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生きる力・勇気・志――「ブッダの言葉」を中心に https://blog.goo.ne.jp/tensho-ji

大阪の禅寺・天正寺住職のブログです。人間が本来もっている自由で活発な心と体を探究していきます。

禅僧(大阪 天正寺住職)で、元臨床心理士です。京都大学の大学院で臨床心理学を学んだ後、本格的に仏道修行するために出家しました。フロイトや精神分析も研究し、一冊本も出しています。ブッダの元々の教えと思われるアッタカヴァッガを特に研究しています。呼吸や身体を柔軟にするための方法は長年研究してきました。

天正寺
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天王寺区
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茨城県
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2011/02/21

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  • 祈りの心、祈りの体

    53歳の誕生日にあたって、新たに思ったことを書きます。一番強く思ったことは、「祈りの心・祈りの体で生きていこう」ということです。円覚寺管長の横田南嶺老師は、最近出た対談本(風の彼方へ)で、イエスの凄まじい苦境の中での祈り「御心のままに」に関して、次のように語っています。「あの言葉はいいなと思っています。祈りの心を言い表わしている。『御心のままに』が全てだろうと思うんですね。そして我々は、与えられた命にただ感謝するのです」西田幾多郎も『善の研究』の最後の段落で、イエスのこの祈りが「宗教の極意」であると明言し、この祈りに生きることが即(イコール)「絶対無限の仏陀その者に接する」ことであると述べています。どのような苦境にあっても、その苦しみ・煩悶の真っ只中で、「私が欲することでなくて、あなたが欲することがなりますよう...祈りの心、祈りの体

  • 円覚寺での覚悟(2017年7月23日)

    円覚寺での覚悟去年(2017年)の7月23日、私は円覚寺に行き、横田老師と藤田一照さんの講座に参加しましたが、この日は私にとって、実に貴重な日となりました。私の覚悟が定まった日といいますか、覚悟が定まるに至るきっかけが明確に始まった日でした。どのような覚悟か?「腰骨(腰椎や仙骨等)を、前傾過ぎでもなく、後傾過ぎでもなく、その中庸の位置で、自分の感覚を研ぎ澄まし、体からの声を丁寧に聴いていく実践で、きちんと坐れる(正身端坐できる)」ということに関しての明確な覚悟です。私は上記の実践をしながら、漱石の言葉「あんた、中腰でまごまごしていて不愉快じゃないかい?」という心の声が聞こえてきた。また、「あんた、最も大切な要素を忘れている」という別の声も心に響いてきた。 私は全くその通りだと思った。「今しているような中腰でまご...円覚寺での覚悟(2017年7月23日)

  • 東京での坐禅会と忘年会

    昨日は東京(と牛久)での坐禅会、そして忘年会でした。忘年会は、ちょうど良い大きさの暖かい感じの部屋で、貸し切り状態で、ゆっくり・じっくり・活気がある雰囲気で、とても良かったでした。参加された齋藤さんが、私が話したことの要点を、実にうまくまとめてくださいましたので、下に引用させていただきます。今年最終の奘堂さんのご指導は「弾機(バネ)・ノビ、(つまり生命のはたらき」が常に活発な姿勢(在り方)」誰にでも絶対可能にシンプルにご指導してくれました。和尚の言葉に、『私たちは普通(自分の思う自然)にしていると、委縮し、体が緊張して反り、歪んでしまい、そのため苦痛が起こります。手かせ足かせを自分ではめて生きているようなものです。本来もっているバネ・ノビを常に躍動させて生きる道があります。この縛りから脱して生きていきませんか。...東京での坐禅会と忘年会

  • 円覚寺の大方丈で私の心に鳴り響いた言葉

    「あんたら、何、探り探り坐ってるんだ!あんたら、最も大切なものを忘れている。」昨日、鎌倉の円覚寺大方丈にて、円覚寺派管長の横田南嶺老師と、私の友人である藤田一照さんの対談&坐禅ワークショップがあった。(午後1時から5時まで、4時間にわたり、お二人の対談、一照さんのワークショップ、そして坐禅、参加者同士の話し合いなど)この4時間ずっと、冒頭に挙げた言葉が、私の心に鳴り響いていた。実に気迫に充ちた力強い言葉だった。この言葉の元:数日前、たまたま銭湯でかかっていたテレビで、シンクロの井村コーチが、ロンドンで、教え子に語った言葉が紹介されていた。「あんたら、何、探り探り泳いでるの?オリンピックは、自分の持っているものを全部出し切る場なんや!」私は、この言葉が、私に直接言われたように思えて、思わず涙があふれてきた。もう一...円覚寺の大方丈で私の心に鳴り響いた言葉

  • 一番大切なことは?

    天正寺で、坐禅会をメインに活動していますが、そこで一番大切に思っていることを書きます。天正寺に来る人が、事業主か雇われている人(従業員)か、会社の社長か部長か平か、公務員か民間か、大きい会社か小さい会社か、学生か、フリーターかニートか無職か、なとのことは、全く問題にしません。それらは、すべて、社会的立場、肩書き、いわば「衣」です。「衣を脱げ(その社会的立場を捨てろ=辞職しろ)」と言うつもりは全然ありません。「衣(社会的地位等)がつまらないものだ」という思いも全くありません。ただ、お寺では、それら一切の衣は、全然問題にしません。一切の衣を脇へ置きませんか?(一切の衣を脇へ置いたところに立ち返りませんか?)このことだけが、私が住職をしている禅寺での基本中の基本と思っています。ただ「脇へ置く」だけですので、衣を捨てろ...一番大切なことは?

  • 「落ち着いた心」を目指すこと

    「落ち着いている心の状態を目指すのが仏教」でしょうか?もしそうだとしたら、仕事をしている時よりも、風呂にはいったり、コーヒーを飲んだり、親しい友人と一緒にいる時のほうが、はるかに心が落ち着いていますね。これって、仏教かどうかとなんの関係もないような気がしますが、どう思われますか?「風呂につかっている時はお釈迦さまの心に近く、病気で苦しんでる時や、仕事でアクセクしてる時はお釈迦さまの心から遠い」のだとしたら、「は?」って思いませんか?これだと責任ある仕事をして忙しい人は救われず、裕福で余暇を楽しんでいる人が、ブッダの心の実践者みたいになってしまいますね。あわただしい仕事中であろうが、重い病気で苦しんでいようが、どんな苦境にあろうが、生きる力強さの元となる何か、力強くやり抜く勇気を与えてくれる何かのほうが、はるかに...「落ち着いた心」を目指すこと

  • 「禅定」に関して

    禅定とは、「今ありのままを見つめる」とか、「心を静める」とか、「無になる」とかの実践の意味で用いられている言葉かと思われます。(具体的には、例えば、呼吸を数える数息観など)禅宗(正確には臨済宗)で大事にしている、いわゆる禅宗四部録の中に「坐禅儀」というものがあります。そこに「禅定」に入ることが大事だと、繰り返し説かれています。六百数十字の短い文章ですが、その中に「12回」も、「定」の文字が用いられています。例えば、「定力を護持するのが大事」「禅定の一門が急務だ」などと。道元さんは、その「坐禅儀」のことを、「坐禅を何もわかってない人が書いたものだ」「捨てて見るなかれ」などと明記してボロクソに言っています。「坐禅儀」に12回、「定」が用いられてますが、道元さんが書き直した「普勧坐禅儀」では、「坐定」の一回だけで、そ...「禅定」に関して

  • 私の人生最大の「依りかかり」「顛倒」

    お釈迦さまは、一番古いお経アッタカヴァッガで、繰り返し「依りかかり」のことを語っています。「依」の問題を繰り返し語るのは、臨済禅師も同様です。「依」の問題が、仏教でも禅でも根幹の問題です。この旅で、「依」の問題が、私自身の態度の盲点になっていたことを、これまでより痛感しました。「衣(社会的地位、肩書)」や「道具(パソコンや車)」や「方法(運転やパソコンの技術や身体技法等)」が、「依りかかり」とイコールでは全然ありません。お釈迦さまも、当然、衣を着ましたし、食器など道具を使ったでしょうし、食器を使う等の技術も用いたでしょう。これ自体、依りかかりでも何でもありません。当然です。ですが、「この衣着てる俺はお前より偉いんだよ」とか、「この道具(例えば高級車)を持ってる俺はすごい」とか、「この技術(瞑想法・身体技法等)で...私の人生最大の「依りかかり」「顛倒」

  • 「こんな杯(酒)飲みたくない」に関して

    「この(不味い酒or毒の入った)杯を取り下げてくれ」という思いに関して:「杯(Cup)」は、「ワールドカップ」とか「~杯」のように、優勝(した人やチームに与えられる美酒を入れる杯)を競って争う大会自体を指す意味で用いられています。「杯」自体は容器ですから、美味しい酒が入る場合もありましょうが、不味い飲み物も入るでしょうし、ソクラテスが飲んだような「毒」が入る場合もあるでしょう。美味しい酒(飲み物)を飲みだいと思うのは自然(当たり前)です。不味い飲み物や、ましてや毒は飲みたくないと思うことも当然です。自分や周りの人(家族や仲間)にとって快適な状況であることを望み、つらい状況を避けたいと望むことも、自然で当たり前のことです。「状況(環境)」を「杯(酒)」で喩えて表現すると:「不味い酒or毒の入った杯は取り除けてくれ...「こんな杯(酒)飲みたくない」に関して

  • 祈り

    「この杯は取り下げてほしい(つらいこの状況を変えてほしい)。だけど、私が望むことでなく、あなたが望むことが成りますように」祈りが人生で一番大事だということ、この思いは、30年前から何も変わらない。なぜ祈りが一番大事か、30年前より、今のほうが明確に言える。天からの恵み、Grace(恩恵)を、普通にしていると(祈りがないと)、歪めて無駄にして、自分を害し、人を害してしまうからだ。この30年の間に、呼吸法とか瞑想とか身体技法が大事ではないかと思い、これらを探求したこともあった。一定の効果のある身体技法や瞑想があるのは確かだ。(例えば、パソコンや自動車が、一定の効果のある有用なものだ、というのと同様に)だけど、祈りなしに、パソコンや瞑想の限定された有用性だけに頼って何になるのか?「私が望むこと」、これが大事なのは当た...祈り

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