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幸せを約束する聖書の言葉 https://bible.hatenablog.com/

あなたが聖書のみ言葉に接するとき、心に満足と喜び平安が与えられます。

日々、神様が私共に与えてくださる聖書のみ言葉を通して、生きる力と助けを得たいと思います。

DUGON(ジュゴン)
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千葉県
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那覇市
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2010/06/15

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  • 終りの時には(4)・・・福音を伝える困難

    「全世界に出ていき、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」 マルコによる福音書16章15節 福音を伝える困難は、何時の時代もありました。 しかし、神様は「全世界に出ていって福音を伝えよ」と、大きなビジョンを与えています。 それと同時に、聖霊を与え、不思議な奇跡的な方法で、そのビジョンを遂行できるようにしています。 夢、幻を、英語ではドリーム、ビジョンとも言います。はかない夢というより、未来に対する希望、あるいは実現させたい理想に使われる言葉です。 聖霊の力が与えられていることを信じて前進いたしましょう。

  • 終りの時には(3)・・・主の名を呼び求める者は、救われる

    使徒言行録2章33節には、 「それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。」(新共同訳) 今見聞きしているこの聖霊による外国語で語る現象は、イエス・キリストがお与えになったと、ペテロは語っています。 イエス・キリストが与えた聖霊、イエスを証しする聖霊であることを忘れてはなりません。 聖霊はイエス・キリストを証しする霊です。 イエス・キリストがこの地上に来られた目的と一致します。 それは、人々の救いです。 「主の名を呼び求める者は皆救われる」使徒言行録2:21(新共同訳)とあります。 聖霊は信じる者に力を与…

  • 終りの時には(2)・・・全ての人に聖霊が与えられる

    聖霊は、ペテロの時代に始まって、今日も又、世の終りに至るまで、信じる者に豊かに与えられています。 使徒行伝2章17節、18節を見ると、 「…わたしの霊を全ての人に注ぐ、するとあなたたちの息子、娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにもその時には、わたしの霊を注ぐ、すると彼らは預言する。」 聖霊は、老若男女、全ての人に、又どのような職業、階級に関係なく与えられるのです。 聖霊が与えられると、預言をするとあります。 神の言葉を語るのです。 2章11節の後半には、「彼らが私たちの言葉で神の偉大な業を語っている」とあります。 又、ペテロ自身が14節で、「声を張り上げ、話しはじめ…

  • 終りの時には・・・(1)

    使徒行伝2章16節から21節の聖句を読むと、預言者ヨエルの預言の約束は、ペテロの時代に成就して、今日まで、その成就は続いていると述べられています。 それは、信じている全ての人に聖霊が与えられ、聖霊の力によって、福音が伝えられ、求める人々が救われていくと述べられているのです。 使徒行伝2章16節〜21節「そうではなく、これは預言者ヨエルが預言していたことに外ならないのである。すなわち、 『神がこう仰せになる。 終りの時には、 わたしの霊をすべての人に注ごう。 そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、 若者たちは幻を見、 老人たちは夢を見るであろう。 その時には、わたしの男女の僕たちにも わたしの…

  • 人類の悩みに応え、天から降りてこられたイエス

    ユダヤの民は、自分達の悩みに応えて、メシヤが神から遣わされるのを待っていました。 イエスこそ、天より使わされた、人類の悩みに応える、メシア、神の子でした。 マルコ1章9節から10節には次のように記されています。 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて、“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。 天が、開け、引き裂かれるとき、神は、ご自身を表し、人に語りかけ、人を通して神の働きがなされることを示しています。 そして、イエ…

  • 全身を制御できる人

    わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである。もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。(ヤコブ三ノ二) 言葉を使うのは人間だけだと言われています。また私たちは、言葉を使って物を考え他人にその意思を知らせます。その際、その人が語るのはその人の人格を表し、心の状態を示しているものと考えます。 ですから自分に対する他人の言葉一つに傷ついたり、時には喜んだりするのは、その人の自分に対する心の状態をその人の言葉で判断しているからです。 ヤコブは、教師は言葉をもって人々を教えるので、言葉の持つ責任の重さを強調したように思われます。 しかし、二節…

  • 自由な心

    むしろ、あなたがたは「主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう」と言うべきである。 (ヤコブの手紙4章15節) 私たちの人生の支配者はだれでしょうか。 神様でしょうか。それとも私自身でしょうか。 もし神様が私たちのすべてを支配していると信じるなら、すべての計画や考えを主に委ねなければならないでしょう。 「主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう」とありますが、ここに主に委ねた人の自由さがあります。自分の考えや計画にこだわらない、大らかさがあります。 ときに、私たちは自分の良い考えや、正しい意見が神のみこころと思いたくなることがあります。そ…

  • 門の外で彼のはずかしめを負い

    だから、イエスもまた、ご自分の血で民をきよめるために、門の外で苦難を受けられたのである。したがって、わたしたちも、彼のはずかしめを身に負い、営所の外に出て、みもとに行こうではないか。(へブル13の12、13) 神のみ旨をあらわし、信じるものを救い清めて神のみ前に立たせるために、門の外でイエスは苦難を受けられたのでした。このことは、はずかしめを身に負うことであったと述べられています。 門の外で苦難を受けたというのは、城壁の外のゴルゴタで十字架の刑を受けたということです。はずかしめを負うとは、イスラエルの指導者に拒絶され見捨てられたことをあらわしています。さらに極悪人のための十字架刑たイエスに執行…

  • 受難の死と復活

    ペテロ第一の手紙2章21節に、 「あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。」 とあるように、イエス・キリストの足跡は苦難の生涯でした。 パウロは、神の使命を果たすことの中に、その苦難は、その使命と切り離すことができなかったのです。 「わたしはこう考える。神はわたしたち使徒を死刑囚のように、最後に出場する者として引き出し、こうしてわたしたちは、全世界に、天使にも人々にも見せ物にされたのだ。 わたしたちはキリストのゆえに愚かな者となり、あなたがたはキリストにあって賢い者となっている。わたし…

  • あなたがたを捨てて、孤児とはしない

    ヨハネによる福音書14章16節に、 「父は、別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう」(口語訳) 「わたしは、父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなた方と一緒にいるようにして下さる」(新共同訳) イエス・キリストと本質的に同じで、しかも別の助け主、弁護者、慰め主を送ると書いてあります。 そして、ヨハネによる福音書14章18節、19節を読んでみると、 「わたしは、あなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰ってくる。もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたは、わたしを見る。わたしは生きるので、あなたがたも生…

  • 新しく招かれている世界

    私たちは人生の歩みの中で、祈りながら色々考え、計画を立てますが、思うようにならないことがあります。 しかし、そこで信仰の目で捉えるなら、思うようにならない事柄の中に、又自分の志とは違う場所において、新しい経験をしたり、新しい経験を見ることができるのではないでしょうか。 リビングストンは、中国伝道を志していましたが、戦争によって中国に行けず、アフリカに宣教師として行くことになりました。 彼の働きによってアフリカの伝道が進展したのです。 使徒行伝16章6節から10節まで見ると、パウロの新しい局面が開かれたことがわかります。 それは10節にあるトロアスという港町で一つの幻を見ます。それは「マケドニヤ…

  • 信じる者を救う神の力

    ローマ信徒への手紙1章16節には、 「わたしは、福音を恥としない。福音はユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いを得させる神の力だからです。」 と書いてあります。 「福音は、信じる者すべてに救いを得させる神の力だからです」という言葉に一種の驚きを禁じることができません。 それは、福音を信じると、そこには救いの力を見ることが出来るということです。 世界の誰でも、人種を問わず、又老若男女を問わず、階級を問わず、貧富や貴賤を問わず、教育有る無しを問わず、信じる者全てに救いをもたらす神の力なのです。 ローマ信徒への手紙1章16節と同じ意味の言葉が、コリントの信徒への手紙第一、1章18節に…

  • いくらかの実を得るために・・・解き放たれること(6)

    当時、ヒットラーに率いられるナチ党が、権力を奮っていました。ナチ党に抵抗する牧師たちを軍人にして、第二次世界大戦の戦線に送り出すことをしていました。 シェーンヘル牧師も戦線に赴かざるを得なかった。そして、東部戦線で捕虜になった。そして、収容所に入れられた。 そこで、何をやったかと言うと、収容所で神学校を作った。やがて、国破れたところに戻って行かなければならない。そこで何をしなければいけないかといえば、主のみ言葉を伝える者が多く与えられることだ。 収容所の中で、献身者たちを募って、若者たちを集めて、神学校を作った。シェーンヘル牧師は、その文章の中で、自分で自分に感心した。満足した。得意になったと…

  • いくらかの実を得るために…(5)主の中にとどまる

    加藤常昭という先生の説教集の中の、ヨハネによる福音書15章1節~10節までの講解説教の中で、昔の東ドイツの指導者の話をしています。 シェーンヘルという、東ドイツの全プロテスタント教会の指導者であった方の、ヨハネ15章5節にまつわる思い出を、加藤先生は語っています。 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」ヨハネによる福音書15章5節 シェーンヘルという方は、父親は、登記所の役人で、母親は随分早くから、ナチに熱狂するような女性であった。ですから、牧…

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