他人に、自己をよりよく見せようとする心が悪い。ありのままに自己を排出する心がけが必要だ。いや、時によっては、ありのまま以下に見られることに満足すべきだ。
霊界よりの内流、すなわち、絶えることのない心の最奥よりの閃きをよく受け取り、これに従って道を進みさえしたなら、たとえ外見はどのようであっても、その人にとっては、それが真なのであり、したがって、愉快と興味とに、つねに、ひたることができるのであ
人間が真に、第一義的生活にさえかえることができたら、それで実は何もいうことはないのである。
なに、叱るものか。どんなことでも思ったことを父の前で言ってみるがよい。そんなら申し上げます。もうこうなってはお隠し申すもおよびませぬから。太子様がお帰りの時、妾の手をかたく握り、スバール姫よ、しばらく待っていよ。きっと迎えにきてやる。とおっ
自分がわからない人間は困ったものである。こういう人間にかぎって、むやみに傲然と構えてみたり、また、やたらに自己を無価値と考えたりしがちなものである。自己の素質、天分、職命というものが、おぼろげなからもわかって来なくては、真の仕事はできるはず
人間が真に、第一義的生活にさえかえることができたら、それで実は何もいうことはないのである。
関門弟子は、時代である。否定したら、負ける。
関門弟子、アジアを動かす勢い、それが、時節だ。神もかなわぬ。
時節には、神もかなわぬぞよ。
このブログは、総理大臣、官房長官、天皇陛下も見てます。海外でも見てます。
韓国、朝鮮、中国、ロシア、香港、台湾、見てます。そこまで、行きます。
父のシャカンナの意味ありげな言葉を聞いて、スバール姫はなんとなしに前途有望のような感じがムラムラと湧きいで、うつむきながら、顔を紅に染め、恥ずかしげに言う。お父様、遠慮会釈なく思っていることを言えとおっしゃいましたから、今日は妾の一生の一大
玉ばかりではない。人においてもそうである。すべて何事においても、背景というものは重大な役目を演じているものである。この背景に目をくらまされるのは素人である。真の批評家は、絶えず、役者そのものの本質に目をそむけている。
現代のように、精神上の悩みが多いのは、これはまったく、物質にのみ堕して、主たる霊的職能を放棄しているためである。このことは、個人的にも、心と肉体との関係をよく考えてみればわかる。肉体の保持栄養のために、心にもない業にのみいそしんでいることの
恋愛は神聖だ。宗教的信仰と正しき恋愛とは、人間の霊魂を優美に向上させるものだよ。正しき信仰と完全な恋愛は人間の心霊を発育せしめ、永遠無窮の生命を与えるものだ。しかし現代人のいうような浅薄な恋愛観ではだめだ。すべて恋愛というものは、性欲から分
玉もそのところに置かれざれば、価値を知るもの稀なり。世人の八、九分までは、真にみずから価値を認めて賞美するにあらずして、価値ありとせられているがゆえに、これを価値ありとするに過ぎない。俗評の取るに足らぬということは、これをもっても知ることが
だから、もし人間が、真にその使命を自覚し、神界との関係がわかってきだしたら、元来が半霊半物質的に造られているのだから、たいした精神的苦悩もなく、喜んでその日その日を送ることができるはずなのであり、また、できなければならないのである。
一生、手くせの直らない老人
関門弟子の友達は
すずめ百まで雄鳥忘れずとかいうけれど、恋愛というものは年をとってもなかなか下火にならんものとみえるな。じつのところおれは、この問題の解決にゃ、いささか迷っているのだよ。
総合的なるがゆえに、いろいろの事物にぶつかってのち、はじめて神意を悟るものである。ゆえにその悟りや、おそく鈍なりといえども、一度把握すれば、確固として動ぜぬところのあるのは男である。むろん、女を男のごとくすることは不可能である。男体に女霊が
冬の朝は老人がコロコロ死ぬよな。粟生間谷はコロコロ死ぬよな。
人間本来のみたまは、みな、神から授けられた生粋なのだが、これに少しの隙から邪悪分子がまじって、にごしているだけなのである。その証拠には、どんな人間にでも、良心、というものがあって、悪事をしながらも、心の奥底のどこかでは、ああこれは悪いことだ
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