神道、仏教、スピリチュアルな経験や知識、仕事や武道を通じた気づき、心をラクにするヒントを伝えます。
[雨ニモマケズ](宮沢賢治)雨ニモマケズ風ニモマケズ雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ慾ハナク決シテ瞋ラズイツモシヅカニワラッテヰル一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベアラユルコトヲジブンヲカンジョウニ入レズニヨクミキキシワカリソシテワスレズ野原ノ松ノ林ノ蔭ノ小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ南ニ死ニサウナ人アレバ行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ北ニケンクヮヤソショウガアレバツマラナイカラヤメロトイヒヒドリ(日照)ノトキハナミダヲナガシサムサノナツハオロオロアルキミンナニデクノボートヨバレホメラレモセズクニモサレズサウイフモノニワタシハナリタイ(おしまい)『泣きなさい笑いなさい』おまけ
遥か彼方の座席で映画を観ている私たちというのは、今この私たちと一つに繋がっています。どちらか一つということではなく二つで一つです。二者は遠く離れているように感じますが、その間はすべて私たちで埋め尽くされています。それを、何層にも連なっているという言い方もできますが、正確に言えば隙間なく繋がっている状態です。人間の体に喩えるなら、頭のてっぺんを今この私たちとした場合、足のつま先が映画館にいる私たちといった感じです。どこで切り取るかによってそれぞれ違うところに存在しているように見えますが、その全てで一つの私たち。一つ一つが個別に存在しているのではなく、すべてが一つの私たちです。その一端は、今この現実においても垣間見ることができます。それはただボーッとしてみることです。本当にボーッとするだけ。雑念が湧いてきても、それ...『泣きなさい、笑いなさい』
次々と仕事やトラブルに追われ続けていると、何もしなくていい状態に憧れるものです。でも、いざ何もしなくていい状態になったら、それを幸せに感じていられるのは、せいぜい一週間程度かもしれません。たとえお茶汲みでも掃除でも、何かやることがあればマシですが、「本当に何一つやることが無い」となると、これは本当にツラい。もちろんパソコンでネットを見たり、携帯をチェックすることも出来ないという前提です。もしかしたら半日も耐えられないのではないでしょうか。ウトウトすることもできない、時間潰しのネタもない。ただ椅子に座って時間が過ぎるのを待つ。ついつい時計を見てしまうけど、10分も進んでいない。嵐の忙しさの時はあんなにも時間があっという間に過ぎたのに。何もやることがない、何もやれない、時が過ぎるのを待つだけというのは、あらゆ...平穏無事はつまらなかった
私たちは、自ら積極的に観る立場にあります。観させられるという受け身の立場にはありません。与えられることに慣れてしまうと、まわりの景色が何も見えなくなります。与えられた情報、与えられた悦楽は、与えられた世界を作ることになります。本当の世の中とは何なのか。本当の悦びとは何なのか。世の中には情報や悦楽が溢れかえっています。そうしたものをシャワーのように浴びていると、私たちはあちこち心が移ろい、見知らぬ誰かに身を任せる根無し草となっていきます。しかしそれが、コロナによって世界中で強制的に自宅に籠らされました。それまで自由を謳歌していると思っていた身にとっては、まるで座敷牢にでも入れられたような鬱々とした気持ちになりました。しかし、それこそは自分の景色を直視させられた瞬間だったわけです。これまでの自分の生き方、過ごし方が...色々なことに気づくとき2
日々の暮らしというのは様々なものに囲まれ、無意識のうちにあれやこれやと心が飛びまわります。仕事に追われてる時もそうですし、家にいる時もそうです。目まぐるしく変わる景色。湯水のように流れ込む情報。そんなこんなに振りまわされ翻弄される自分。そうなると週末はとにかく家から出て、どこか遠出しようとするのは人間の本能だと言えるでしょう。目が回るような日々のまま土日も家の中で悶々としていては、体は休めても心は休めず、エネルギーが枯渇していくばかりです。気持ちの切り替え、リフレッシュはとても大事なことです。そうしたリセットの一つに、たとえば喧騒を離れ山奥の禅寺に籠るというものがあります。寺に行って何をやるかというと、特別なことをするわけでなく、ごく当たり前の生活を繰り返すだけです。炊事や掃除、坐禅といった単純な作業を黙...色々なことに気づくとき
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