その日、晴美は体調を崩して教会に行く事が出来ず、とても焦っていた。信仰があるからではない、そこで今週生きる為の食材を確保する為だ。
晴美は、韓国に来て驚かされる事が2つあった。夫の実年齢が聞かされていたよりも5つも上だった。そうなると、晴美よりも10才以上上になるという事だ。
その日、教会では生涯の伴侶となる相手の写真を貰う会がなされた。写真を貰っただけで、結婚が決まるというのは非常に特異な事ではあるが、教祖が選んだ相手という事…
翌日の会社の帰り、晴美はATMから70万円を下ろしていた。昨晩は、よく眠れずに悩んでいたが、これで結婚出来れば安いものだと思うことにした。
電車で二つ先の駅で降りて、大きな街道沿いにある高級そうなマンションの一室が鑑定所だった。中はいくつかの個室があるような造りで、晴美達は玄関から直ぐの個室に通された。
* この物語は作者の創作であり、実在の事件、人物、団体などとは一切関係ありません。
「1959年10月2日、わたしは日本で最初の礼拝をしました。それから50年も経ってしまったなんて、本当に時の経つのは早いものです。
久保の葬儀には700人以上の人が集まり、全国にはそれ以上の人が久保の冥福を祈っただろう。
西山が、久保の婦人から連絡を貰ったのは、久保に最後の電話をかけてから随分と時間が経っていた。
西山は教会を辞めた後、宗教という枠ではない‘善人協会’という社会活動を始めた。西山自身が、その人生を捧げて歩んできた宗教の道に、大きな弊害がある事に気づいたからだ。
西山のアメリカの歩みは決して平坦な物では無かった。
西山は、渋谷駅に向かい東横線に乗った。そして多摩川という駅で下り、閑静な住宅街を抜けて多摩川に行った。
西山がアメリカに行ってから数年が経った頃、西山のもとに小包が届いた。
日本の教会は破竹の勢いで発展し始めて来た。
久保は立成会の教祖、庭田氏の秘書室長をしていて、次期会長と目されていた青年であった。
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