラエティ番組の定番の1つでした。そこでは最初に出されたお題を見た人がジェスチャーやイラストだけで次の人へと伝えていき、それを続けていくうちにお題とは全然違うものへと変貌していく、そして最後の人が最初のお題となるものを答えれたら正解、というゲームです。その変化していくさまをお茶の間の私たちが面白く見る、というわけですね。 このゲームの肝は直接お題を次の人に教えてはいけない、という…
元の考えと学んだはずの考え 〜私はマルクス主義者ではない…けど、玉ねぎを炒飯に入れると決めたことは一緒のはずなのに
マルクス主義の問題なんて私には両手を使ってもまだあまり、押しつぶされてしまうくらいの問題ですからこの辺にしておきましょう。よく知らないこと書いて詳しい人をいらだたせる必要はありませんからね。どうしても言いたい、というのであればともかく、そんな気概もありません。 ゼノンのパラドックスから考えられる問題に戻りましょう。理屈はあっているのに実際は違っている。もしくは実際に起こることと全く違うのに理屈はあっている。こうした点が問題でした。 そして大阪都構想でも共産主義国でも、そこで考えられた理論(もしくは考え、論理)がその中で間違っていなかったとしても、実際に行うとまったく違う結果が出る可能性がありえ…
大阪都構想は現在進行形の問題ですからこの先どうなるかはわかりません。推進派が言うように大阪府、市の問題が一挙に解決するかもしれませんし、反対派の言うように大阪が沈没する要因になるかもしれません。それはやってみなければわからないのですが、影響が甚大なのでやってみるではすまされないので、やる前に侃侃諤諤の議論が行われているわけです。 でもゼノンのパラドックスのように論理的に正しくても実際に正しいとは限らないのに議論なんてして意味あるのでしょうか。こうした疑問を持たれる方もいるかと思いますが、それはちょっと置いておかせてください。 それよりも先にこれからの問題ではなく、すでに結果の出た問題について考…
社会問題時におけるゼノンのパラドックス 〜やってみなはれ、は大丈夫?
将来どうしようか、という問題は言い換えると未来の選択をどのように決定するか、ということかもしれません。そして進路や結婚なら個人の問題ですから、当の本人には大問題であっても周りの人々にはあまり関係がありません。せいぜい家族のような身内にしわ寄せが来るぐらいで、世界が滅んでしまうようなことはないでしょう。 しかし、これが社会的な問題であれば大問題です。 たとえば先日の選挙で大阪維新の会は盛り返し、再度大阪都構想を目指して住民投票を行おうとしています。わかりやすいかと思うのでこの問題を例にして考えてみましょうか。 大阪都構想が橋下さんや維新の会が言うように大変立派で有効なものであれば悩む必要はありま…
こうした問題を文芸批評家の小林秀雄は宿命と言いました。 私は大工にでもなれた、植木屋にもなれた、政治家にもなれた、作家にもなれた。しかし今の自分は批評家でしかない。だがこの今の自分を受け入れること、これが宿命だ。と、だいたいこんな意味だったと思います。 これは人生というものはいくつもの可能性があるが、1つしか選べない。残りの選択肢は消えてなくなってしまっている。他の可能性の方が豊かな自分であったかもしれない。しかし今の自分こそ必然として認め受け入れろ、とこういう意味として捉えればいいでしょうか。 これはその通りですね。東大いって政治家にこずかれながら「こんなはずじゃなかったのに」と思ったり、お…
わかりやすそうな場合は、将来がどうなるかわからない、ということでしょうか。 たとえば進路に悩んでいるとしましょう。 思いっきり極端にしてみましょうか。すっごく頭がよくって東大に平気でいけてしまうとしましょう。しかし同時に無茶苦茶面白くって芸人にでもなれば成功間違いなし、明石家さんまにだってなれるかもしれません。 この場合、どちらが得か、そんなことわかりませんね。東大いって官僚になったとして政治家にこき使われるのは不愉快かもしれません。面白くってさんま並みの地位を得たとしても、さんま同様家に帰っても誰もおらずそのことに耐えかねてしまうかもしれません。 しかしそんなこといくら考えても確実な答えなど…
アキレスと亀のパラドックスを考案したゼノン先生ですが、なぜこのような問題が重要なのでしょうか。 それは色々理由があるのですが、とりあえずここでは私たちが考えた問題と関係のありそうなところを取り上げてみましょうね。 アキレスは亀を抜かせないと考えたゼノン先生ですが、なにも実際にアキレスが亀を抜くことまで否定はしなかったと思います。当然当時から亀より速く走れる人はいたわけで、まさにゼノン先生の目の前で亀を追い抜いたことでしょう。抜いて走った人はゼノン先生に対して、ほら間違ってるじゃないか、と指差したと思います。それを見てゼノン先生は、お前が亀を抜いたのは間違っている、とは言わなかったでしょう。 で…
にほんブログ村 玉ねぎの使い方が無数にあるのではなく、玉ねぎの使い方は料理にあるのであって、料理のバリエーションが無数にある、ということになりました。つまり玉ねぎの使い方は作った人にとって一つなわけです。 考えてみれば当たり前のことですね。でも案外関係のないことでは気づかなかったり誤魔化されたりしてしまうかもしれません。 ちょっとここで有名な例を出してみましょう。 昔々、ギリシアにゼノンという哲学者がいました。この人はとても有名な「ゼノンのパラドックス」というものを考案したことで歴史に残っています。 それはどのようなものかといえば、アキレスという当時有名なとても足の速い人がいました。誰もこの人…
玉ねぎは炒飯、カレー、スープ、丸焼き? 〜色々な使い方とみんなひっくるめた使い方
にほんブログ村 カナヅチや玉ねぎの使い方であれば、作った人の決めたことに従っていてもいいかもしれません。たしかにカナヅチで人を叩いてはいけませんし、壁を叩いてもいけません。ちゃんと釘を打って欲しいところです。 ですが、玉ねぎはどうでしょう。玉ねぎの使い方って、炒飯かカレーですむものでしょうか。スープにいれてもいいですし、丸焼きにしたっていい気もします(XはAである Bである Cである Dである…)。 となると玉ねぎの使い方って、作った人によってどう決められるんでしょうか。まさか炒飯には入れてカレーには入れるなとは言わないでしょう。 まぁ、逆ならあるかもしれません。うちの玉ねぎは水分が多いので炒…
にほんブログ村 カナヅチを人を叩く道具と捉えてしまうのは困ったものです。ですからカナヅチは人を叩いてはいけません(XはBではない)、と定めてしまってもいいかもしれませんね。となるとカナヅチは人を叩くものではない、というように意味づけられるわけです(Xは-Bである)。 これは見返してみると、今までとちょっと違う意味づけの仕方ですね。今まではカナヅチとは釘を打つ道具である(XはAである)、とか、人を叩く道具である(XはBである)、なんて意味づけられていました。玉ねぎでも思い返してみましょう。炒飯に入れるかカレーに入れるか(XはAかBである)が意味づけの違いでしたね。 これらは◯◯である、という形で…
カナヅチの正しい使い方? 〜状況で決まるだけで正しくなるのか
にほんブログ村 となると、カナヅチの使い方というものは基本的になんでもありということになってしまいます。状況によって使われ方が決まるのであれば(状況Sによって物Xは◯として意味づけられる)、状況さえゆるせばどんな使い方をしてもかまわないからです(◯はSにより変化する よって 任意のSを設定すれば◯は任意に決定できる)。 もう少し日常的なたとえに落としこんでみれば、傘は雨の日にさすためにありますが(X傘 S雨の日 ◯さす)、暴漢に襲われた際には振り回すなりどつくなりしても問題はなく(X傘 S暴漢 ◯どつく)、傘自体の使い方はその都度の状況によって決まる、傘の正しい使い方は状況によって左右される(…
カナヅチはゾンビを叩くため? 〜意味づけは状況によって変わるか
にほんブログ村 もうちょっと考えを先に進めてみましょうか。 ちょっと不穏なたとえで申し訳ありませんが、先日カナヅチを釘を打つ道具なのに人を叩く道具としても受け取れる、と屁理屈を述べてみました。これは当然無茶苦茶な仮定なのですが、しかしこれをゲームの中の世界だとしてみましょう。 ゾンビゲームです。目の前からゾンビが沢山やってきます。放っておくとかじられてこっちまでゾンビになってしまいます。とりあえず安全な場所まで逃げなければなりません。そのためには身を守る道具が必要です。 この時、カナヅチは人ならぬゾンビを叩く道具として意味づけしても、別段おかしくはありません。それもゲームの中の世界だとすれば、…
にほんブログ村 となると一見同じように目えるものでも、実は違うということ。また一見違うように見えるものでも、実は同じということもあるわけです。 なにを当たり前のことを、とまた言われてしまいそうです。まぁ、その通りです。でもそれをわざわざここでは考えてみましょうね。申し訳ありませんね、そんなことばっかり。 一見同じようなものを考えてみましょうか。 昨日玉ねぎを炒飯に使うかカレーに使うか、カナヅチを釘を打つのに使うか人を叩くのに使うか、ということを屁理屈を述べて同じことのように説明してみました。どちらもXをAに使うかBに使うかであり、またXAとすればXBにはならない、という理屈でしたね。これはどち…
にほんブログ村 それともう一つ考えてみましょう。 玉ねぎは玉ねぎとして、炒飯やカレーと関係なく玉ねぎなのでしょうか。 何言ってんだ、と思われるかもしれません。だって玉ねぎは玉ねぎなんですもの。しかし玉ねぎを炒飯に入れるものとか、カレーの材料としてしか考えなければ、玉ねぎは単独で玉ねぎとして捉えてもらえないかもしれません。必ず炒飯やカレーと結びついてしか考えてもらえないかもしれず、玉ねぎは玉ねぎというだけでは意味をなさないかもしれないのです。 もちろん炒飯やカレーと関係なく玉ねぎは玉ねぎのままです。しかしカナヅチを考えてみましょう。カナヅチは釘を打つ道具だ(XはAである)、とまぁ、当たり前に考え…
玉ねぎから炒飯、炒飯から玉ねぎ? 〜意味は原因と結果、どちらから
にほんブログ村 そうするとそこにあるものは、そこにあるというだけでは、それが何かはっきりしていないと言えるかもしれません。 ですがこれもおかしな話ですね。だって玉ねぎもにんじんもそこにあるわけです。玉ねぎがなにか、にんじんがなにか、私たちはよく知っています。ただその玉ねぎやにんじんが、炒飯になるのかカレーになるのかが決まっていないだけです。 玉ねぎやにんじんから考えるとこれは当たり前のことに思えるのですが、炒飯やカレーから逆算して考えてしまうと、どうもそうは思えなくなってしまうのかもしれません。これを料理ではなくて子供の教育なんかに当てはめて考えてみましょう。 すると将来困るから、今のうちにこ…
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