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  • 靖国神社に対する小野田神父様の見解 ー

    靖国神社に対する小野田神父様の見解を掲載いたします。靖国問題について、いろんな意見があり、SSPXの支持者の間で間違う方が出るといけないと思うからです。小野田神父様はカトリック信者の靖国神社参拝に強く反対しておられます。その理由は以下になります。以下、小野田神父様からのメールを転載いたします。神父様の見解ですが、聖ピオ十世会の見解に近いと考えていいでしょう。聖ピオ十世会は、日本の、本部やアジア管区では到底把握できない問題について見解を出す場合、普通は小野田神父様に意見を求め、大いに参考にすると思われるからです。アヴェ・マリア・インマクラータ!なるほど、ご質問をありがとうございます。(1)私は、靖国は「宗教」だと思います。これについては、戦前、靖国神社それ自体がそれをもう認める寸前でした。もしも私の理解が正しけれ...靖国神社に対する小野田神父様の見解ー

  • 靖国神社に対する小野田神父様の見解 ー 参拝は許されるか

    靖国神社に対する小野田神父様の見解を掲載いたします。靖国問題について、いろんな意見があり、SSPXの支持者の間で間違う方が出るといけないと思うからです。小野田神父様はカトリック信者の靖国神社参拝に強く反対しておられます。その理由は以下になります。以下、小野田神父様からのメールを転載いたします。神父様の見解ですが、聖ピオ十世会の見解に近いと考えていいでしょう。聖ピオ十世会は、日本の、本部やアジア管区では到底把握できない問題について見解を出す場合、普通は小野田神父様に意見を求め、大いに参考にすると思われるからです。アヴェ・マリア・インマクラータ!なるほど、ご質問をありがとうございます。(1)私は、靖国は「宗教」だと思います。これについては、戦前、靖国神社それ自体がそれをもう認める寸前でした。もしも私の理解が正しけれ...靖国神社に対する小野田神父様の見解ー参拝は許されるか

  • 靖国神社に対する小野田神父様の見解 ー 参拝は許されるか?

    靖国神社に対する小野田神父様の見解を掲載いたします。靖国問題について、いろんな意見があり、SSPXの支持者の間で間違う方が出るといけないと思うからです。小野田神父様はカトリック信者の靖国神社参拝に強く反対しておられます。その理由は以下になります。以下、小野田神父様からのメールを転載いたします。神父様の見解ですが、聖ピオ十世会の見解に近いと考えていいでしょう。聖ピオ十世会は、日本の、本部やアジア管区では到底把握できない問題について見解を出す場合、普通は小野田神父様に意見を求め、大いに参考にすると思われるからです。アヴェ・マリア・インマクラータ!なるほど、ご質問をありがとうございます。(1)私は、靖国は「宗教」だと思います。これについては、戦前、靖国神社それ自体がそれをもう認める寸前でした。もしも私の理解が正しけれ...靖国神社に対する小野田神父様の見解ー参拝は許されるか?

  • スータンの禁止の弊害

    さらに、スータンをなくそうと言うことは、まだ存在している宗教感情を誤って判断することです。私たちが事業において、あるいは偶然に、出会う人々が皆宗教とは関係なく生きているなどと思うことは全く根拠がないのです。エコンを卒業した若い司祭は、また匿名の思潮に身をゆだねなかった人は全て、そのことを毎日経験します。現実はその全く反対です。道路で、駅で、人々は、若いエコンの司祭を呼び止め、彼らに話しかけるのです。しばしばそれは、ただ、この人たちが司祭にあってうれしいという喜びを伝えたくて、彼らを呼び止めるのです。新しい教会では対話を強く勧めています。では、もし私たち司祭が、対話の相手となる人々の目から隠れようとしていて、どうして対話を始めることができるでしょうか。共産主義独裁において最初に指導者たちが配慮したことはスータンを...スータンの禁止の弊害

  • 万人司祭主義の影響の下に

    全ての宗教において、宗教の指導者はそれとわかる区別の印を身につけています。人が重要視している人類学もそのことを証明しています。[司祭階級の存在しないはずの]イスラム教徒でさえも、別の服や、襟首の違い、指輪などで指導者を区別しています。仏教徒も黄色の長い服を着たり、頭を特別に剃っています。パリやそのほかの大都市には、仏教を信じてしまった青年たちがいますが、特別の服装をしていたからといって何の非難も起こりません。スータンというのは、軍服や、平和部隊の制服と同じように、制服として聖職者、修道士、修道女という身分を保障するものです。もちろん、軍人と修道者では違いがあります。軍人は平服に戻ればその他の人と同じ市民になります。しかし、司祭は社会生活のいかなる場合においても区別の印であるスータンを必ず身につけていなければなら...万人司祭主義の影響の下に

  • 教皇パウロ6世はキリストの福音と正反対の考え方を持っていた

    1976年、私はカステルガンドルフォに、教皇パウロ6世聖下を謁見しようとに出向きました。そのとき私は教皇聖下にこう申し上げました。「聖下、聖下は今フランスに公式の奉献文が13あるのをご存じでしょうか。」教皇様はそのとき両腕を上にあげられ私にこうお答えになりました。「大司教様、もっとですよ、もっと。」ですから、私の次の自問自答は、根拠のある問いなのです。つまり、もし典礼学者たちがラテン語で典礼文を作らなければならなかったとしたら、それほど多くの典礼文が存在していただろうか、という問いです。あちこちで印刷された後に出回っているこれら多くの祈祷文以外にも、司祭が司式の真っ最中にアドリブで作り上げる様々な祈りの文、そして「罪の悔い改め」の儀式に始まって「派遣の言葉」に終わるうちに起こる全ての変更のことも、言わなければな...教皇パウロ6世はキリストの福音と正反対の考え方を持っていた

  • イスラム教はコーランでのアラビア語の強制によって統一性を保っている

    そのような共同体は何らかの利益を得るでしょうか。特定の典礼言語が、普遍言語であるラテン語を使っている人々(もしかしたら、多くの人々はその意味が理解できないかもしれませんが、翻訳物を見ることができます)よりも、熱心にしたし、より宗教を実践するようになったと言うことは、明白であるとは誰にも言うことができません。もし、カトリック教会外を見てみるとすると、イスラム教は、トルコ、北アフリカ、インドネシア、あるいは、ブラック・アフリカなど、様々な地域、様々の民族に広がっていますが、どうやって統一性を保っているのでしょうか。それは、彼らに、コーランが書かれている唯一の言語としてのアラビア語をどこにでも押しつけることによってです。私は、アフリカにいるとき、マラブー族の人たちが、その一言も訳の分からない子供たちに、コーランの節を...イスラム教はコーランでのアラビア語の強制によって統一性を保っている

  • 典礼からのラテン語の撤廃は各国の教会の相孤立化を招く

    私たちは、ラテン語などのような外的な二次的な形式にこだわっているとも非難を受けます。ラテン語というのは、誰にもわからない死語であって、キリスト教徒たちは17世紀にも、あるいは19世紀にも、ラテン語を理解していなかった、と言い張るのです。彼らによれば、教会が、ラテン語などそれほど長く廃止せずに今に至るまで待っていたのは、教会のいい加減さを表しているそうです。私は、教会が正しかったと思います。カトリック信者たちが、ミサのすばらしい本文をもっとよく理解したいという必要を感じたとしても驚くには値しません。彼らはこの中に霊的糧を汲み取り、目の前で行われる行為により密接に伴になりたいと望んだのでした。しかし、ミサ聖祭の最初から最後まで俗語を適応してその必要を満足させようと思ったのではありませんでした。サン・ニコラ・デュ・シ...典礼からのラテン語の撤廃は各国の教会の相孤立化を招く

  • 教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまったカトリック信者たちへ

    ルフェーブル大司教の公開書簡その5「それは昔の話ですよ!」5カトリック信者は根本からの変化が行われていることを感じていても、すべての革命に共通するしつこい宣伝に抵抗するのは、難しいものです。彼らはこう言われるのです。「あなたは変化を受け入れないのですか。でも変化というのは生きている証拠ですよ。あなたは固定観念にとらわれています。50年前に良かったことは、もう今の時代の考え方にもあっていませんし、私たちの今の生活にもあっていません。あなたは自分の過去にあまりにもビッタリとくっついて、自分の習慣を変えることもできなくなっているのです。」多くの人たちは、「あなた達は遅れている、過去にしがみついている、あなた達は現代に生きていない」などという論争に火をつけるような非難から、身を守るための議論のやり方がわからず、このよう...教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまったカトリック信者たちへ

  • ミサを改悪して以来、カトリック教会の凋落は始まった

    何故なら、私は本当のことを言い、私が間違っているという怖れなく次のことを断言しなければならないからです。すなわち、ピオ5世によって法文化されたミサは、(よく人はピオ5世によって作られたものだと誤解しているのですが)明らかに次の3つの現実を曖昧さもなく表明しています。それは、ミサが犠牲であることと、主の御聖体における現存と、司祭の司祭職です。このミサはトレント公会議が明確にしたように、人間が天主にかかわることを黙想するように心を挙げるためには何か外的な助けが必要であるという、人間の本性をよく知っています。これまでに確立された多くの習慣は偶然できたことではありませんでした。これらは、出し抜けに、何らの損害を受けずに、変更したり廃止したり出来ないものです。このミサの改革を取り入れて以来、どれ程多くの信者が、どれ程多く...ミサを改悪して以来、カトリック教会の凋落は始まった

  • トリエントミサがない時は、新しいミサに与ってもいいのか?

    トリエントミサがない時は、新しいミサに与ってもいいのか?しかし、司式者の意向はどうやって判断したらいいのでしょうか。司祭たちの信仰が弱まるにつれ、彼らが「教会が常にしていたことをする」という意向をもはや持たなくなるにつれ、(というのは、教会はその意向を変えることができませんから)ますます有効なミサが少なくなっているということは全く明らかなことです。いわゆる現在「神学生」と呼ばれている人たちの受けている養成では、有効なミサを捧げられるようにとは、彼らを準備していません。神学校では、ミサ聖祭の犠牲が司祭生活の基本的な事業であるなどと考えるようには彼らに教えていないからです。他方で、全く一つも誇張なしに、ほとんどの[新しい]ミサは、祭壇石もなく、低俗な祭具で、種入りのパンで、カノンの真っ最中でさえも世俗の話が導入され...トリエントミサがない時は、新しいミサに与ってもいいのか?

  • 中には無効のミサもある

    皆さんはもう気が付いたかも知れませんが、今日では司祭のほとんどは、「主はご受難の前夜、いとも聖なる御手にパンを取り・・・」で始まるカノンの最重要部を、一気に読んでいます。しかし、聖伝のローマ・ミサ典書の司式次第には「親指と人差し指でホスチアを両手に取り、ホスチアの上に、小さい声で、しかしはっきりと、注意深く、聖変化の言葉を発声すること」と記されており、聖伝のミサでは、一休みがあり、この言葉を聖変化させる意向で発声しなければなりません。何故なら、ここで祈りの調子が変わるのです。[聖変化の]祈りは、公式命令の(=intimatoire)形式を取るからです。"HocestenimCorpusmeum"という5つの単語は、全実体変化の奇跡を起こすのです。それはぶどう酒の聖変化の言葉でも同様です。新しいミサ典書には、司式...中には無効のミサもある

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