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2013/11/13

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  • 「自覚について」

    2012.3.10 自覚することは、心のはたらきを制御することではない。 それは結果を求めないこと。 なにかになろうと"する"ことでもなく、 また、なにかになろうと"しない"ことでもない。 それは肯定しないだけでなく、"否定しない"ことも含む。 一見「~しない...

  • 「自我のはたらきについて」

    2012.3.9 あらゆる感情の上位にあって、それらを制御しようとする「自我」あるいは「私」。 そのはたらきをよくみつめること。 問題を解決しようとしてはならない。 それは結果を求める行為であり、 また解決する主体としての「私」の力を助長する。 なにも求めず、た...

  • 「過去と未来を思うことについて」

    2012.3.8 私はいつも過去の「私」と比べ、未来の「私」へ向かって、 "なにかになろう"としている。 しかしそのことが今という時間を、 ただ過去と未来に挟まれただけの貧しいものとしてしまう。 そしてなにより悪いのは、 そのことによって"あるがまま"を受け容れ...

  • 「恐れについて」

    私たちは既知のものが失われることを恐れる。 それゆえそれを守ろうとする。 既知のものが失われないよう、それを強化し、信じ、すがろうとする。 しかしそれはむしろ"失われるべきもの"を増大する。 よって一層恐れから離れられなくなる。 それは恐れから自由になることとは全く逆...

  • 「記憶と観念について」

    生きることは行為。 観念が行為を制約する。 私たちはいつも「なにかになろうとして」生きている。 それゆえあるがままの私を見失い、受け容れられず、苦悩する。 それは結果を求める終わりなき闘争。 観念は記憶の集積。 記憶が反応して観念となり、行為を制約し、ものを見え...

  • 「言葉と因果について」

    「声は消えても、心の底にきいた言葉が生き残る。 強く打てば大きく響き、弱く打てば小さく響く。 した事、いうた事、思った事、 よいも悪いも悉く皆、 何ものかに影響して、永遠にあとを残す。 慎むべきは、其の思い、其の行い、其の言葉、 恐るべきは其の影響、其の反...

  • 「言葉と責任について」

    言語化するということは1つの選択ではないか。 それは未分化の世界に対して新たな世界の見方を提示する。 意識化し言語化しないとき世界は未だ未決定であるといえる。 しかし、言語化し、意識化した途端に、 私たちは世界を決定し、選択し、それにとらわれ、それに責任をもつ。 沈...

  • 「割り切れなさについて」

    1つを全て明快に解決しない限り次へ進めない、という態度で生きられるほど、 世界は明快で割り切れるものではない。 ときに人生は、割り切れないものをそのままに歩を進めていかなければならない。

  • 「選択と責任について」

    ぼくの生は誰のせいにもできない。 それはぼくの選択によって成立しているのだから。 選択しうる機会が与えられているものについて、 ① 主体的に選択する ② その結果たとえ不本意な結果を招いても後悔しない ③ そしてそれを他人や状況のせいにしない これらを徹底...

  • 「割り切れなさについて - 意味の限界 - 」

    2011/12/31 ぼくは意味によってものごとをとらえようとしている。 ぼくは"解決しよう"として、他人と、世界と接してしまっているのかもしれない。 それは意味に取り憑かれているようなものだ。 意味は世界の一部を言語によって切り取ったものでしかない。 意味には自ず...

  • 「私らしさについて」

    ぼくは無だ。 あらゆる属性をもってしても、何一つぼくをぼくたらしめるものはないように思われる。 しかしそれでも<私>は訪れる。 <私>はぼくの意識の外でいつも必ず反応する。 俟つという態度を知った。 私には私らしさを担保する属性は何ら存在しない。 その意味で私は...

  • 「生きがいについて」

    もしも今、悩みも守るべきもどちらもすべて失ってしまったとしたら、いったいぼくはなにを頼りに生きられるだろう。 つまりぼくは今、苦悩と愛情によって、生きがいを与えられているんだ。

  • 「存在を差し出すことについて」

    ぼくが他人に語ることのできる言葉などあるんだろうか。 ぼくはぼくの世界を決してでることができない。 どんな言葉もぼくの言葉でしかない。 それがどんなにぼくにとっては意味のある言葉でも、他人にとっては全く無価値になりうる。 ぼくにとってどんなに意味のある言葉も、他人にとっ...

  • 「全体をよく見ることについて」

    生のなかでは同時にあらゆることが起きている。 仕事、問題…。それらもその生の出来事のうちのほんの1つでしかない。 1つのことに集中することはよい。 しかし「よく見る」ためには全体でなにが起きているのか、その感性を失ってはならない。 なにかにとらわれて、この目をくもらせ...

  • 「選択することについて」

    私は日々、新しいなにかを知覚し、記憶し、それに勝るとも劣らぬ早さで、あらゆることを無視し、忘れていっている。 私は日々、自覚もなしにあらゆる選択をし、あらゆることを捨てている。 これらの取捨選択について意識をこらし、自覚的になれば、私の生はもっと主体的に感じられるのではな...

  • 「無知の知と信仰について」

    2011/12/18 --- 「我々は○○についてより多くを知ってしまったために、○○そのものを知ることができなくなってしまった。」 河合隼雄『昔話の深層』 --- 信仰についても同じことがいえるのではないか。 生活のあらゆる側面について多くを知ってしまった(よ...

  • 「信仰への恐れについて」

    2011/12/20 信仰への抵抗。 それはあの盲目的な態度への恐れからきていると思われる。 しかし我が身をふりかえってみるとなんと私は「見る」ことによって自然そのものを遠ざけていることか。 「見る」ことは「名付け」と結びつき、この世界を分節化する。 自然そのも...

  • 「回心について」

    2011/12/20 本当の信仰とはどのようにすれば得られるのであろうか。 それは単に考え方をかえるということではない。 それは単に仏教、キリスト教等の宗徒となることではない。 そこには根本的なものの見方の転換がある。 それが<回心>か。  

  • 「選択について」

    「こんなことに意味があるのか。」 そうして意味にとらわれたとき、私は選択を迫られている。 新たな道を歩むか。あるいは現状を受け入れるか。 選択をせず、目を背けたままでは、一歩も前へ進むことはできない。 選択をしないままでは私は私を永遠にごまかしつづけることになる。 そ...

  • 「生きざまについて」

    私は今ここで、論理でもなく、特定の<私>でもなく、私の<生きざま>という、不定で実体のない幅、広がりのあるなにかによって、生き、言葉を語っているのではないか。 私は無。 今ここの一点に確固たる<私>というものなどない。 しかし今ここの私には間違いなく私の生きざまが、よく発...

  • 「俟つことについて」

    人生のあらゆる局面は"与えられた"としか言いようのないもののように思われる。 たしかにそこで私は選択しているが、 しかし私のその選択は、どのようにして生まれたのであろう。 たしかに私は考えた。 しかしまさにその選択をするとき、その決定はどこから生まれたのか。 それは言...

  • 「感情と言語の隔たりについて」

    ある感じられた感情について、それを言語化したときには、もうその感情はそのままそこにはいない。 感情は直観的、瞬間的に、ふいに外から与えられるようなものであって、私自らの意識によって主体的に掴まえられるようなものではないように思われる。 「うれしい」「かなしい」「たのしい」...

  • 「幽き私」

    すべて言葉は過去のもの あのときの感受はもうここにない あるのはただの記憶と記録 なんと頼りない幽かなものだけ あれは幻だったのか 昨日と今日の連続さえ朧ろに 私は夜ごと死に生まれ 私は無 私はいつも零からの始まり 一つのよすがも求めることなく 言葉...

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