教育問題を中心に、感じたことや考えたことを覚え書き風に記します。
大学で教職課程の授業を担当。余暇はガーデニングに。育てる、世話をする、創り上げることの面白さを探っています。
再構造化の過程とはどのようなものでしょうか。『意味構造に立つ読解指導』での沖山の言を基に順序づけをしてみます。① 文章全体を関係面に注意しながら通読する。(構造の秩序の発見)・・・「見通し」 まず文章の意味構造の全体像を洞察する。内部構造は一つの統一
文章を意味の構造体ととらえると、読解のあり方はどうなるでしょうか。 一番大切なのは、書き手が何をどのように伝えようとしているかということです。ですから、文章の表現に即して、「意味布石」を発見し、意味布石相互の意味としての関連を洞察し、焦点化を低次から
ソシュールは、一般的に使われている言語(ことば)を言語(ラング)と言(パロール)に区別しました。言語というのは、話しや文章中に位置づけられる以前の約束としてのことば、辞書的なことばのことです。言というのは、話しや文章中に使われることによって、限定された
先に、沖山はソシュールに関心を持っていたと述べました。 スイスの言語学者であるフェルデナン・ド・ソシュールはさまざまな学問に影響を与えた『一般言語学講義』で有名なのですが、この本を世界に先駆けて最初に日本語で翻訳したのが小林英夫博士です。『言語学原論
『意味構造に立つ読解指導』から、基本となるものを確認していくことにします。 最初に「ことば」についてです。 沖山は、「なによりもことばは具体的、個別的な人間に所属する」と述べています。ことばは人間によって語られ、人間によって聞かれ、そのような人間相
沖山の構造学習論は、1958年(昭和33年)に出された『意味構造に立つ読解指導』から1970年(昭和45年)の12年間を通して確立されていきます。読解についての基本的な内容は変わりませんが、方法については実践者である各地の教師の研究を汲み上げ、実践を検
戦後の教育復興のために文部省に入った沖山は、石森延男を助けて教科書の編纂や学習指導要領作成にかかわりました。とりわけ教育の内容と方法については、アメリカの経験主義の影響が強くあり、ほどなく学力低下が社会問題になります。 沖山は、文部省にあって学力調査
二松学舎専門学校を卒業してからは、沖山の学問的探究態度はますます強まっていきます。一つは言語学者の小林英夫との出会いからソシュールについて学び始めたことですが、もう一つは、当時教育界に影響を与えていた解釈学的方法です。しかし、これには疑問を持っていまし
沖山にとって、国語教育、わけても読解指導については生涯一貫して追求したものでした。構造学習論の創造は師範学校で学び始めて以後、その延長線上にあるもので、必然的なものであったと考えられます。 先ずは、学びたいという思いが何よりも強くあったようです。
沖山光の生涯を見ると、三つのターニングポイントと活動期があります。 一つ目は、1925年(大正14年)20歳で教職に就いてから1945年(昭和20年)の敗戦まで。教職に就き、国語教育に情熱を傾けたときでした。 二つ目は、文部省に入り、終戦後の教育復
そこで、沖山が構造的読解指導を訴え、構造学習論を確立するまでの道のりをなぞりながらその中身をつかんでみたいと思う。 先ず、沖山光の略歴だが、1905年(明治38年)丁度日露戦争が終わった年の生まれである。幼少期を大正デモクラシーの時代に過ごし、東京府
文部省(現文部科学省)の最初の教科調査官(国語)であった沖山光は、1977(昭和52)年、72歳のときに『人間変革の学習論』を著した。発行の目的は研究会の同士に向けたものだという。構造学習の理解者であった印刷所の経営者の手によって刊行されたので、一般の
第56回全国構造学習研究大会が福島県の三春で開催された。 その中で、「構造化力を生かした学級経営」という小竹幸子先生の実践発表があり、助言者の役を担当することになった。 丁度よい機会なので、助言とは何か、助言者とは何をすべきなのかを考えてみたい。
先ず、全体の意味を大づかみにするということです。<全体をつかむ>(1)全文を読んでずばり言いたいこと(本質)をつかむ お話は何を語りかけているのだろう。そう考えながら読み進めていきます。その時、国語科の学習の基礎となる力がどのように身についているか
文章を読むということは、書かれている内容を理解し、納得し、考えをもつということが読み手の内面につくられるということです。書かれている内容を理解するためには、そこに必然的なプロセスがあるはずです。いわゆる学習過程ですが、それは人為的につくられる過程ではな
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