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地形図で見る羽田から府中までの筏道
つぎは、府中市内から多摩川の河口までの高低差を付けた地形図です。 赤い線は筏道です 二本の筏道の間にある濃い青色が、多摩川です 筏道が多摩川の左岸と右岸にあることがわかります 右岸の筏道が矢野口の渡し場で終わっているのは、ここから左岸へ渡ったためです
2023/08/08 10:44
羽田から府中までの筏道で引用させてもらった文献
「筏流し」についての記事は、いくつかの書籍に少しだけありますが、「筏道」についての出版物は探した範囲ではありませんでした。そのなかで、下記の書籍が目に留まりました。 引用資料のページ16ー17は一般的な地図です。この地図にある順路を、このサイトの羽田から府中までの筏道の順路とします。 《引用文献》著者名 : 平野順治編 集 : 大田区史編さん委員会出 版 : 東京都大田区発行年 : 1979書籍名 : 『 史誌12 』記事名 : 「 消えゆく筏道 ある歴史の時間のなかで 」ページ : 16-17の地図
2023/08/08 10:25
筏道は羽田から奥多摩まで
筏流しと筏乗りについては『筏道は筏乗りが歩いて帰った道』のページに示しました。では、筏道の全体はどうなっているのでしょうか。つぎの地図は多摩川の筏道の全体図です。 赤色と青色の線が筏道で、全体の距離は76kmになります。資料によると筏道は16里*1、現在の64kmだったという説明がありますが、これは筏乗りたちが帰る奥多摩の場所をどこにするかと、途中の順路の設定によって違ってきます。 全体距離の違いは多少ありますが、多摩川の筏道の全体像は変わりません。 *1:福島和夫,2012,福島和夫,『多摩川最後の筏乗り 高野近太郎翁の聞き書き』,p22
2023/08/07 10:40
筏乗りの村と奥多摩の風景
別ページでは、筏乗りの人数と出身の村について述べました。資料によると明治20年の筏乗りの中で、いちばん遠い出身の村は奥多摩の棚沢村でした。棚沢村の筏乗りたちは筏を届けた後、六郷から棚沢村まで歩いて帰ったのです。 では筏乗りたちが歩いた奥多摩の筏道は、どういう風景だったのでしょうか。立体地図を使って見ることにします。別ページ:筏乗りの人数と出身の村 つぎの地図は、別ページで扱った4つの村を示しています。この4つの村の風景はどのように見えたのでしょう。 つぎは、斜め方向から見た4つの村で、鳥が空から眺めているような絵になっています。手前が川の下手(しもて)です。赤い丸は村の場所です。多摩川と筏道が…
2023/08/01 14:33
筏乗りの人数と出身の村
明治20年の筏乗りの人数 明治時代の地図で筏乗りの出身村を探す 地形がわかる立体地図で村の場所を見る 村の集まりを3つに分ける 分割3-1 分割3-2 分割3-3 明治20年の筏乗りの人数 江戸時代から明治時代を経て大正時代まで、多摩川の筏流しはたいへん盛んでした。では、その筏に乗っていた筏乗りは、何人いたのでしょうか。 つぎに示す表は、明治20年の筏乗りの人数です。当時、筏乗りたちが仕事をするのには名前を登録する必要がありました。 明治時代の地図で筏乗りの出身村を探す 青梅から先への鉄道が使えるまでは、筏乗りは六郷から奥多摩まで歩いて帰りました。そこで、明治20年の196人の筏乗りたちが帰っ…
2023/08/01 09:18
2023年8月 (1件〜100件)
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