(東京都新宿区内藤町)三河岡崎出身で高遠藩初代藩主である内藤清成は、慶長七年(1602)当地(後の新宿御苑)を与えられ、江戸屋敷を構えた。その際に屋敷神として先祖とする藤原鎌足を祀ったのが始まりという。明治に入り屋敷地の大半が官有地になったため、神社は現在地に遷された。境内には明治5年(1872)に移された駿馬塚があり、徳川家康が清成に「馬でひと息に回れるだけの土地を与える」と言い、清成が乗った馬は千駄ヶ谷、大久保、代々木、四谷を走り死んでしまった。文化十三年(1816)に至り、馬を埋めた樫の木の跡に「駿馬塚」を造り碑を建てたという。多武峯内藤神社
(愛知県豊橋市石巻萩平町大門2007年2月5日)豊川水系間川支流安川沿いに鎮座する神社である。神社の前の安川はかつて山王渕と呼ばれ、明治維新の神仏判然令以前は山王権現と呼ばれた。「参河国内神名帳」に「佐井天神」と記載され、平安時代には存在したと推定される。西郷七ヶ村(入文村・成沢村(石巻小野田町)・中山村・西川村・萩平村・平野村・馬越村(石巻本町))の総氏神であり、江戸時代には加納藩士西郷元安が先祖の地であるこの西郷を訪れ、山王権現に雨乞面を奉納している。萩平日吉神社
(東京都港区北青山)かつて権田氏が住していたからとされるこの地は、都心ながら明治神宮外苑、赤坂御用地となっており、緑が豊かである。権田原
(愛知県豊橋市石巻中山町太陽寺跡2007年2月5日)医(くすし)神社の鎮座する山は堂山と呼ばれ、天台宗の白星山太陽寺械明院があったという。故に付近は太陽寺郷と呼ばれていた。「太陽寺縁起」によると、平安時代末期の長承三年(1134)右大臣徳大寺成忠が創建し、十六の伽藍を建立、その子清蓮が入山したという。医神社は当初、小槻天神と呼ばれ、太陽寺の鎮守であったが、「参河国内神名帳」に名が見えることから、太陽寺創建以前からあることが分かる。南北朝時代の延元三年(1338)太陽寺は大火で焼失。再建するも大永二年(1522)に再び火災(兵火か)に遭い、廃寺となった。その後、太陽寺の仏像はこの医神社に祀られた。医神社
(東京都港区北青山)外苑通りの青山通り入り口にある両側の石垣は、大正13年(1924)競技場築造の際に設置されたものであり、江戸城の遺構ではない。旧明治神宮外苑競技場石垣
(愛知県新城市豊島字本城2007年2月1日)野田城の三の丸跡にある、青面金剛三猿像庚申塔。野田城庚申塔
(東京都町田市鶴間)神奈川から西に向かうと差し掛かる東京。町田市の南端に位置する鶴間地区の一角、東急田園都市線南町田駅は昭和51年(1976)に開業した。平成12年(2000)には隣接してグランベリーモールが開業し、それまでの通勤利用のみから商業施設利用へとシフトした。その後、再び開発によりグランベリーパークと名を変え、たまプラーザテラスや、ららぽーと豊洲等に似た雰囲気の「街並み」が広がった。南町田
(愛知県新城市豊栄字東平2007年2月1日)文明元年(1469)に創建され、永正二年(1505)に至り、隣接して臼子城と後に佐宗勝重屋敷が築かれた。寺は廃寺となり、如来像や役の行者、庚申塔等の石仏が入る堂宇が残されている。浄岩山円通寺廃寺
(大阪府門真市)企業城下町である門真(かどま)は、高度成長期に人口が増加し、松下電器からの税収も多かったが、工場の海外移転や経済成長の低迷等で大阪府の中でも財政力指数が低い自治体となった。また、淀川からの氾濫の歴史があり、現存する歴史資料が少なくなっている。門真
(愛知県新城市豊栄(臼子)字東平2007年2月1日)創建は明らかでないが、臼子城の大手門にあたることから、その当時から鎮座したと推測する。旧臼子村の産土神であり、大正5年(1916)に山村竹生神社に合祀されたが、以後も崇敬され続けている。多芸神社
(大阪市中央区石町)大川(土佐堀川:旧淀川)側の低地から、上町台地に上がる階段がある。南北に延びる高倉筋の途中に、江戸時代に築かれた石段である。旧高倉筋
(愛知県新城市豊栄(臼子)字東平2007年2月1日)豊川水系野田川支流臼子川左岸の斜面に位置する縄文時代中期から晩期の遺跡である。臼子東平遺跡
(大阪市中央区天満橋京町・北区天満)土佐堀川(大川)に架かる天満橋筋の橋である。天神橋、難波橋と共に浪華三大橋の一つであり、江戸時代は幕府直轄管理の公儀橋であった。現在の橋は昭和10年(1935)に築造されたものであり、昭和45年(1970)上段に高架橋が築造されて「重ね橋」となった。また、この地は京街道が通り、熊野街道の起点である港、渡辺津(わたなべのつ)であった。その後、当時の京阪電車終点である天満橋駅開業により、ターミナル機能を持った水辺となっている。天満橋
(雁峯山愛知県新城市2007年2月1日)本宮山を穂の山と呼んだ太古、東に辛なる峯を上穂山と呼んだ。「かみほ」は次第に「かんほう」と変わり、雁峯山となったという。上穂山
(京都市東山区五条橋東)徒然草「あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ち去らでのみ住み果つる習ひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそいみじけれ」と書かれる通り、辺りは無数の墓標に覆われている。その中に「妙見大菩薩」の扁額を掲げる妙見堂がある。神仏習合により、妙見菩薩と同一視されていた天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を祀るため、鳥居と備前焼の狛犬があるが、日蓮宗通妙寺が享保六年(1721)から管理する飛び地境内である。また、小堀遠州作の庭を眺めるために造られた舞台がある。鳥辺山妙見堂
(愛知県新城市杉山字中屋2007年2月1日)国道301号線沿いに位置する中屋居館(いだち)は、菅沼家臣今泉四良左衛門が住み、続いて塩瀬資時が居住した。遺構といえるものはないが、微高地となっていて、末裔が住んでいる。西側の木の根元には一石五輪塔があり、国道隔てて向かい側の今泉九郎左衛門屋敷跡(庄屋敷跡)の林の中には今泉家の墓標、祠、金石文等が建っている。また、付近の通称に屋敷及び古屋敷の地名があったという。杉山中屋居館
(京都市東山区清水)清水寺放生池
(岐阜県羽島郡笠松町八幡町2007年1月30日)木曽川奈良津堤には、双体道祖神を祀るへそ塚と、石造の金精神を祀る魂生大明神がある。江戸時代には笠松陣屋の脇にあり、へそ塚には堂宇があったが、明治時代に入り笠松陣屋が学校として利用された際に撤去された。その後再建され、現在地に移っている。へそ塚と魂生大明神
(京都市東山区清水国登録有形文化財)大正3年(1914)建築家武田五一によって設計された、木造3階塔屋付、建築面積256m2の洋館である。現在は飲食店として利用されている。旧松風嘉定邸
(岐阜県羽島郡笠松町西町2007年1月30日)元和元年(1615)にこの地に建てられたという盛泉寺の境内には、そのとき植えられたという高さが18mの銀杏がある。盛泉寺と銀杏
(京都市東山区古川町)東海道である三条通より南に入るアーケードの路地は、若狭街道(鯖街道)を起源とする古川町通りである。古川町は、南を横切る白川の旧流路が街道に沿ってあり、古川と呼ばれていたからとされる。東山古川町
(岐阜県羽島郡笠松町八幡町旧県社)誉田別命(ほむたわけのみこと)を祀る八幡神社は、創建は明らかでないが、土岐氏が懸仏を奉納していることから、室町時代には存在していたとみられる。慶安三年(1650)郡代岡田善政がこの地に笠松陣屋https://blog.goo.ne.jp/kourei-flow/e/cc33ef50d82f568ac9af11e72f849b72を置き、八幡神社を崇敬して以来、代々の郡代が保護した。笠松八幡神社
(京都市中京区二条城町世界文化遺産国指定重要文化財)二條城の隅櫓は、慶長八年(1603)に築造され、天明八年(1788)に大火で西北と東北を焼失したため、西南と東南のみが残る。二條城隅櫓
(浄土真宗若栗山河野善龍寺愛知県一宮市木曽川町黒田字西町南2007年1月30日)御成街道筋には、河野善龍寺があり、弘仁三年(812)傳教大師が羽栗郡和栗(一宮市大毛)に創建し、若栗山専修坊と号した。嘉禎元年(1235)同寺二十二世祐道が親鸞に帰依し、浄土真宗に改宗、河野九門徒となったという。そして、天正年間(1573-92)現在地に移転、慶長八年(1603)現在の若栗山河野善龍寺と改称された。黒田御坊
(京都市右京区梅ヶ畑槇尾町)地区にある西明寺境内の槙の古木に由来するというこの地は、若狭と京を結ぶ鯖街道である周山街道が通る。槇ノ尾
(わくくり神社愛知県豊川市東上町権現旧郷社2007年1月29日)雄略天皇年間(457-79)穂国国造が丹波国から稚産霊神(わくむすびのかみ)と保食神(うけもちのかみ)を宝飯郡江村に勧請したのが始まりと伝わる。その後、豊川の流路変遷によって東上村宮沢に遷座したが、慶長十三年(1608)代官彦坂定次によって現在地の権現山に遷座した。大正時代以降、皇室に内親王が誕生する都度、腹帯を献上している。(関連記事:)(伊那街道吉田往還豊川市東上町)前項、柿木道下から松本川に架かっていた木橋を渡り、新江島橋の下を通って、宮出川の木橋を渡ると、御番所跡があった。御番所は寛永二十年頃(1643)設けられた幕府の番所である。前を流れる豊川や街道を往き来した産物に税金を課すこと、通行人を取り締まる治安維持を目的に設けられたものである。...籰繰神社
(高雄山神護国祚真言寺京都市右京区梅ヶ畑高雄町国宝重要文化財)京の秘境高雄にある神護寺は、天応元年(781)和気清麻呂が河内国に神願寺を、山城国に高雄山寺を創建したのが始まりとされる。天長元年(824)清麻呂の子、真綱、仲世により高雄山の中腹に二寺を統合した神護寺が建てられた。真言宗の空海と天台宗の最澄による寺の繁栄があったとされる。正暦五年(994)と久安五年(1149)に火災に遭い衰退するが、文覚、上覚、明恵らによって再興され、再び繁栄した。神護寺
(愛知県新城市片山2007年1月29日)雁峯山の麓に、天正九年(1581)伊邪那美命(いざなみのみこと)と菊理媛命(くくりひめのみこと)を祀ったのが始まりという。境内にはスギやイチイの古木が立ち、鬱蒼とした境内である。片山白山神社
(京都市右京区梅ヶ畑菖蒲谷)清滝川沿いのこの地は、古来、水辺では菖蒲が、山の斜面では梅が栽培されていたという。梅ヶ畑菖蒲谷
(愛知県新城市杉山字大東2007年1月29日)室町時代、野田館富永氏の臣として椙山修理がこの地に住み、屋敷神として稲荷を祀ったのが始まりという。文化年間(1804-18)現在のような姿になった。畑中稲荷
(京都市右京区嵯峨清滝)標高896mの桟敷ヶ岳より発し、保津峡で桂川に注ぐ清滝川のほとりの地区である。戦前までは嵐山から鉄道が通じ、愛宕山へはケーブルカーが存在したが、戦時中の不要不急線扱いにより廃止され、それまでの遊園地は失われた。清滝川沿いに東海自然歩道京都トレイルがあり、高雄方面へトレッキングすることができる。清滝
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