【108年前、大正初期の南紀・田辺市の街区と現在】
南方熊楠さんの自邸探訪その2であります。こちらの敷地はおおむね400坪ほどで、江戸期に紀州藩の「支藩」であった安藤氏の城下町というのが街区の由来。旧邸で質問にお答えしていただいた女性からの伝聞では、南方家というのは、この安藤氏の家臣の家系であって熊楠氏の父親は明治以降、金融業で財を成したのだという。そういった経済的背景で次男であった熊楠氏は、夏目漱石や正岡子規などと同時期に東大の予備門で学び、そこから海外遊学にまで旅立って行ったとのこと。明治という時代の雰囲気、その空気感がかれの学業・探究に大きな基礎を形成していたことがわかる。その家系環境の中で、南方家の財産分与のようなカタチでこの400坪の屋敷地は熊楠氏にわたった。さすがに郷土を代表する人物について地域を挙げての調査活動がされていて、上のような「当時の...【108年前、大正初期の南紀・田辺市の街区と現在】
2024/10/31 06:32