思い出の短編小説『ヘラ鮒釣具店の犬』(4)全10回
先週の興奮は、体の隅々に痕跡を残していた。四日ぶりに散歩に出ようとして、内耳のあたりでカサカサと音を立てるものがある。風を受けて左右に揺れる笹の葉が、花大根の風景に重なって視えた。それは、現実感に乏しい、もどかしいような眺めであった。同じように、あのとき暗い家の奥から桂木を見ていた黒い犬の記憶も、なぜか希薄になっていた。ただ、それぞれの気配だけは残っている。紫の花と笹の葉ずれの音は同調していて、背後の貧相な家の軋みと犬の放心を誘って、ひと時の白日夢のようだ。混在する意識の中で、唯一焦点の合った場所があり、そこで黒犬の目が点ったのかもしれなかった。人生のある瞬間、思いがけない形で日常が立ち上がるといった経験を、多くの人びとが味わっているはずだ。長年気付かなかった事柄が、突然変異のように意味を持つことがある。...思い出の短編小説『ヘラ鮒釣具店の犬』(4)全10回
2023/06/30 09:43