ハンドル名
ドルチさん
ブログタイトル
椿峰のまち
ブログURL
https://blog.goo.ne.jp/dorci/
ブログ紹介文
埼玉県所沢市にある椿峰でまちづくり活動に参加しています。その暮らしのあれこれを紹介いたします。
自由文
社会は変革のときを迎えています。 私たちは個人として力を蓄えつつ、多くの人たちとつながって行く必要があります。 それゆえ、地域で身近な人間やものに目をしっかり向ける必要があるのではないでしょうか。
更新頻度(1年)

42回 / 113日(平均2.6回/週)

ブログ村参加:2007/09/09

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ドルチさんのブログ記事

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  • 2019年2月 青森 その13

    青森のタクシーの運転手さんは話題が豊富な方が多いので、いろいろ話をしてみることをお勧めします。青森はねぶた祭が行われるだけあって道路が自慢のまちですが、2月には、雪のため道路の幅がかなり狭くなります。その雪の中を高齢者が自転車で走っていたり、少しのことで若者が切れやすくなっていたりで、運転手さんもたいへんなのだとか。新青森駅には、ねぶたの飾りがあれこれあります。青森は穏やかな人間が多いんですけれど・・・・・新青森駅のいつも写真を撮るところからです。同じ日でも太平洋側は雪が少ないのがわかります。帰りの新幹線で、岩手の駅から乗ってこられて隣の席に座った同じぐらいの世代の男性の方とお話をしてみました。雪中行軍で岩手出身の犠牲者が多かったことで、岩手の方とお話をしてみたいと思ったからです。おじいさんが日露戦争に出征し、...2019年2月青森その13

  • 2019年2月 青森 その12

    91歳の母は、大腸がんの疑いがあるとのことでしたが、本人が大腸がんの検査や手術は受けたくないとのことで希望通りにすることにしました。施設で食事やトイレには杖をついて歩けたのですが、転んで足の骨を骨折してしまい、その手術を受けることは承諾して、青森慈恵会病院というところに入院しました。弟夫婦に対応してもらい、入院の準備などは施設の方にお願いできました。青森慈恵会病院は若いスタッフが多くいて、母は満足しているようでした。とくにリハビリ部門が充実しているようです。→こちら北海道や北東北は、冬は室内にいる限りは関東よりも温かく感じられます。高齢者にとって、電気代を安くしてもらえればありがたいですね。冬というものをしっかり体験したい方は、ぜひ青森にお出かけください。青森はものを考えるにはふさわしい場所であることに気が付き...2019年2月青森その12

  • 2019年2月 青森 その11 八甲田山雪中行軍〔7〕

    日露戦争での現地総司令部として満州軍がつくられたとか。→こちらこの情報担当の高級参謀に福島安正がいたとのこと。満州軍の隷下部隊である第2軍司令部に酒井勝軍は配属されました。・酒井の配属された第二軍は、明治三十七年三月に編成され、司令官は奥保鞏(おく・やすかた)がつとめており、遼東半島に上陸し、満州中央部に向かって北進するという重大な任務を課せられていた。この第二軍には、騎兵第一旅団を率いた秋山好古(あきやま・よしふる)や、乃木希典(のぎ・まれすけ)の長男乃木勝典(かつすけ)が所属していたことで知られている。森鴎外はこの第二軍の軍医部長だったんですね。観戦外国武官たちと森鴎外は接触があったのかどうかわかりませんが、この第二軍に国際的な注目が集まっていたことを森鴎外は感じていたことでしょう。森鴎外は1904年4月に...2019年2月青森その11八甲田山雪中行軍〔7〕

  • 2019年2月 青森 その10 八甲田山雪中行軍〔6〕 つづき

    『「異端」の伝道者酒井勝軍』によれば酒井勝軍は17歳から21歳まで仙台で過ごしたとのこと。仙台神学校(のちに東北学院に改称)にいて相馬黒光と交流があったとは驚きです。相馬黒光についてはこちらこの相馬黒光が酒井勝軍について一文を残しているんですね。(以下青字は「異端の伝道者酒井勝軍」からの引用です。)・酒井勝軍は均整のとれた見事な体格、立派な風貌で、音楽が好き、賛美歌をうたふ時は多勢の中からこの人の声だけが際立つてきこえました。無口な方でしたが末無(すえなし・仙台木町通りの地名、黒光の実家があった)の家へよく訪ねて来てくれました。そしてだんだん事情がわかると、酒井さんは貧しい中で勉強している様子、それは自(おのず)から服装などにもあらはれましたから母も共に同情して、手づから織つた木綿縞(もめんじま)を私が縫って、...2019年2月青森その10八甲田山雪中行軍〔6〕つづき

  • 2019年2月 青森 その10 八甲田山雪中行軍〔6〕

    日露戦争では、第八師団は満州軍の予備隊に属して黒溝台会戦に援軍として投入され、作戦的にも問題があって大きな被害を出したようです。→こちら雪中行軍を成功させた弘前第31連隊の隊長である福島泰蔵大尉と第5連隊の生き残りである倉石一大尉は、この会戦で亡くなりました。映画「八甲田山死の彷徨」についてはこちら観たような気がするんですがだいぶ前だったので記憶に残っていなくて・・・・・高倉健が軽い凍傷にかかるなど撮影はかなりたいへんだったようです。高倉健の演ずる役のモデルは、弘前第31連隊の福島泰蔵大尉苦労したあげく、その努力はほとんど認められず山中の案内人の扱い方など問題点も指摘されている福島大尉にとって少しは慰めとなることかもしれません。日露戦争の戦いを細かくみると、薩長出身の指揮官がいて、前線に東北の部隊が使われた場合...2019年2月青森その10八甲田山雪中行軍〔6〕

  • 2019年2月 青森 その9 八甲田山雪中行軍〔5〕

    新田次郎「八甲田山死の彷徨」は1971年(昭和46年)9月に新潮社より書下ろし刊行されたとのことです。江藤小三郎や三島由紀夫の影響はなかったでしょうか。その影響があったとして、さらにこの小説の影響力は多大であったといえるのではないでしょうか。私はそのころちょうど20歳で、何も知らずに過ごしておりましたが、今ごろになっておぼろげながらその時代というものがわかるようになってきました。細かい事実に関しては埋もれてしまったり、思い込みが真実とされてしまうこともあったりするのでしょう。雪中行軍については、未だに新事実発見ということがあり、語り継がれていく、ということが大事そうです。新事実発見はできませんが、気づいたりしたことを書いてみたいと思います。・1902年1月30日午後7時過ぎに青森で大きな地震があったとのこと。→...2019年2月青森その9八甲田山雪中行軍〔5〕

  • 2019年2月 青森 その8 八甲田山雪中行軍〔4〕

    日露戦争を前にして、緊張感にかけた雪中行軍の訓練をしてしまった青森の悲劇とするだけでは、それほど教訓は得られないようにも思います。八甲田山雪中行軍遭難事件についてこちらブログでまとめてお伝えするには難しい事件ではありますが、少し違う視点から考えてみたいと思います。歩兵第5連隊についてはこちら西南戦争に出かけて戦死者や戦病死者がいたとのことです。日清戦争を経て、この第5連隊や第31連隊が属する第8師団は、日露戦争で前線に立つことは予想されたのではないでしょうか。1902年当時第8師団団長立見尚文についてはこちら第4旅団団長友安治延についてはこちら歩兵第5連隊隊長津川謙光についてはこちら最終的な責任者とされている大2大隊の山口鋠少佐は、外国語学校フランス語科を経て陸軍士官学校を卒業したとのこと。また、この雪中行軍の...2019年2月青森その8八甲田山雪中行軍〔4〕

  • 2019年2月 青森 その7 八甲田山雪中行軍〔3〕

    第5連隊の雪中行軍参加者210名のうち、凍死したのは193名伊藤薫著「八甲田山消された真実」山と渓谷社2018年によれば装備とくに靴に問題があったということが言われています。展示されているのは当然のことながら実際のものではありませんが・・・・・ほとんどがわら靴であったようです。しかも、写真より短く、かかとが足首のあたりまでの深さ程度のものだとのこと。靴下3枚を重ねてわら靴あるいは底にゴムがついていない地下足袋にわら靴など防水性がない状態での着用とか。地下足袋についてはこちらただし支給品でないわら靴で底厚のものを用意していて助かった場合があったようです。無事であった弘前第31連隊は革靴を履いてその上にわら靴であったようです。第5連隊で生き残った倉石一大尉という人物は、ただひとりゴム靴を履いていたとのこと。ただし、...2019年2月青森その7八甲田山雪中行軍〔3〕

  • 2019年2月 青森 その6 八甲田山雪中行軍〔2〕

    この1902年の八甲田山雪中行軍遭難事件については、今までに多くの出版物があって教訓ともされてきたようです。それでもいろいろな視点から繰り返し振返ってみる必要があるのではないでしょうか。1902年は、日清戦争(1894年ー1895年)と日露戦争(1904年ー1905年)の間にあって、対ロシア戦に備えてということであったようです。歴史上の教訓として、1812年のナポレオンによるロシア遠征はよく知られています。ナポレオンのモスクワからの退却:アドルフ・ノーザン作(画像はwikiによる)このとき、27万人のフランス軍を含む70万人の大陸軍が、37万人死亡、20万人捕虜で、帰還できたのが5000人だったとのこと。ロシア軍にも多数の犠牲者がでたようです。また、昔から軍がなだれに巻き込まれることはあるようで近年の戦争では、...2019年2月青森その6八甲田山雪中行軍〔2〕

  • 2019年2月 青森 その5 八甲田山雪中行軍〔1〕

    2月15日の午前中に、青森市幸畑にある八甲田山雪中行軍遭難資料館に出かけました。仮死状態で生き残った後藤房之介伍長の大きな銅像が(レプリカ)がありました。展示は1階の1つの部屋にまとめられ、わかりやすいものとなっていました。私にとって、はじめの驚きは犠牲者は青森出身者よりも岩手出身者が多かったということでした。第5連隊は私が通学していた青森高校のところにあったため、犠牲者のほとんどは青森出身者だと思い込んでいたんですね。2019年2月青森その5八甲田山雪中行軍〔1〕

  • 2019年2月 青森 その4

    亀ヶ岡の土器は格別な存在感があります。次の写真は縄文時代晩期から弥生時代の土器とのことです。端正な形に感じられます。その時代にも達人がいて敬われていた?縄文人の顔は、後世よりも現代的に感じられます。鹿の骨の櫛だそうです。貝塚の断面とのこと。青森県立郷土館はたいへん贅沢な空間です。独り占めをされたい方には冬期の平日がお勧めです。2019年2月青森その4

  • 2019年2月 青森 その3

    郷土館の新しい部分の階段から、2階の考古展示室へ。こちらは、縄文後期である約4000年前の狩猟文土器とのことです。弓矢で四つ足の動物をねらっている場面が描かれています。堂々とした土器ですね。八戸市の出土とか。こちらは土器の文様のつけ方を示した展示です。こういったアイデアが得意な人たちがいたんでしょうね。2019年2月青森その3

  • 2019年2月 青森 その2

    病院の面会は午後のほうがよさそうなので、午前中は再び青森県立郷土館へと出かけました。ホテルから歩いて5分ほどのところにあります。たくさんの展示物がありますので、できれば見学には、2日ぐらいは時間をかけたいところです。今回は解説員の女性の方に、建物についてお聞きすることができました。この郷土館の建物の一部は、1931年(昭和6年)に第五十九銀行青森支店として開業し、1943年に新しく発足した青森銀行本店となったとのこと。設計者は堀江佐吉の七男である堀江幸治で、施工は堀江組とのことです。堀江佐吉が関わった建築物は弘前に多く残っているようですが、いつか建築物巡りをしてみたくなりました。→こちらそういえば、私の父も大工になりたかったと言っていたことがありましたが、堀江佐吉のことが頭にあったのかも。階段のそばに、大きな金...2019年2月青森その2

  • 2019年2月 青森 その1

    寒いときには所沢でもあまり出かけたくないのですが、母が転んで入院したため、青森に3泊の予定で出かけました。そういうこともあるかと思い、青森でも大丈夫なコートや防寒用の下着を今年になって購入してありましたが。ホテル10階からの写真です。海へ至る道は、雪を海に捨てるトラックが夜通し通っていました。道幅は狭くなっていて、車はかなりゆっくりと走っています。小回りのきくブルドーザーが活躍中。久しぶりで大きなつららを見ました。軒下には絶対に近づかないようにと小学校ではよく注意されたことを思い出します。ブルドーザーが入れないところの細い道は片栗粉のような雪になっていて、歩くだけで運動になる感じがしました。青森の子どもたちは、雪片付けを手伝い、雪道の通学で足腰が鍛えられることになるのかもしれません。2019年2月青森その1

  • 2月3日のまち 第24回椿の和 冬のコンサート その3

    フェルメールの絵のような写真を撮りたいと思ったのですが・・・・・2月3日のまち第24回椿の和冬のコンサートその3

  • 2月3日のまち 第24回椿の和 冬のコンサート その2

    アンサンブル・風の谷コレルリやバッハの曲の演奏で、木管楽器の優雅な音色が会場に流れました。うっとりして動画に失敗申し訳ありません。まちづくり協議会Sさんから定期便のお話アンサンブル・トランタンモーツアルト幻想曲K.397ピアノを弾かれているKさんが編曲もされています。ニュータウンの一角で、こうした生演奏を無料で聞くことができるということを大いに自慢したいと思います。2月3日のまち第24回椿の和冬のコンサートその2

  • 2月3日のまち 第24回椿の和 冬のコンサート その1

    所沢・椿峰コミュニティ会館別館ホールで、年2回行われている椿の和コンサートが開かれました。主催:椿の和コンサート委員会後援:公益財団法人所沢市公共施設管理公社協力:椿峰まちづくり協議会このコンサートのプログラムやホールの様子について、Tさんのブログをご覧ください→こちら何とか失敗なく撮れた写真と動画については音楽を楽しむ会♪ふるさとは今もかわらず2月3日のまち第24回椿の和冬のコンサートその1

  • 2月2日のまち 避難訓練・芋煮会 つづき

    何度かこの芋煮会の様子を記事にしているので、似たような写真は避けたいと思っているのですが・・・・・ひょっとして男性や外国の方たちには珍しい光景かもしれません。今回はサトイモが近隣では不作だったとかで、野菜購入担当の方に、スーパーで購入していただきました。ダイコンは立派なものでみるからにおいしそうなものでした。今回の調味料です。避難訓練だからどこにもある安価なもの、にするべきか、せっかくの集まりなのだから高めのものにするべきか迷うところです。短時間でおいしくできる、という点も大事だったりします。だいたい完成して一息の写真です。共同の調理というものは、けっこう面白いと思います。ここだけの話、縄文人もこういう気分だったのかもゴミ袋、ふきん、新聞紙の用意、前日の調理器具の点検が大事です。2月2日のまち避難訓練・芋煮会つづき

  • 2月2日のまち 避難訓練・芋煮会

    インフルエンザ流行中の折の行事開催でしたが、何とか恒例の避難訓練・芋煮会を開催できました。自治会長のNさん、防災委員長のHさんは若い方たちで、何とか世代交代ができるのかもしれない、と思ったりします。午前9時から調理を始め、受付は午前11時からということになっております。今回は、椿峰小学校での土曜日での父兄参観と重なり、その終了後にお子さんと出席してもらうことになりました。高齢の方たちの中には、食事制限があったり聴力が衰えたからということで欠席される方が増えてきました。今回は、80歳前後で出かけられない方にお赤飯とお菓子を届けることにしました。在宅避難となったとき、配布ということがけっこう大変そうです。野菜は近くの農家の方から安く分けていただき、防災委員の方たちに買い出しをしていただきます。お肉は地元の大塚精肉店...2月2日のまち避難訓練・芋煮会

  • ヒロシマ原爆投下の日 その4

    最終講義には私も出かけましたが、プリントは用意してあったものの声も以前の張りがなくなっていて、どちらかというとわかりにくいものであったかもしれません。ヨーロッパの戦地を訪ねたこととかヒトラーのことを話したほうがよかったのに、と思ったりしました。よく考えてみると、17歳で原爆に遭遇し、広島のこの世のものとは思えない惨状は主人の心身に大きな影響を与えたのだと思います。最後の入院で認知症になったかと思ったとき、メモ用紙に広島と書いて得意そうな顔をしていたことを思い出します。名前が書けない状態であったのに・・・・・17歳から亡くなるまで、なぜこのような戦争が起きるのか、を調べた時間は、ほかの方よりもずいぶん長かったのではないでしょうか。先日、主人のノートにメモを見つけました。80歳ぐらいになって書いたものだと思います。...ヒロシマ原爆投下の日その4

  • ヒロシマ原爆投下の日 その3

    5.広島が一貫して投下目標に選ばれた理由(イ)西日本最大の軍事都市で7本(現在は6本)の川の洲の上にあり、川が防火の働きをして焼夷弾攻撃に適さず、通常の空襲目標から外れていた。このため無傷のまま残され原爆の目標に最適とされた。(ロ)京都と同様、三方を山で囲まれ爆撃効果が大きいとみられた。(ハ)七つの川と中央にT字形の珍しい橋(相生橋という)があり、また川の流れに直角に進めば、七本の川があるので必ず広島を探し出せるからと、地形上、目視爆撃には格好の目標になった。*夜間や雲に覆われた天候の時に使われるレーダー爆撃は地上からのレーダー妨害波によって原爆の信管が誤って作動し自爆する恐れがあったので使えなかった。(二)広島には連合軍の捕虜収容所がないとみられていた。*実は一か月前の沖縄から飛来した4機のB-24爆撃機のう...ヒロシマ原爆投下の日その3

  • ヒロシマ原爆投下の日 その2

    3.幻の声、その日の広島放送局当日、午前11時ころだったと思うが、苦しそうな男の声で「こちら広島放送局、感度あったら応答ねがいます」を繰り返す連絡放送があったのを記憶している。当時は個人用のラジオなどはなかった時代で、寮の廊下のスピーカーから流れていた。「JOBK、JOBK=大阪放送局のコールサイン=」という呼び掛けが入っていたようにも思う。ところが1992年に元NHKラジオ番組制作担当の白井久夫氏が書いた『幻の声NHK広島8月6日』(岩波新書)によると、当時呼び掛けたのは女性アナウンサーだったり、呼び掛けの内容が私の記憶とかなり違っていたりして、50年も前のこと、私の記憶力にも自信がなくなってしまったが、読み進んでいくと、当日大阪や岡山の放送局と連絡をとろうと繰り返すうち、疲れてきたので、何人かの局員が放送担...ヒロシマ原爆投下の日その2

  • ヒロシマ原爆投下の日 その1

    主人である藤村瞬一が亡くなってもうすぐ5年になります。主人の遺した書類の中から、大学の最終講義のプリントが出てきました。最終講義は1997年1月13日に行われています。ヒロシマ原爆投下の日1.「エノーラ・ゲイ」(原爆投下機)などの進入経路当日のBー29、3機の進入について様々な説があったが、現在は米第21航空軍509混成航空群の作戦任務13号が公開され、全貌が明らかとなった。それによると、8月6日午前0時37分(日本時間)、気象観測機3機、広島、小倉、長崎へ出発。テ二ヤン島から広島まで片道約2,400キロ、6時間30分の航程。午前7時すぎ3機は豊後水道を北上、伊予灘で分散、広島担当の「ストレート・フラッシュ」号は、広島上空を3回旋回した後、7時25分ごろ「第1目標を狙え」の暗号無線。「エノーラ・ゲイ」と随伴の計...ヒロシマ原爆投下の日その1

  • 1月11日のまち 航空公園駅から

    このごろよく所沢・航空公園駅を利用するのですが、駅前バス停でクスノキに話しかけられたような気がしました。クスノキについてこちら防虫、抗菌ということについて役立ちたいとか?日本の植物はその特徴を生かして十分に役立てる必要がありますね。「薬師の国日本」というイメージは悪くなさそう。多くの人たちの仕事になるはずだと思います。所沢はほっとスポットがけっこうあります。AIの時代には、それだけほっとスポットが必要そう。ここだけの話、たくさんの観光客が押し掛けてくるところではありません。けっこう便利なのだけれど静かで自然豊かなところなのです。また、冬の太陽がありがたく感じられます。北海道・東北の方たちが冬の間、こちらで過ごすといったことができればいいのにと思ったりします。今は、合理的な住み方や働き方を見直してみる機会と考える...1月11日のまち航空公園駅から

  • 2018年12月 青森 その11

    なぜ、大高興先生は貴重なコレクションを寄贈することにしたのでしょうか。読売新聞昭和52年8月16日の記事が「風韻堂雑録」に掲載されています。「きずな」――恩師との”約束”果たすより◇紅白マンジュウ失敬忍び込んだ真っ暗な職員室で、目当てのマンジュウをがぶりと一口やった時だった。パッと電気がついて、入り口に担任の塩谷雄馬先生が立っていた。昭和十四年。西郡岩崎村黒崎小学校のあすは卒業式という前の晩だった。当時、私は複々式授業が行われていたこのへき地校の六年生。級長だったから、卒業生二十三人を代表して答辞を読むことになっていた。だが、卒業式のために準備されたアンコ入りの紅白マンジュウが食べたくてしょうがない。一日がまんすればいいのに、それができず、つい職員室にしのびこんだ。雄馬先生は名前の通り馬づら。やせて小柄な先生と...2018年12月青森その11

  • 2018年12月 青森 その10 つづき

    このご著書には、新聞での紹介記事のほか、考古資料などについての随想・随筆だけではなく、医学のご研究や保健所長としてのご体験についても書かれています。プロローグは中学生であったお嬢さんの作文「遺物と父」です。その作文から・小さいころから私にとって、がらくた同様の遺物を収集している父は、単に土器キチガイでしかなかった。私の楽しみにしていた約束は、たいていすっぽかして土器掘りに行く父であったからだ。幼心に、父は私の実の父ではないのではないか――とまで疑ったくらいであったし、また何度泣いたかしれない。だから、もちろん父が三十数年間も一筋に集めている理由さえわからなかった。しかし、昨年六月に突然寄贈すると言い出した時、私たち家族は驚いてしまった。いざ、そう言われてみると、この上もなく惜しいような気がしたし、半生かかって収...2018年12月青森その10つづき

  • 2018年 12月 青森 その10

    風韻堂コレクションを寄贈された大高興先生は、亡くなった父の友人であったようで、両親から思い出話をときどき聞かされておりました。父の本棚に大高先生のご著書「風韻堂雑録」昭和54年があって、付箋や鉛筆の傍線がついています。略年譜より、一部抜粋大正十五年十一月二十三日青森県西津軽郡木造町菰槌に生まれる。昭和七年亀ヶ岡遺跡から完形の毒つぼを拾う。昭和二十年青森大空襲で下宿全焼。昭和二十五年弘前大学青森医学専門学校卒業。昭和三十一年医学博士の学位授与。昭和三十一年弘前医科大学講師。昭和三十一年宗像志功画伯と親交。昭和三十二年弘前大学医学部助教授。昭和三十三年青森県黒石保健所長。一時鰺ヶ沢保健所長。昭和三十七年青森市の自宅で養父開業の手伝い。昭和四十一年収蔵庫建築、翌年宗像志功画伯が「風韻堂」と命名す。昭和四十六年現住地に...2018年12月青森その10

  • 2018年 12月 青森 その9 つづき

    額の字は棟方志功によるものだとか。遮光器土偶です。器のデザインは現代的にも感じられます。漆が使われているものがあります。撮影は許可されています。たいへん贅沢な空間に感じられないでしょうか。2018年12月青森その9つづき

  • 2018年12月 青森 その9

    回り道をしてしまいましたが、実はこのとき、郷土館の常設展にある風韻堂コレクションを観たいと思って訪れたのです。風韻堂コレクションについてこのコレクションは大高氏がご尊父と二代にわたって苦心の末収集された一万1千点余に及ぶ考古資料です同氏は青森県の文化遺産として県民に役立ててほしいととの願いをこめて当県立郷土館の開館に際して寄贈されましたこの資料は県重宝に指定された亀ヶ岡遺跡の出土品をはじめ優品が多く学術的にも高く評価されています当館では大高氏の御厚志を記念しこれを風韻堂コレクションと呼び特別展示室を設けました大高興氏については2018年12月青森その9

  • 2018年12月 青森 その8

    2013年に青森県立郷土館の開館40周年記念として特別展「平尾魯仙」が開催されたとのこと。先日、そのときに発行された図録を購入することができました。残り2冊だけということで間に合いましたが、今は売り切れたかもしれません。いろいろと興味深い記事や資料がありました。ほんの一部だけの紹介です。青森のダ・ヴィンチというのもなるほどと思ったりします。もしかして、日本には知られていないダ・ヴィンチのような画家がいたのかもしれませんね。古臭いといわれた日本画も、観察力を鍛えるといった面があったりしてこれから見直されていくのかもしれません。今後、世界中に日本文化に興味をもつ人たちが増えていき、無名の画家たちが発掘されないとも限らないあるいは昔に外国人によって購入されたすばらしい美術品が里帰りしてくることもあるかもしれない絵とい...2018年12月青森その8