主の前に顔を向けるため 人の努力により、自分を律することにより 成し遂げられることはなにもない 隣人を愛せよ 敵を愛せよ など みことばは人の努力での実行は不可能である また、人の努力や成果などは 主の前には微々たるもので、なきに等しい 主の前に人のできることが何かあるだろうか 人は 主の一方的な慈愛による十字架の贖いで罪を浄められることにより 主より聖霊を賜ることができ その聖霊の助けにより 天へと至ることのできる存在に変えられる 人が唯一できることは そのことを受け入れて信じ そのことが既に実現していると強く継続的に確信することである それはただの思い込みではない それにより結果として本当…
主の前にへりくだり 謙遜になるとき 罪を嘆き苦しむのは、ただの懺悔であって悔い改めではない 考えを変えて新しく生まれ変わろうと決心するのが悔い改め 悔い改めという 狭き門を通る者のみ イエスキリストの真理の道をとおり喜びに至る
人生を後悔するとき 重く取り返しのつかないことをしてしまったとき 時間がもし戻ったならと 幾度も空想し後悔するときはないだろうか しかし、 それはすべて主がわたしたちの必要のために おこされたことであるので 時間をさかのぼって、といっても きっと同じような結末を繰り返すだろう 人の根本は罪なのだから それが取り除かれない限り 時を何度遡っても同じ結末を繰り返すだろう
裁き、報い 道をまっすぐに するのは、主の領域 先走って裁いてはならない 人を 自分を 過去を 未来を すべては主の領域であるから 人は思い上がってはいけないし 主はときに思いがけない方法で大逆転を人生の途上におこされるから
傲慢の子らよあなた方はどれほど真実を知っているというのか大上段から人を裁く子らよあなた方はどれほどの義人だというのかどうか主よ彼らの言動を心に留めてくださいしかし彼らは自分で何をしているのか分かっていないのです主よ私にはあなたに祈るしかありません
わたしは自分の周りの悩みによって苦しみますつらい、でもあなたに従いましょうわたしは自分の死の瞬間を恐れます怖い、でもあなたに従いましょうすべてはあなたの御心のままに主よ、わたしは自分の十字架を背負ってあなたに従いますあなたへの従順と謙遜をあらわせるわたしの人生はなんと幸せなことでしょう
ロトがアブラムに別れた後に、主はアブラムに言われた、「目をあげてあなたのいる所から北、南、東、西を見わたしなさい。 すべてあなたが見わたす地は、永久にあなたとあなたの子孫に与えます。 (創世記 13:14, 15 )甥のロトと行動を共にしてきたアブラムは財産が増え互いの牧者同士の争いが出てきたために住み分けることになった。エジプトでの失敗から学んだアブラムは、甥のロトにその土地の選択権を譲って、自らは残った痩せた土地に入った。しかし、主はその土地をして「永久」にアブラムに与えることを宣言しロトはその肥沃な土地をソドムゴモラの滅びと共に全て失った。主のみこころはおいおいにして「人の思い=世俗的な…
ダビデは心のうちに言った、「わたしは、いつかはサウルの手にかかって滅ぼされるであろう。早くペリシテびとの地へのがれるほかはない。そうすればサウルはこの上イスラエルの地にわたしをくまなく捜すことはやめ、わたしは彼の手からのがれることができるであろう」。 (サムエル記上 27:1 )主君のサウル王にその実力を妬まれたダビデはその主君に命を狙われるようになった。はじめのうちはサウルの懐にあっても常に主のみこころを聞き、主と共にあり大胆に何度もの命の危機をくぐり抜けてきたダビデが「自分の心の内に」判断し、イスラエルの敵のペリシテ人の元に避難する道を選ぶ軍略家としては実に大胆なうまい戦略だったかもしれな…
時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。 (創世記 12:1 )約束の地カナンへ導かれた主のみことばにもかかわらず、アブラムはその地が飢饉であることを知るや否やエジプトへ下ってしまう。彼は自分で思いを巡らしその決断を下したことだろう。その判断は「人」の判断としては賢明であったかもしれない。しかしそれは主のみこころだったのだろうか?その決断に主は共におられたのだろうか?その結末は、異国エジプトでの寄留生活の末妻が美しい故に自分の身の危険への恐れから妹と偽り、エジプトの王パロに召し入れられてしまう。人の思い、考えのなんと浅いことであろう…
罪人である私たち人間は他人に責められた時いろいろと理由を述べて自分の正しさを主張したくなる罪人である私たちは自己の義を常に訴えそれを拠り所としている存在であるまた、自分がだいじな存在であることをアピールするために着飾り名誉を気にし無視されたり軽んじられたりすると腹を立てたり落ち込んだりする元来弱く愚かで罪深い人間の義は常にインチキくさく幸運にも義が認められたとしても他の人間に認められた義なんて所詮移ろいやすいものだ一方イエスキリストの十字架を信じる者はすでに神の義を得ている(Righteousness)私たちがどれだけ罪深い存在であってもキリストの犠牲により神様によって我々は正しいもの 価値の…
罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです.ローマ人への手紙6章23節罪とは万引きとか殺人とか法律的なものではなくて人の心の中から出づる悪い思い憎しみ 妬み エゴ 淫らな思い 傲慢自己否定 後ろ向きな思い 自分の心の中を闇で覆うことそして最大の罪は自分で進む道を決め自分の思いのとおり善悪 是非 を決める行い神中心ではなく人間中心の行い神賛美ではなく人間礼賛の生き方その罪の結果は死である肉体の死だけを指すのではなくてそれは霊の死心の大切な部分での暗闇 消滅 有限 刹那的な結末 非生産的な営みこの罪とその結果としての死の奴隷であった人間をイエ…
http://www.youtube.com/watch?v=DGF5JOICJ6Uキリストにはかえられません 世の宝もまた富もこのおかたがわたしにかわって 死んだゆえです世の楽しみよ去れ世の誉れよ行けキリストにはかえられません世のなにものもキリストにはかえられません 有名な人になることも人のほめる言葉も この心をひきません世の楽しみよ去れ世の誉れよ行けキリストにはかえられません世のなにものもキリストにはかえられません いかに美しいものもこのおかたで心の 満たされてある今は世の楽しみよ去れ世の誉れよ行けキリストにはかえられません世のなにものも「キリストにはかえられません」 聖歌521番(新聖歌…
ひとは、なぜこんなに誘惑に弱いのだろう?怠惰、女性、物欲に負けての買い物、遊興にゲームに散財。。。目の前の快楽が、頭から離れなくなって、夢中になって、ついつい。。。ちょっとだけ。が重なって、中毒。。。わかってはいるけど辞められない。その行きつく先は、崩壊。死である。サタンの誘惑は巧妙である。人の一番弱い部分を突いて、死の道へと誘導する。サタンは"人思い"である。人を気遣って色々な言い訳を囁いてくれる。イブに禁断の実を食べさせた時のように。。。誘惑に勝つためには、イエスキリストしかない。み言葉しかない。荒野で主御自身がサタンを退けられたように。「人」の力、努力ではいかんともし難い。なぜなら人は生…
footprints - YouTube www.youtube.com/watch?v=yTzzGUcWQ6w 作詞 竹田しのぶ 作曲 土屋たまみ ♪主と私で歩いて来たこの道 足跡は二人分 でもいつの間にか一人分だけ 消えてなくなっていた 主よあなたはどこへ 行ってしまったのですか わたしはここにいる あなたをおぶって 歩いて来たのだ あなたは何も恐れなくてよい わたしがともにいるから
すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。 五タラントを渡された者は、すぐに行って、それで商売をして、ほかに五タラントをもうけた。 二タラントの者も同様にして、ほかに二タラントをもうけた。 しかし、一タラントを渡された者は、行って地を掘り、主人の金を隠しておいた。 (マタイによる福音書 25:15-18)恐れを抱いて頂いたわずかな1タラントすら隠してしまっておいた人は帰ってきた主に持っている1タラントさえ取り上げられてしまう若い頃からまっすぐにイエス様を見つめイエス様に全てを委ね神様の恵みを豊かに受けこの世で主の光とし…
あなたは主によって愛されているではありのままのあなたは尊いのだろうかいや私たちは全て汚く罪にまみれ醜い許され難い存在である義人はこの世に一人もいないと聖書にも書いてあります罪は本来決して許されないそこには妥協はありません何が罪であるのかは聖書に示されている旧約聖書による律法により罪が明らかにされている例えば同性愛は罪であると明確に書かれているこれらは神様の前に決して許されないあなたのありのままといっても罪人のまま救われるわけではない罪人は本来永遠の死へと引き込まれるそれを地獄とも呼ぶでしょうそのようなどうしようもない罪人である私たちを神様は一方的な愛によってイエスキリストの十字架によって贖って…
adictionとは、何かにふけること、常用癖、専心ちょっとした虚しさ、寂しさは不意に人の心に襲ってくる人の心はその隙間を埋めようと彷徨う最初、それは、ちょっと暇だなぁという感覚だけかもしれない何か面白いことないかなぁという感覚だけだったかもしれないそれはあなたの魂の飢え乾き。あなたはそれを何かで埋めようとするそれは麻薬のような薬物やアルコールとまで行かなくても、ゲームスマホ仕事、恋愛、ギャンブル、ネット、なんでも買い込んでしまう買い物依存、性へののめり込みなど身近にいっぱい存在するそれらによって飢え渇きが即効的に、また劇的に癒されるような気持の高まりを与えてくれるかもしれないだが、それらはや…
主は私が罪人であった時にすでに深い愛を注いでくださっていた信仰とはその満ち溢れんばかりの主の愛を確信することその信仰によって私たちは義とされる他のものは何も必要とはされないお金も家族も地位も名誉も周囲の人間関係も全てを失っても仕事の致命的な失敗があっても主の愛はそこに存在し主の愛を信じることで私たちはは義とされるもう義とされているのだ主の愛から私たちを引き離すものはなにもない私たちがどのような状態にあろうともどのような精神状態にあろうとも主の愛は、厳然たる事実としてここに存在します
教会へ行き始めた方へ教会に集う人たちは心清らかな人達ではありません「好い人」はむしろ教会の外に多く見受けるかもしれません教会は罪深い人達の集まりです実際に前科者が集う教会もありますただ世の人と違うのは自分の罪を自覚しそれを贖って下さったイエスキリストの十字架にすがって行きているというところです教会の中の「人」に望みを置くといずれそれは失望に変わるでしょう粘り強く神様に望みを置くことで神様は必ずあなたに応えてくださいます求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。 (マタイによる福音書 7:7 )教会にいかずに信仰は…
神様との日々の親しい交流が無くなったのが全ての罪の根本罪を持ち込んだアダムによって神様との親しい関係は断絶され以来人類は罪とその結果である死の奴隷となってきたイエスキリストの十字架により贖われ罪を許され清められたわれわれは再び神様との親しい交わりが許されたイエスキリストの十字架の血という最も高価な代償でもって神様に買い取られたわれわれは今神様の名義となった
主はあなたを愛しておられますあなたが優秀で強い人間だからではありません人より外見が優れているからではありません人を惹きつける何かがあるからではありませんただ全く何の条件もなしにありのままのあなたのことを愛しておられるのです何もできずに無力感でいっぱいのあなたを失敗続きで自分を責めてばかりいるあなたを虚しさで自暴自棄になっているあなたをこの世の誰よりもずっと強くずっと深く主はあなたを愛しておられますあのみすぼらしく蔑まれていたザアカイをイエス様が見出したように主はこの世の親のように愛するがゆえにあなたを物質的に満たそうとはなさいません主はあなたを愛するがゆえにむしろあなたの心を砕くでしょうそれは…
人生この荒れ果てた荒野どこへ進んでいいものかわからずみすぼらしく一人立ち尽くすかつて味わった世の栄華も世の希望もそして夢見た平凡な世の幸せも虚しい幻だったもしかつて居た場所に戻れるとしてももう戻るまい主イエスはこの荒野の道であり真理であり命です心砕かれてみすぼらしく小さくなった私は狭い門をくぐりあなたの狭い道を歩めるでしょうかこの真っ暗な荒野をただあなたを頼りに進みますそうすればその先には神様の真理を仰ぎ天国に至り命得るでしょう
ああ人生はつらいことばかりどうしてわたしだけ…それでも生きなければならないの?さびしい…胸が締め付けられるくらい虚しい…心が虚ろになるくらいあなたは神に愛されています「幸福」な人の100倍 いや 1000倍愛されています神様は愛する子供に試練を与えます身も心もボロボロになるまで。自分にはもう何も残ってはいないと心の底から実感するまで。その時あなたは体ひとつで神の愛に迎えられるでしょう体の芯から温められ熱い涙を流すでしょうそうあなたは選ばれた人なのです
悔い改めてイエス様により頼むことが天国へ至る道救われる道しかしイエス様により頼むとはどういうことかそれはみ言葉を聞きそれに素直に従い実行するそして祈ること日々聖書に親しみそれを素直に実行するそして祈ることイエス様と共に歩み例えば「隣人を愛せよ」を素直に実行することそして祈ること自分の力ではできなかったことが聖霊の助けを得てできるようになるそしてふと気付いてみると大きな大きな実を結んでいるああ神様は偉大なりハレルヤ
救われるためにはどうしたらいいのでしょう?とにかく苦しい。もがいています。いや、もがく気力すらありません。私はどうしたらいいのでしょう?仲良しさんに癒してもらうために教会へ行ってみますか。聖書に書いてある、隣人を愛せよ、汝の敵を愛せよ、を頑張っていきなり実行してみましょうか。立派な「教え」ではないですか。しかし人間の個人の我慢、忍耐でそれを行い得てもいつか力尽きます。だって人間なんてちっぽけな罪深い存在だもの。自分や他人、どんなに優れていたとしても、「人」に望みをおけばそれは失望に終わります。目的地に着くためにはそこへ至る道をまず歩まなければなりません。まずは、自分の取り返しのつかない過去の罪…
罪取り返しのつかない罪起こってしまった罪時間よお願いだから戻ってと言ってもどうしようもないもの時間よお願いだから、、、身に起こる不幸それが偶発的なものでも苦しいがそれが自己の罪によるものであればもっと苦しい後悔後悔あとは報いを受けるのを待つだけなのか主よイエス様父よあなたは十字架にて我が罪を赦し給えりそれにより天において裁きを受けずしかし地においては報いがあるのでしょうか?世では坐して死を待つだけなのでしょうか?その時信仰は報いを過ぎやるための慰みに過ぎないのでしょうか?罪その取り返しのつかない大きな罪それは苦しく私には背負いきれない
こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。 (マタイによる福音書 5:3 )この有名でそして哀れみに溢れた言葉はまた峻厳とした真実でもあります。こころが貧しい人とはプライドがずたずたになり立ち上がれない状態この世の強烈な虚しさを悟り謙虚に生きざるをえない人この世に何をも頼れず思いを馳せることもできない人前にも後ろにも進めず右も左も暗闇の人とてもさみしい思いをしている人愛に飢えている人逆に言えばこの世において心が豊かな人はこの世において満足している人は天国には入れないということです危機感を持ってくださいこの世にまつわる全てのことは実は一番大切なことではありません主は偉大な方…
罪とは盗みや人殺しなどの法的な違反のみではないそれらは単に罪の表現形であり端的な結果である罪とはもっと人のずっと奥にあるもの人をもやもやさせるもの落ち込ませ自己否認させ怠惰にし後ろ向きにさせる時に妄想に近い恐怖を煽り不安を駆り立てるその不安は周囲への不信と憎しみを産み傷つける罪とは質の悪い冗談質の悪い嘲り品の悪い笑いそして冷酷な無関心己をわきまえない高慢であり自信であり自尊心であり主に従わない頑なな心であるそれは悪魔の常套手段であってこれを放置した場合、死に至る周りに腐臭を放って自らを肉的にしいては魂を永遠の死に追いやるアダム以来かつて人間は罪とその結果の死の奴隷であったしかし今はイエスキリス…
今のあなたの生きがいはなんであろうか。生きがいとまで言わなくても、あなたの日常を構成している空気のような、しかしその大切さを普段意識していないほど、自然なものかもしれない。友人、家族、恋人、子供財産、家、地位、仕事、健康楽しみな娯楽、ゲーム、パチンコ、酒、恋愛あるいは自分のことを認めてくれる周囲これまでの自分うまくやってきたという自信これらは知らず知らずに心の中心に居座っていないだろうか?このことを聖書では偶像崇拝という偶像はいつかは壊れます。いつでも壊れます。永遠ではありません。絶対でもありません。周囲に認められているあなた。あなたが自分の中の、あるいは周りの持てるもの-美しさ、地位、良い性…
いまはラオデキヤの時代だととあるクリスチャンのブログで読んだ。私は部分的には賛成。ラオデキヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。 わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。 このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついてい…
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