恒例の芸名が違う大映の同一の俳優その4蔵方しげると桃山太郎子役として「浅草の夜」(1954年)や「いとはん物語」(1957年)などに出演してた蔵方しげると、「赤胴鈴之助 黒雲谷の雷人」(1958年)で二代目赤胴鈴之助に抜擢された桃山太郎は同一人物だった。 1943年(昭和18年)生まれ。48年劇団若草に入り後に大映専属となった。赤胴鈴之助シリーズ出演を機に桃山太郎に改名したがまもなく芸能界から退いた。橋本敏子と美川純子...
資料が残っている他社に比べ倒産した大映のニューフェイスは詳細がわからない。個人的に情報を収集した結果をまとめてみる(随時更新)。 大映のニューフェイスは戦後間もない1945年に始まり、以後ほぼ毎年行われて1969年の第20期まで続いている。1959年からは京都撮影所でも始まり 、こちらも1969年の第6期で終わっている(なお末期はフレッシュフェイスとも呼ばれていたようだ)●第一期(1945年)折原啓子、美奈川麗子(本名・篠...
脇役俳優の細川啓一はデータベース上の最古の出演記録が1952年3月の「長崎の歌は忘れじ」なので、若尾文子と同じ5期あたりだと思っていたが、彼自身が『大白蓮華』(聖教新聞社)に書いている随筆によると、第1期ニューフェイスだったそうである(彼は創価学会の信者だったようである。それはともかく)59年の「海軍兵学校物語あゝ江田島」では新人の本郷功次郎や三田村元と並んで1号生徒役を演じているので、若いのかと思っていた...
1951年(昭和26年)、大映は創立十周年記念として「スタア探し」なる新人コンテストのイベントを行い、全国の応募者から11月31日、日比谷公会堂での最終審査でミス・ニッポンミスター・ニッポン各1名、 準ミス·ニツポン準ミスター·ニツポン各4名を選出した。この10人は演技研究所に入所し研修を受けたのだが、これがそのまま第6期のニューフェイスになったようである。ミス・ニツポン 兼田實枝子ミスター·ニツポン 若林弘準ミス·...
大映俳優・蛍雪太朗は螢雪次朗の師匠と伝えられる以外、何も経歴その他がわからない。まあ螢雪次朗に訊ければいいのだろうがそうもいかない。ところが最近唯一の手がかりとして築波宏と言う本名が判明した(『映画年鑑 1965年版』に掲載されていた)。 この「築波宏」で検索するとテレビドラマデータベースにNHKで1958年に放映された「上方お笑い劇場」のひとつ「二階の奥様」の出演者として名前があったのである。 このドラマはど...
昔は美人でなければ多くが女優、特に映画スターにはなれなかった。だが美人であれば必ずスターになれるわけではない。 山本富士子が第1回ミス日本だったことはよく知られているが、それ以外にも多くのミスコン出身者が大映に入社している。だが大成した人は少ないようである。まず1954年のミス・ユニバース日本代表から大映入りした近藤美恵子。約8年間で80本以上に出演し中堅女優としてまずまず活躍したが主演はほとんどなかった...
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