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霊性が共にある生活 https://makotonokamisama.hatenablog.com/

霊性は日常生活の中でこそ発揮されるべきです。ゆえに何気ない日々の出来事の気づきを綴ります。

jobanni
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2012/10/23

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  • 霊性と宗教意識

    宗教意識は霊性の経験である。精神が物質と対立して、かえってその桎梏に悩むときみずからの霊性に触着する時節があると対立相克の悶えは自然に融消し去るのである。これを本当の意味での宗教という。一般に解している宗教は、制度化したもので個人宗教経験を土台にしてその上に集団意識的工作を加えたものである。宗教的意識、宗教的儀礼、宗教的秩序、宗教的情念の表象などというものがあってもそれらは必ずしも宗教経験のそれ自体ではない。 「鈴木大拙全集8巻 日本的霊性」24p 宗教団体に所属しているからといって霊性的経験をしていると勘違いしてはならない。 そこに所属していると何か安心するからとか、利益があるとか案外そうい…

  • 理想と事実

    誰でもできるなら聖人君子のようになりたい。それが理想である。しかし、現実を見てみれば仕事をすれば怠けたくなるし、お金も欲しい、そして時には人を憎むこともある。これが事実である。 私が考える純粋な心とはそのような煩悩をまずもって事実として認めることだと思う。理想を持って、それをあってはならぬという時にそれは事実を捻じ曲げる嘘の思想となる。そして煩悩を事実と認めつつ、淡々と生活する。これが本当の正直者だと思う。 いわゆる聖職者と言われる人たちに問題が生じることが多いというのは理想主義に走って、事実を事実として認めようとしないところにある。

  • 初一念を大切にする

    人間の心の中は誰でも初一念と二念の対話によって成り立っている。初一念とは無意識からやってきて、二念は自我を中心としている。この二念の中に分別が働いているのである。心を病む人の陥ってるパターンが初一念で湧き出してくる思いを二念で打ち消し、思考を挟んでしまう。 例えば、何か不安な気持ちが湧いてくる。または憂鬱な気持ちが湧いてきたり、怒りが湧いてきたり、寂しさが湧いてくるかもしれない。これは初一念として純粋な無意識からくる自然な働きだ。 しかし、次の二念でその一念を自分の理性を使って操作してしまう。そうするとどんどんどんどん思考の終わらない分別が始まってしまう。頭を使ってなんとかその感情の原因を探っ…

  • 神と我

    「我々の自己はどこまでも唯一的に、意志的自己として、逆対応的に、外にどこまでも我々の自己を越えて我々の自己に対する絶対者に対するとともに、内にもまた逆対応的に、どこまでも我々の自己を越えて我々の自己に対する絶対者に対するのである。前者の方向においては、絶対者の自己表現として、我々の自己は絶対的命令に接する、我々はどこまでも自己自身を否定してこれに従うのほかはない。これに従うものは生き、これに背くものは永遠の火に投ぜられる。後者の方向においては、これに反し、絶対者はどこまでも我々の自己を包むものであるのである、どこまでも背く我々の自己を、逃げる我々の自己を、どこまでも追い、これを包むものであるの…

  • 正負の法則

    美輪明宏さんがよく語られる人生論の中に正負の法則というものがある。これは例えば運が良いことが続けば、その分悪いことが起き、悪いことが起きればその分、運は溜まっているということだ。 最近ではある有名芸能人の方が若くしてガンに冒され、闘病生活を送っているブログを拝見した。有名な歌舞伎役者と結婚し、本人も若くて美しく二人の間には子供にも恵まれた。まさに順風満帆なその時に突然の不幸である。 よく経営者として順調に成功しだすと突然と家族に不幸が襲うということもよくある話だ。何かを得るためには人間はそれ相応の条件が必要となるのだ。 だから普段から運のいい時も悪い時も他のために自分の持っているものを与えて先…

  • 陽と陰

    人間誰しもいつも明るく輝いていたい。そして、確かにそんな時期もある。仕事、健康、経済、全てがうまくいくときである。こんな時は何も考えずに単純に幸せを謳歌することができる。しかし、突然に思いもよらない出来事が忍び寄る。例えば、病気、家庭の問題、経済的問題によって今まで築いてきたものが壊れていってしまう。 しかし、よく考えてみると全ての物事がプラスに働いていた時には、今まで手にしていたものの本当のありがたみがわからないのであり、マイナスに失ってはじめてその価値がわかるのである。健康な時には健康のありがたみがわからず、豊かな時には豊かさがどれほど感謝なものなのかわからないのが人間だ。こうしたことを理…

  • 時期を待つ

    何事もうまくいかぬ時節が確かに人間にはある。仕事、健康、家族など様々な問題が降りかかって身動きできない時である。1年の中に春夏秋冬があるように人間にも冬のような実りの少ない時期がある。そう言う時はただじっとして春の訪れを待つべきだ。冬に時期に種をまいても何も実らない。ただいずれ力強く開花していく春のために力を蓄える時だ。

  • 特別無条件同化暗示感受習性

    たいていの人はいろんな理屈を言うけれども、この消息をご存じない。人間の夜の寝際の心は『特別無条件同化暗示感受習性』という状態になっているのよ。つまり、無条件で同化しちまう暗示感受習性があるんです。ですから、夜の寝際にちょいとでも、それが嘘でも本当でも、良きにつれ悪しきにつれ考えたことはそのまま感光度の速いフィルムの入ったカメラのシャッターを切ったのと同じ、パーッと潜在意識に刻印されちまうんだ。 中村天風「成功の実現」p112 夜眠りにつく時間は顕在意識から離れ無意識の世界に入っていくときである。つまり、神に体を委ねる時間である。その前に持っている想念が非常に潜在意識に影響を及ぼす。従って中村天…

  • 言葉を変える

    太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。 この言は太初に神とともに在り、 萬の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。 「ヨハネ福音書」 確か、苫米地博士の書いた本にルータイスのアファメーションの基本はこのヨハネの福音書の一節が全ての基本になっていると記述してあったと記憶している。心を変えようとすると実体のない心に翻弄されて、いつまでも自分対自分に陥ってしまって面白くない。それよりも重要なのが潜在意識自体の内容を書き換えていくことだ。苦悩のどん底にいる人に考え方を変えろというのは無理であるが、言葉を変えろというのはできる。自分にプラスのアファメーションを設定し…

  • 考え方を変えるのではなくて・・・

    考えは考えでしかないことを知ることが大切だ。思考は思考、現実は現実。知性で意味や答えを確定させたい欲求を我慢して、ただそのままの事実に任せるときに「私」を超えたところから勝手に答えがもよおされてくる。この境地が自然法爾、絶対他力の世界である。

  • 心は変えられない

    悩みを持つ人が悩みから抜け出れなくなるときに陥っているのが、「こんなことで悩んでいる自分を変えたい」、「この心を変えたい」という思いだ。しかし、なかなか心は変わらない。むしろどんどんと深みにはまっていってしまう。 これは心というものが自分の意思とは関係のないところで自律していることを知らないからだ。嫌な気分、不安、恐れなど人間なら誰でも嫌である。しかし、あえてそのような心の働きをその自律性のあるがままに任せていると不思議とその思いが消えていくものである。 つまり、その不快な思いを悪いもの、病的なものと決め、それを治さないといけないと思うときにその思いは自分の中で存在感を増してしまう。そしてそれ…

  • 知性の及ばない世界

    丁度川の岸へ立って、水の流れを眺めて、不快だろうか、浅いだろうか、冷たいだろうか、熱いだろうかといろいろと想像をたくましうするのと同じことだ。宗教の世界ではさういうふことを妄想と云ふ。また情識と云ふ。加賀の世界、分別の世界ではそれもよからう。が、宗教では、とにかく飛び込んでみるのである。浅いか深いか、温かいか冷たいか、自分で体験するのである。 「鈴木大拙全集7巻 無心ということ」p291 宗教に対して批判的な人は大体、食べずに味を判断するのと同じ考えを持つ。だから合理的で概念的なもの以外は決して受け付けないのである。しかし、宗教はそのままの体験を重んじる。むしろ、知識を嫌うのである。数ある宗教…

  • 羅針盤

    ある人が何か悪いことをしたという噂を耳にした時、われわれはよく、その人には両親が無いという。一体良心とはいかなるものか?良心とはすなわち、万人の内部に生きている唯一絶対の霊的存在の声である。 トルストイ『人生の道』62p 良心とはすなわち羅針盤のようなものだ。間違った方向性に進めば警告を発し、正しい方向に進んでいれば穏やかでいてくれる。この羅針盤の指示通りに進むだけで人生はうまくいくようになっている。 人生論 (岩波文庫) 作者: トルストイ,中村融 出版社/メーカー: 岩波書店 発売日: 1988/12 メディア: 文庫 購入: 2人 クリック: 7回 この商品を含むブログ (3件) を見る

  • 久遠の今

    思考の性質は過去、もしくは未来に向けられている。 過去はすでに過ぎ去った時間で在り、もうすでに取り返すことができない。 そして未来もまだやって来てもいない。人間は日々、まだ起きてもいない過去や未来に 縛られ、苦悩しながら生きている。 しかし、「今、この瞬間」に集中して生きると自然に思考はストップし、目の前の事実の世界、あるがままの世界に入っていくことができる。そして自然と心の重みが取れていく。言い換えれば、人間が心に苦痛を感じる度合いとは「今、この瞬間」から離れるに比例していると言えるのだ。 「久遠の今」 ―― 谷口雅春先生ご講話

  • 靴屋のマルチン

    愛のある所に神は在り。 靴屋のマルチン

  • 絶対矛盾的自己同一

    人間には確かに絶対的な自己中心性というものがある。その自己中心性はどこから来たものか? 人間が原因的存在ではなく、結果的存在ならばその「自己中心性」は明らかに人間の創造者である神に由来する。 神は人間を創造する以前まで絶対的な自己中心性を持っていたが、人間を創造することによって完全に自己を否定するという過程を経ている。独自で存在しているという絶対的な自己中心性を捨てて、人間という存在を生み出したからだ。 私たち人間も「自己中心性」のみを中心としては人や社会との関わりの中で生活することができない。何かしらの自己否定の過程を通して周囲との関係性を築いているのである。 そういう面で「私」という意識は…

  • 鈴木大拙博士インタビュー

    1964年5月21日放送。 鈴木大拙 NHK婦人の時間 聞き手犬養道子

  • 神は絶対者であるがゆえに

    神は絶対者であるがゆえに私が相対的な立場にあるときには姿を表さない。 ゆえに、私が絶対的に自己をなくした時にその姿を表される。 私が強くなれば、神は遠ざかり、私が小さくなれば神は近くなる。 神が絶対者として存在できる理由は絶対的に自己を否定しているからである。 西田幾多郎哲学論集〈2〉論理と生命 他4篇 (岩波文庫) 作者: 西田幾多郎,上田閑照 出版社/メーカー: 岩波書店 発売日: 1988/08/16 メディア: 文庫 購入: 1人 クリック: 11回 この商品を含むブログ (6件) を見る

  • 目は目自身を見ることができない

    目は言うまでもなく見る為のものである。 しかし、もし目が目自身を見ようとしたら目は外界を見ることができなくなる。 したがって目は目自身を見ないが故に外界を見ることができると言える。 同様に、「私」が「私」を見ようとすると「私」がわからなくなり、「私」を見ることをやめると自然と「私」が見えてくる。 即非の論理から言うと目は目ではない、故に目である。 私は私でない、故に私であるとなる。

  • 霊性が働きかけてくる

    知性の内に向かふ働き、これを知性の内面的論理と云っておけば、この論理は情意的に一つの要請として感ぜられる。多くの場合では、精神の悩みとしての一般の人々に知られている。知性の外向的働きの目覚ましさに眩惑されて、その外に何等の要請を感ぜぬ人、即ち哲学せぬ人、こんな人々に向かって如何に哲学を説いても、河童に水である。また所謂る精神の悩みを覚えぬ人々、即ち宗教意識の持ち上がらぬ人々に向かって、罪悪だの、地獄・極楽だの、永遠の生命だの、解脱だの、證覚だのと云ったとて、これまた馬耳に東風だ。何らの交渉のきっかけがない。縁なき衆生には外から救いの手のつけやうがない。知性に内向的なもののあることは、或いは知性…

  • 純な心

    「過ちて皿を割り 驚きて之をつぎ合せて見る 此れ純なる心也」 森田正馬 誤ってお皿を割ってしまい、「ああ割ってしまった!」と無意識につくはずもない半分のお皿をつなぎ合わせてみるその混じり気のない行動に森田先生は「純な心」をみた。 そのあとに「どうやったら言い訳ができるだろうか」とか、「誰かに見られていないか」などと理性を使うとなるとそれはもう「純な心」ではない。 喜び、不安、怒り、悲しみ、疑問などなど人間には様々な感情があるが、まずその感情が出てくる初一念は「純な心」である。それを、「そう思ってはみっともない」とか、「情けない」とか思い、純な心を知性で征服しようとするときに、初一念、つまり「あ…

  • いつまで外に答えを求め続けるのか?

    「赤肉団上に一無位の真人有り。常に汝等諸人の面門より出入りす。未だ証拠せざる物は、看よ看よ」 ※赤肉団上とは人間の肉体のこと 「臨済録」 神を求めて教会に行き、仏を求めてお寺に通い、ありがたい教えを誰かに聞こうとする。いつまで外に答えを求め続けるのか?人間が求める究極の宗教的境地は各自に既に備わっている。 臨済録 (岩波文庫) 作者: 入矢義高 出版社/メーカー: 岩波書店 発売日: 1989/01/17 メディア: 文庫 購入: 4人 クリック: 21回 この商品を含むブログ (29件) を見る

  • そのままの世界と人間

    斧は、それを使って切る人に向かって高ぶることができようか。のこぎりは、それをひく人に向かっておごることができようか。それは棒が、それを振り上げる人を動かし、杖が、木でない人を持ち上げるようなものではないか。 イザヤ書10章15節より 外を見ると木はただ木としてそこに立っている。花はただ花として咲いている。 全ての森羅万象世界の全てが自らの役割そのままに存在している。 人間はどうか?人間だけが自身の生きる意味を問い、その役割を果たせずにいる。 旧約聖書〈7〉イザヤ書 作者: 関根清三,旧約聖書翻訳委員会 出版社/メーカー: 岩波書店 発売日: 1997/05/08 メディア: 単行本 クリック:…

  • デカルト批判

    私は彼が、「我思う、故に我あり」との結論を出した、その瞬間の時点において、西洋哲学の悲劇的出発点を見るのである。 虚偽のものを疑い抜いてみても、こう疑っている私の疑いを疑い捨てるわけにはゆかない。疑っている何者かは真実の存在と言わねばならない。故に我ありと論じて、彼が思念のすえ到達した「我思う、故に我あり」を広言した・・・その時、明白に彼の頭には分別、分離された我という主観のものと、思うという客観のものが、許容の概念として潜在していると言わざるを得ないのである。 福岡正信「無II 無の哲学」8p 分別心を中心とした思考、言葉の中から把握した我はすでにデカルトという人間の知性の中に限定された「我…

  • ユングの神経症体験

    ユングの神経症体験 ユングは十二歳のころ、学校で数学、図画、体操の授業に挫折する日々を送っていた。そしてその年の初夏のある日、友人を待っていたところ、ある別の少年から突然突き飛ばされ、足を滑らし頭を打ってしまう。 その瞬間、ユングの脳裏には「もう学校にはいかなくても良い」ということが浮かんだという。それ以降、ユングは学校の帰り道や、両親が勉強をさせようとすると決まって神経症的発作を起こすようになった。そして、結局半年にわたって学校を休むことになる。いわゆる不登校である。 そんなある日、父親の友人が家に訪ねてきて「ところで息子さんはどうですか」と会話をしている場面に遭遇する。父親は「医者は原因が…

  • 無分別の分別とは

    分別を持って生きる時、全てにおいて真の分別ができない。 分別を持って生きるのをやめた時に本当の意味で真の分別ができる。 これが「無分別の分別」 無心ということ (角川ソフィア文庫) 作者: 鈴木大拙 出版社/メーカー: 角川学芸出版 発売日: 2007/09/22 メディア: 文庫 購入: 3人 クリック: 7回 この商品を含むブログ (9件) を見る

  • 不安を解消する方法

    不安を解消する方法は不安な時には不安でいることだ。 不安なのに不安であってならないと頭でやりくりをすると更に不安になる。 不安は「不安そのもの」になった時に小さくなっていることに気づく。 悲しいときは、悲しみ、落ち込む時は落ち込み、喜ぶ時は喜ぶ。 それが素直で健康な人間だ。 幼い子どもは感情そのままである。不安や怖さを感じたらすぐに母親に抱きつく。 不安があってはならない、落ち込んではならないという世間の風潮はおかしなものだ。 何の不安も全くなく、恐怖を感じない人間はいわゆる精神病者である。

  • なぜ悩むのか

    その答えは簡単である。 自分という存在の内面を概念化して、そこに「こうなりたい」という理想の形を思い描くからだ。 しかし、あくまでそれは自分を自分の頭でイメージした概念でしかないから、つかみどころのない心の世界に翻弄され、自己不全感は更に強化されてしまう。 つまり永遠に終わることのない、「自分」対「自分」の戦いの始まりである。 だからよく、自分の心を変えるとか、決心するとかいうが、それがいかに浅はかな計らいであるかに気づいていない。心は自分の力で変えられないのだ。 自己の内面の工夫から離れ、外の対象に向かって努力するときのみ、自然に心は整っている。 人間だけに悩みがあり、動物に悩みがないのはそ…

  • ヨブ記

    「ヨブ記」38章より この時、主はつむじ風の中からヨブに答えられた。 「無知の言葉をもって、神の計りごとを暗くするこの者はだれか。 あなたは腰に帯して、男らしくせよ。わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ。 わたしが地の基をすえた時、どこにいたか。もしあなたが知っているなら言え。 自分が困難の中にある時、方向が見えない時、ハッとさせられる聖句だ。 空を見上げてその壮大なること、この地上の美しさ。その中で一つの生命を与えられている私。 いかに人間社会の価値観の小さなこと。確かに私は生かされているのだ。 旧約聖書 ヨブ記 (岩波文庫 青 801-4) 作者: 関根正雄 出版社/メーカー: 岩波書店…

  • 「わからなさ」がわかること

    人が何かを知ろうとする前に、 人が何かを求めようとする前に、 人が何かを為そうとする前に、神がなぜ人間をみすてたかを知れ。 人類は破局の真因を知らず、 人間復活の道を求めず、 人は為すべきことを知らずして、 ただ為すこと多きを誇る。 福岡正信 『無Ⅰ 神の革命』より。 私たちは、人間として最高の知識を持っていると思ってはばからない。 しかし、いくら科学が現象世界に関する内容を掴んだとしてもそれは一部分を発見したに過ぎない。なぜなら、人間は草一本さえ作り出すこともできないのである。それはまるで、子供が与えられたおもちゃの遊び方を一生懸命に研究しているのと同じことだ。 「わからない」、「わからない…

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