一の谷の鵯越の決戦が近づく中、やはり問題になるのは、「誰が先陣の誉れを得るのか」という事です。 「先んずれば人を制す」の精神がここまで徹底しているのも、面白い。 最終的に勝を手に入れる、という考え方よりも、目の前に転がっている褒美を誰が手に
あなたの「書けない」を「書きたい」へ 作文や小論文の書き方指導、国語対策や受験メンタルケアなど
オンライン文章塾のブログ。 作文指導を中心に、自己推薦文やエントリーシートなどの書き方指導、添削、受験のお悩み相談など、ありとあらゆる文章作成に対応します。 ブログでは文章の書き方や、国語のテスト対策、古典の読み方、面白解説などから、いじめの心理分析。文章を書くことによって得られる劇的な効果を書いています。 社会に出て、必須となる文章能力。あなたも一緒にみにつけませんか?
9/26 平家をあざ笑う落書の妙 平家物語第5巻48章「富士川」その3
富士川の、無様な敗北シーンは瞬く間に日本(ひのもと)すべてに広がります。更にここで面白いのは、頼朝が追撃をしなかったことです。石橋山での敗北の記憶が鮮明だったのか、それとも北条家をはじめ、坂東の武者達を完璧に統率しているわけではない、という
9/19 怯えが敵の姿を大きくする 平家物語第5巻48章「富士川」その2
さて、世に名高い富士川の戦いの始まりです。けれど、この戦いは戦いというにはあまりにもお粗末な状態で、平家敗走の印象が強くついてしまった戦いでもあります。ある意味、坂東の土地では、坂東同士で争わせた方が良かったのでは……と思わずにはいられませ
9/12 富士川合戦の序章 平家軍に広まるうわさ 平家物語第5巻48章「富士川」その1
さて、歴史に名高い(笑)富士川の戦い。やはりこの平家物語が源氏側の立場で後世書かれたことが解るのは、石橋山の戦いの詳細は、あまり書かれていないことです(笑)石橋山で敗れた後、本来ならばそのまま忘れ去られても良かったであろう存在の頼朝が盛り返
9/5 平家きっての和歌の名手 忠度と宮腹の女房の和歌 平家物語5巻47章「平家東国下向」その1
怪僧文覚の飛んでもエピソードの次は、雅な和歌の世界と恋愛のお話です(笑)ギャグのはちゃめちゃ漫画の後に読む少女漫画のようなアップダウンですが、順番だから仕方がない(笑)ここで出てくるのは重盛の嫡男・維盛。この維盛、授業でも話しましたが光源氏
さて、この文覚のシーン。平家物語の主たる流れからすると、あまり関係がないのですが、どうしてもこの髑髏のくだりだけは読んでいただきたくて、この部分を取り上げました。胡散臭い(げふん)僧侶が何故にこんなにまで名前が残っているかというと、この圧倒
「ブログリーダー」を活用して、BUNLABOさんをフォローしませんか?
一の谷の鵯越の決戦が近づく中、やはり問題になるのは、「誰が先陣の誉れを得るのか」という事です。 「先んずれば人を制す」の精神がここまで徹底しているのも、面白い。 最終的に勝を手に入れる、という考え方よりも、目の前に転がっている褒美を誰が手に
2024年版大河ドラマ「光る君へ」第9話でも注目される花山天皇と藤原道兼の名シーン。 高校古典の教科書で必ずと言っていいほど取り上げられるこのシーンを、テスト対策も含めて現代語訳・文法・解説をしていきます。
筑摩書房の論理国語から、夏目漱石著「現代日本の開化」を解説します。もともとは講演の内容である今作は、1911年。明治44年に行われた講演の内容ですが、明治の終焉を控えた時期に文明開化に浮かれていた世情の中、外発的に行われた開化は、どんな影響を人々に及ぼしていくのかを漱石が語りました。現代にも通じる鋭い漱石の視点から、外からの圧力で変わることの歪さを解説します。
甚だしいネタバレが散見される平家物語ですが、軍記物の常として、「これは皆、もう知っているから」というのが、常識としての大前提だったのが見て取れるのは、面白いところです。 これは、源氏物語との違いなのですが、源氏にはネタバレが一切書かれていま
さて、鵯越の逆落としが徐々に近づいてまいりましたが、義経の輝かしい武功でありつつも、同時に物語にすら、坂東武者たちとの微妙な距離感が漂っています。 実際にどうであったかは本当に分からないのですが、荒くれものでありながら、反面人情家で人の気持
夜中に奇襲を受け、あっさりと三草山に布陣した平家は痛手を受けて撤退します。その撤退の仕方が、屋島まで一気に退却しているので、平家側の「陸はダメだ!! 海なら追ってこない!!」と焦りを物語っております。 そして、一の谷では軍略の会議が行われま
さて、布陣も固まり、源氏側が軍を進めていきます。 大手側が範頼。 搦手が義経なのですが、この三草山攻略が、後の一の谷へとつながっていきます。 当時の進軍の図になりますが、大手の範頼は海岸線を京から真っすぐ須磨に向かうのに対し、搦手の義経はほ
ざっくりと除目と言う行事について、この部分で語られていますが、この役目を任官するという行為は、朝廷のみに許されている権威の象徴となります。 三種の神器と同じで、天皇のみに許されている行為をすることによって、「正統派の天皇はこちらだ!!」と主
さて、西国での平家の動向ですが、能登殿、平教経の活躍が凄まじく、平家随一の猛将であったことが伺えます。 源氏の猛将を義経とするのならば、平家の猛将はこの教経に成ります。 この時の年齢は、若干23~24歳。 義経とほぼ同い年のこの猛将は、この
さて、義仲が滅びた後、とうとう九郎義経が京に入り、本格的な平家討伐の準備が整います。 その義仲が京で暴れている中、もし平家が攻め込んできたら三つ巴の戦いになり、どうなっていたかは分からないのですが、その時、平家は平家で泣き暮らしていたわけで
さて、平家物語屈指の滅びのシーンと評され、どこか朗らかさが感じられる頼朝軍の行軍の様子とは違い、悲愴さがにじみ出ている義仲軍のその後ですが、市中引き廻しの上さらし首。樋口にいたっては、引き廻しの上、六条河原で処刑。 これは史実に照らし合わせ
さて、義仲の軍が敗走を続ける中。 源平合戦の発端と言うか、厄災を振りまきながら行軍している疫病神というか、中々にすごい逃げっぷりを見せている十郎蔵人=源行家ですが、世の風を読み、権謀術数に長けていても、実際の軍隊指揮に関しては全く才能がなか
平家物語の中でも屈指の名シーンであり、一人の武者の最期をここまで華々しく語っている場面は、他にはありません。 他の名シーンはどちらかというと、世を儚んで嘆きながら、というのが定番なのですが、ここまで嘆きの部分がなく、最初から最後まで戦いの中
さて、長年古典の教科書に採用され続けている有名な名文です。 (+敬語の初歩を学ぶ題材にもなっております(笑)) 長い長い平家物語の中で、巴の登場は義仲が都落ちをする直前の名前での登場と、この最後の軍姿のみです。(もちろん、後世描かれた源平争
義仲の軍は側近以外は、平家に支配に反発した地方の軍勢の寄せ集めです。 それでも戦いとなれば用をなしたので、そのまま京に連れてきたことと、京内での具体的な戦闘もなく勝ってしまったことが、その悪い面を引き出しました。平家に勝ったのだから、平家の
さて、宇治川の戦いで義仲軍を蹴散らし、一気に京の中心部へと軍をすすめた義経。 義仲の基本戦法は、軍を複数に分けて配置し、包囲戦を行うことがこれまでの定番でした。地の利が圧倒的に強い北国での戦闘ならばそれも通用したのでしょうが、地の利が少なく
さて、平家物語名物、宇治川渡河の乱です。 平家物語だけでなく、吾妻鏡も太平記も、京攻めで必ず戦局の要所として描かれる宇治川。 現代では平等院鳳凰堂がある、お茶の名産地としてののんびりとした光景が残っている場所ですが、平安時代からここは、京の
さて、宇治川の先陣を巡ってのドタバタの中で、一抜けをしたのは梶原さんではなく、佐々木さんでした…… 卑怯な手を使った方が誉に当たるという、「誉」ってなんだったっけ? と思わずにはいられない状況です。それぐらい、先陣の誉はとても名誉があり、文
さて、 生唼と摺墨。 歴史に名を遺す名馬ではありますが、とても良いものはそれだけ争奪戦も激しいということで…… それよりも何よりも、今、戦中なんですが? と問いかけたい気持ちになりますが、戦だからこその争いなのかもしれません。 少し面白い情
さて、坂東武士の性質をとっても良く表しているこの「宇治川」のエピソード。 実は、範頼・義経の軍が義仲を京から追い出し、討伐するのは、たった1日の出来事だったりします。 スピード解決にも程があるこのスピード感(笑) けれども、これは義仲が京の
さて、義仲の快進撃の噂が日本全国に響き渡ったあたりで突然比叡山に届いたお手紙。それに対する返答として、山門は上から下から大論争となりました。その中で興味深いのは、仏の教えを体現することが主たる存在意義のお寺が、「平家は落ち目だ。開運している
さて、牒状の本題です。これまでのあらすじを読んているかのごとくに、以仁王の令旨が巻き起こした源氏旗揚げの切っ掛けが書かれおります。これは、平家物語が巻物として出来る間、どれほどの間が空いたかははっきりと分かっていませんが、誰もが巻物を手元に
倶利伽羅峠の戦い後の義仲上洛までの流れです。越前から京都に上るには、どうしても近江(滋賀)を通らなければなりませんが、山を通るにしても、地上を通るにしても、京への北からの出入り口には、がっつり両方とも比叡山延暦寺の僧兵が待ち構えていました。
老兵実盛の最期のエピソードです。髪の毛を洗った後、白髪が現れて、黒く染めていたことが解った実盛ですが、何故錦の直垂(本来ならば大将しか身につけられない、高級な鎧)を付けていたのか。その謎が、今回、授業で読んでいない場所に書かれています。実盛
歴史に名高い倶利伽羅峠の戦い。義仲の戦略的に有名な話であり、平家の2度目の惨敗といってもよいので、やはり栄枯盛衰は記憶に刻まれやすいのがこのエピソードからも解ります。この斎藤別当実盛。最後の所領はどこだったのかなと思って調べてみたら、生まれ
有名な「実盛」へのつなぎともいえる部分。偶然ですが、年始に新歌舞伎の演目で、「実盛」が上演されていたのを今知りました(笑)見に行けばよかった……目立つのは、やしり義仲の軍を率いる大将としての嗅覚です。目の前の勝利に酔わず、自分が配置した軍の
今回は木曽義仲の戦いで有名な、「倶利伽羅峠の戦い」の始まりを読んでいきます。この倶利伽羅峠の戦い。何故名高いかというと、「源平盛衰記」のエピソードが有名だからです。牛の背中に火をつけた藁を載せ、平家の軍になだれ込ませた、という「火牛攻め」平
富士川での敗走は別としても、こうやって戦いのくだりを読んでいると、当時でも戦は「情報戦」と「心」が肝心なのだということが解ります。「情報戦」は、ハッタリだろうが何だろうが、自分たちのいる場所を隠し、相手が「そこに敵がいる」と思わせられるかど
さて、平家物語らしい合戦の始まりです。清盛が亡くなり、その喪が明け、本格的な頼朝討伐が始まります。本格的に坂東に兵を送る前に、まず京の治安を守るための北陸への出兵になりますが、平家はあっという間に負けたのでは? というイメージとは違い、やは
さて、時代は「鎌倉殿」でも描かれた義仲との談議に移ります。清盛の弔いが終わった平家側が、頼朝を成敗しようと軍隊を整えておりました。その折、木曾義仲が北陸道で兵を整えているとの話に、遠い坂東への出兵ではなく、近い北陸からの平定を平家は望み、義
なんとなく、まだ鎌倉時代に心が奪われている状態です(笑)話は戻って……吾妻鏡の続きですが、泰時に対するデマが鎌倉では流れていた、という書かれ方ですが、これが本当なのかどうかはあやしいと言われております。何故かというと、承久の乱の総大将は泰時
吾妻鏡でのそれぞれの絶命の瞬間はあっさりだったり、実朝の暗殺のように、とても創作性が強そうなぐらいにずらずらっと書かれていたり、様々な描き方をされているのですが、鎌倉幕府でおそらく一番の権力者である義時の最期は非常にあっさりです。脚気であっ
いつもとは打って変わって、漢文調の吾妻鏡になります。漢文はとても堅苦しく、難しく感じますが、一定のパターンがあり、それに慣れてしまえば実はとても訳しやすいものになります。でも、官職名は唐式なので、読みなれないですよね。ちなみに義時の官職。右
古今東西、権力者に愛された女性たちの悲劇、喜劇は数多く存在しますが、それと同時に下賜も多く存在しました。後宮で飼い殺しにされるよりは、忠臣の正妻として扱われた方が幸せの場合もありますし、もちろんその逆もあり得るのでしょう。もらえるのならば、
2012年度(ちょうど10年前ですね)に大河ドラマとして放送された「平清盛」の元ネタになった部分です。清盛の父親は、忠盛ではなく、白河院だったと言われている逸話を設定として採用しております。これは面白いのですが、日本の政治は西洋と違って、「
この清盛の死の描写ですが、あまりにも文学的であり、常軌を逸している描写が多くありますが、それだけこの清盛の急死は、当時の人々にはあまりにも信じられず、あのような偉業を成し遂げた人が、普通の死に方をするはずがない、という思い込みが働いておりま
人間として、決して避けられないもの。「死」が清盛に訪れます。その死後の京の都の様子が描かれるのですが、京の貴族が何よりも厭うのは、「死の穢れ」です。おそらくは、平安末期であったとしても貴族たちはそれを何よりも避けるので、おそらくこの弔問は武
ページを上げるのが大変遅くなりました。(体調戻りました。ありがとうございます)さて、永遠に続くかに思えた平家の栄華も、崩壊に向かって加速度を高めます。清盛の失策は何だったのか。もちろん、一つの失策が崩壊につながったわけではないと思うのですが
さて、とうとうメインのパートがやってきました。平家物語の醍醐味。栄枯盛衰の、枯、と衰の部分です。富士川の敗戦もそうですが、アレはまだ「戦っていない」ということと、総大将が若い維盛(富士川の戦い時、19歳 数え年21歳)であったので、まだそこ
さて、長い平家物語もちょうど中間地点。ここまでは当時の朝廷の状態がどうであったのか。平家の中の人々がどうであったのか、という今の小説で言うのならば「前フリ」のような部分でしたが、ここから怒涛のように様々な歴史的出来事が毎回起こってきます。恐