高校受験を控えている長男は週末も図書館で勉強をしている。私の住んでいる図書館は最近建て替え、比較的自習がしやすい環境に備えてくれ、隣町からも来るほど人気があるみたい。最近ヘンデルのメサイアのコンサートを無料で聴くことができた。クリスチャンとして、この曲を
日々の中で、本来やりたいと思っていた正しいことができなかったり、思い通りに良いことや親切なことができず、疑問に思ってしまうことがある。ムリヤリ良いことをする選択もできるが、その時、心がついてこず、偽善となって終わり、何だったんだろうと終わってしまう。この
慰めるって素晴らしい行為である。相手を思いやり気遣い自分を犠牲にする愛が含まれていて、神様の愛が実践される。慰められる側は、もはや自分ひとりの重荷ではなくなり、慰める側がその重荷を受け取り理解してくれるから心の負担が軽くなる。聖書で神様は愛であり、慰めの
長男は高校受験のため、日々勉強に励んでいるが、元気がない。今やる意義や将来のことを諭し、厳しく激を入れることを演じていたが、聖書を読んでいると、愛や慰めといった箇所が心に響くようになり、親として、違うアプローチも必要だと自覚した。放課後図書館で勉強してい
人間的な考えと神的な考えは相反する。他の宗教は知らないが、キリストの聖書を理解できるとその違いが鮮明になる。最近になって理解できたことがある。それは、行いの良し悪しによって、神から受ける恵みに違いはないということである。人間的な考えは、良い行いをすると、
私がキリスト教を信仰することになった一番のきっかけは、出会った宣教師の老夫婦が今まで出会ってきた人たちと全く違ったからである。まさしく、私を全くさばかない。話をしていても、何か和むし、安心できた。シーンとしている時間も平安だった。そして、むしろ愛をもって
人は他人をよくさばく。人の悪口を言うだけでなく、批評をしたり、ゴシップを言ったり、人のやっていることに対し、自分の意見としてこうあるべきだと述べたり。なんで、他人を尊敬し、自分とは違う存在として受け止め、他人の行いを尊重できないのか。他人の考えや行いが自
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