うまくいかなくて充実感を得られない人生は 自分に対しても周りに対しても 嫌な気分を作ります そういう人は 自分の失敗を他人や社会のせいにします そうして周りの調和を壊し 反作用で自分が苦しむことになるのです 個人が充実感を感じるか 不満を感じるかによって 社会の平和は左右されるのです
何事もうまくいっていて幸せな人は 他人に危害を与えたり 迷惑をかけたりしません そういう人は 喜びを感じながら いいことをします だから 周りから良い反応が返ってきます すると、さらに良いことをしたくなります このように 充実感のある人は 周りにも幸福の影響を与えて 安全に生きていられるのです 喜びと充実感を感じることが 社会の安全につながるのです
生きるとは 互いに協力し合うことで成り立っているのです 「お互い様」 なのです 生きることは他人の世話になることであり 自分も人の役に立っていることです そこがはっきりわかっていれば 成功を収めることができます
私たちは 大自然から 他の生命から 多大な布施(恵み)をいただいて生きています 一方的にいただくばかりで 返そうという気持ちはなさそうです それでは 人生は借金ばかりです 多重債務を抱えて 不幸になるに決まっています たとえ小さくても良いから 大自然と全ての生命に何かをお返ししましょう できる範囲で 少しでも債務を減らそうではありませんか
一人の行動ということが 全体に影響を与えるのです それは、 地球全体にも通じるのです 一人が勉強すること 挨拶すること 微笑むこと それが社会全体の調和を守っていくのです 自分という一人の行動が とても大切な価値を持つのだとわかれば やる気が出てくるでしょう
「役に立つ」 というのは 生命を支えること、喜ばれることです 生命は他から支えられないと 成り立ちません 生きるとは あらゆるものに支えられていることです それは 「布施されている」 ということなのです だから 多量の布施を受けて生きている私たちは 「他の役に立つ」 という布施を行わなければならないのです 例えば、公園で空き缶を拾うとか マナーを守るとか そういう些細なことでも 役に立つのです
人は、何かしら他と関係を持って生きています 生きているということは 関係性です その関係性の中で 何か「役に立つ」ことが大切です 「役に立つ」といっても 決して大それたことではありません お茶を入れてあげたり 微笑んだり ちゃんと挨拶するとか そういった小さなことなのです それによって 人の気持ちを穏やかにさせたり 気分良くさせることが 「役に立つ」 ということです
ゴキブリにもアリにも 堂々と生きる権利があります 私たちは その権利を奪うことはできません 他の権利を奪えば 自分にも権利がなくなってしまいます しかし 私たちは、石や土は食べられません 他の生命を奪わなければ 生きていられないのです 生きるということは 他の命を奪っていることです 生きるということは それほど立派なものだと思わないほうがいい むしろ 恐ろしい行為だと気づくことです
悟った人は 全てのものが無常であることを 実感して生活します だから 何も貯めることはありません 心に何の不安もありません 食事さえも 体を維持するために必要な量だけに限ります 鳥が空に足跡を残さないように 悟った人の行方にも 足跡はないのです
仏教は 「得る道」 ではなく 「捨てる道」 を教えます 捨てる生き方を歩もうとすると 身も心も軽くなって 楽な気持ちがずっと続きます 「得る道」 は、依存を増幅する道です 不自由な道です 「捨てる道」は、 自由を獲得する道です
観念的に、 「欲しい」 というのではなく、自分に本当に必要であれば そのものは簡単に手に入るのです 必要なものは、 自分で獲得する能力が備わっているからです 必要でないものを 「欲しい」 と、頑張るから うまくいかないのです 具体的に必要であれば しっかりと頑張れるのです あたふたしなくていいのです
人は、必ず死にます そして、いつ死ぬのかわかりません 今日かもしれません 明日かもしれません 「今日、死んでも大丈夫か」 と、いつも念じて暮らしていると 平和な生き方ができるようになります。 「今死ぬかもしれない」 と思うと、 ものを集めたり 人と争う気持ちはなくなります
ものを持たない生き方が素晴らしいのです 何もないことを喜べるのが、理想的な人格なのです ブッダが、比丘たちに言いました 「鳥たちはどこに行くにしても、自分の翼だけを持って行く 何も荷物はない しかし、どこにいても完璧である だから、比丘たちも三衣一鉢だけでいいのだよ」と。 何も持たない生き方は、 どこにいても自由で 何もかけるところがないのです
「あれが欲しい、これが欲しい」 「あれが足りない、これが足りない」 という人は 他に依存した生き方になっているのです 必要以上にものがたくさんあるのは 多くを依存して、人格ができていないのです 高価なものを置きたがるのは、 依存が強くて、気が弱いのです。 そういう人は ちょっとしたことで 動揺し、悩んだり苦しんだりします 精神が脆くて危ないのです
ものを捨てるときは、いい気分で捨てましょう 「捨てるのはもったいない、申し訳ない」 という気持ちもわかりますが 「解放されたぞ」 という気分で スッキリ捨てましょう
諫暁八幡抄 (かんぎょうはちまんしょう) 弘安三年(一二八〇)一二月、五九歳、於身延 馬というものは一、二歳の時は、たとえ関節がのびて円(まる)い脛(すね)で、 脛が細長く腕が伸びていても、病気があるようには見えない。 しかし、七、八歳になって身体も肥え、血管が太くなり、 上体が大きくなり下体が細い時は、ちょうど小さな船に大きな石を積み、 小さな木に大きな果実がなったように、いろいろの病気が出てきて、 人の役にも立たず、力も弱く、寿命も短くなるものである。 諸天や神々などもそのようなものである。 この世界ができたばかりの成劫の時代のはじめには、前世の果報が すぐれた衆生が生まれかわってくる上に…
盂蘭盆御書(うらぼんごしょ) 弘安三年(一二八〇)七月一三日、五九歳、治部殿祖母宛 治部房日位殿の祖母御前からきたお手紙のご返事 日 蓮 白米一俵・焼米・瓜・茄子等をお送りいただき、 たしかに仏前へお供えして、あなたのお志を言上いたした。 ちょうどお盆を迎えたので、盂蘭盆について申し上げよう。 その昔、仏の弟子に目連尊者という人がおられた。 この人は智慧第一といわれた舎利弗と並んで、神通第一といわれ、 あたかも須弥山に日と月が並んでいるように、また大王の左右に いつも付き従っている大臣のような存在であった。 この人の父は吉懺師子といい、母は青提女といった。 その母は大変に物惜しみをして自分の持…
ものが多くて、捨てられない人がいます どんなものでも、ものは全て「荷物」だと思いましょう 人間は、荷物を集める清掃車みたいなものです 限りなく荷物は増えて行きます 衝動的に、「これが欲しい」と買ったり集めたりすると ものはどんどんと増えて行きます 目的がはっきりしていないので使うこともないし、 かといって、捨てられない コントロールするには、 「これは本当に必要だろうか」 「なくては困るものなのだろうか」 という基準で選択することです。
愚かな人は、自ら自分の気持ちを「暗く」します。 賢者は、自ら「明るく」しようと努めます ある落語家が、寄席の舞台から足を踏み外し、客席へ転げ落ちました 彼は、腰をさすりながら再び舞台へ上がるなり 「どうも、ラクゴシャです」 と、一言 「落語家」と「落伍者」をかけたうまいシャレに観客はドッと湧きました 失敗に、ひどく落ち込んで気持ちを暗くするのは、愚かなことです。 何かを失ったり、大勢の前で恥を書いたりすることを恐るあまり、 挑戦することから逃げるのは、もっと愚かです たった一度の人生なのに、とても勿体無いことです これに対して賢者は、その恥ずかしい失敗を、むしろ楽しもうとします 失敗を笑い話に…
眠れない人には、夜の時間が立つのが長く感じられます。 真理を知ろうとしない愚者には 人生の時間が立つのが遅く感じられます。 「時間の流れる速さ」には、人によって違いがあります あなたは、日々どう感じていますか? 「楽しい」 「面白い」 と、感じているときは、時間が立つのがとても早く感じられます。 それに比べ、 「つまらない」 「退屈」 「面倒臭い」 と、感じていると、時間が立つのがとても遅く感じられ、 時計ばかり機になるものです。 「人生」も同じです 今この一瞬を楽しんで、一生懸命生きる人は、1日があっという間にすぎ、 毎晩、明日が来るのを楽しみに眠りにつくことができます。 これに対し、自分の…
愚かな人は、自分と他人を比較して悔しがります 賢者は、自分と他人を比較して励みにします。 人は、「他人」を気にする生き物です。 あの人と自分と、どちらが美しいのか ライバルと自分と、どちらが評価されているのか あの人と自分と、どちらがより幸せか そのように他人と自分を比べずにはいられないのです それが「人間の性」ですから、無理に比べるのをやめろとは言いません 重要なのは、「自分の方が負けている」と感じたときに、 どうするかです。 例えば、同期の同僚が自分より先に昇進したとき 愚かな人は、「先を越された、悔しい!自分はもうダメだ」 と、大騒ぎして、心を波立てます。 一方、賢い人は、波立った感情が…
花の香りは、吹く風の向きに逆らって流れてはいきません しかし、賢者の香りは、風に逆らってでも広まっていきます 全方向に 優れたものの評判は、自ら 「この商品はすごい」 「私は素晴らしい」 などと宣伝して回らなくても、自然に広まっていくものです あるレストランは、何の宣伝もしていませんし、看板も出していません それでも、口コミで、美味しいと言う評判が広まり、店内はいつも満員です 「人の噂」とは、そう言うものなのです たとえ、他の人に成果を横取りされ、嘘の悪評を流されようとも、 真に力のある人、誠実な人の評判は、必ず広まります。 もし周りから高い評価を得たいのなら、自慢話をして回るよりも、 実力を…
賢い人は 自分の欠点を、しっかり指摘してくれる 聡明な人を歓迎します その人は 隠れた才能を引き出してくれるのですから 「その提案は、ここを見落としている」 「あなたのスキルは、ここが今ひとつだ」 と、欠点を率直に指摘してくれる親しい人を あなたはどう扱いますか? 愚かな人は、腹を立てて、その人を遠くへ追い払います 賢者は、「良い点に気づかせてもらった、これからもずっと そばにいて、適切なアドバイスをしてもらえないか」 と、その人を大切にします なぜ、相手は厳しいことを言うのか 相手の身になって考えてみましょう それは、傷つけてやろうとか、バカにしてやろうと言う 意地悪な気持ちからではない場合…
ミツバチは、花を傷つけることなく、蜜をとって行きます 賢者もまた、相手を傷つけることなく 相手の長所を自分のものとします どんな人にも、必ず「いいところ」があります 賢者は、他人の「いいところ」だけを上手に吸収し 自分の成長に役立てます 例えば、素晴らしいアイデアを出せるようになりたいと思ったら、 凄いアイディアマンを見つけて、その人がどんな本を読み、 どんな映画や音楽に興味を持ち、どんな人と付き合っているのか じっくり観察します さらに、そのアイデアマンに自分から積極的に質問して いいアイディアを出す方法を教えてもらい、それを学び取ります ただし、相手を騙してノウハウを盗んだり、裏切って相手…
花摘みの上手な人は、美しい花だけを摘んでいくものです 賢い人は、「良い言葉」のみを自分のものとします 「悪い言葉」を拾い集める必要はありません 愚痴、悪口、ネガティブな話題が聞こえても、同調してはいけません 「悪い言葉」に同調してしまえば、その人と同様に、 働くことが億劫になったり、将来への不安が湧いてきたりするものです。 「感謝を知らない気の毒な人だ」と遠巻きにしていれば、 悪影響を受けずにすみます 逆に、前向きでポジティブな「良い言葉」は 「そうですね、私もそう思います」と積極的に同調して受け入れましょう あなたの気持ちもポジティブに保てるようになるからです 日々、テレビや新聞、雑誌から洪…
怠けて暮らしてはいけません悪い考えを抱いてはなりません心配事を増やしてはいけません愚かな行いに、馴染んではいけません 幸運を招くのも、不幸な人生を歩むのも、 この世に生きるあなた次第です。 運命は、生まれる前から決定しているわけではありません。 日々、あなたが何を考え、何を行うかで決まるのです。 つまり、自由自在なのです 「私は不運にばかり見舞われる、これからも「いいこと」なんて起こらない」 などと思うのなら、まずその「間違った考え」を捨てましょう 投げやりになって、幸せになるための努力を怠ければ、 心配事をさらに抱えるでしょう そんな余裕のない貧しい考えは、あなたの心から慈悲心を奪い 自分の…
【今現在をよくすることから始めましょう】 今の日本は、将来に向かって良くなっていく材料を見つけるのが、 なかなか難しい状況にあるかもしれません 国全体の未来が暗いということですね。 国の将来は、自分一人の力で変えられるものでもありませんから、 将来のことを前向きに考えるのは、なかなか難しいのかもしれません。 しかし、自分の将来に希望を見出せないというのは、その人の「今」が よくないからではないかと思います。 人は将来のことを、今の状況から思い描きます。 もし、今がとても良いのであれば、将来もそれほど暗いイメージにはならない と思います。 仏教では、過去や未来ではなく、「今現在をどう生きるのか」…
じわじわと広がる淡い痛みのような感覚が、心の奥の方にある はっきりとした理由があれば何か対処もできるけど、思い当たることもないから どうすることもできない できることがないから、いつまでも痛みが消えない もうどうしたらいいのかわからない そもそも、心にはびこる不安とはなんなのでしょうか 不安というのは、心の痛みと思うとわかりやすいかもしれません 体に痛みがあるように、心にも痛みがあります。 痛みなんて感じたくないし、ない方がいいと思う人も多いかもしれません でも、痛みがなくなってしまったらどうなるでしょうか 転んで足首を捻っても、痛みを感じることができないとしたらどうでしょう 捻挫をすると、足…
自分の欠点を人から指摘されるとムカつきます。いけないことですか?
【相手に腹をたてるのは筋違い】 あなたは、自分の欠点がちゃんと言えますか? 自分で変わっているつもりでも、 自分の欠点はなかなか見えないものです。 修行を重ねた坊主でさえも、一人一人見ていけば、皆欠点がある。 誰でも、人から指摘されて初めて気がつく欠点がたくさんあります。 自分ではわからない欠点をわざわざ教えてもらったのですから そこは気分を害したりせずに、真摯に受け止め、 「ありがとう」 とお礼を言うべきでしょう。 欠点を指摘されると言うのは、自分に指摘されるような悪いところが あると言うことです。 つまり、自分が悪い。 相手に腹をたてるのは筋違いです。 もちろん、敵対する人から指摘を受ける…
忘れようとしても、怒りや恨みの感情が繰り返しやって来ます。どうしたらいいでしょうか?
【怒りの原因を書き出してみる】 感情に流されやすい人間は、その渦に巻き込まれて、 自分を見失ってしまいます。 怒りは怒りを呼び、ますますエスカレートしていきます。 一旦そのサイクルの中に入ってしまうと、怒りの感情が 自分の中でいつまでもリフレインして、繰り返されます。 そんな状態で、怒りに任せたまま、いろいろなことをしてしまっていいものでしょうか? 何かいい結果がもたらされると思いますか? こうなったときは、一旦冷静になって、その渦の外に出たほうがいいですね。 イメージとしては、感情の川で溺れている自分を、ひとまず岸に引き上げ、 川岸から川の流れを眺める感じです。 それが難しければ、深呼吸した…
どうしても許せないと思ったことを人にされたら、どうしたらいいですか?
【救われる道は、相手を許すこと】 戦争で親を殺されたり、子供をさらわれたり 世界には憎んでも憎みきれない出来事が実際に起きています。 絶対に許せない!!という気持ちはもちろんわかりますよね。 私たちの身の回りでも、「許せない」と思うことは度々起きます。 これは、この世に生まれた人間なら誰でも味わう苦しみです。 その苦しみにどう耐え、乗り越えていくのかが人生と言ってもいいでしょう。 基本的に、苦しみはそこに「ある」もの 「ある」のだから、対峙していかなければならないわけです。 みんな同じです。 ではどう対峙するのかというと、救われる道は一つしかありません。 それは相手を許すこと。 これしかありま…
才能も能力もなく、容姿も劣っています。わたしは不運な星の下に生まれているのでしょうか?
【コンプレックスを個性にしてしまう】 仮に、人より容姿が劣っていたり、頭が悪かったとしても、 それは個性であって、人間的に劣っていたり、価値がないと いうことではありません。 つまり、決定的な違いではないということです。 個性に差があるのがどうして不運な星の下に生まれたことになるのか、 理屈がわかりませんね。 そんなことを言い出したら、幾つ「星」があっても 足りない人がたくさんいるんじゃないでしょうか 自分のコンプレックスに必要以上に悩まないことが重要です。 かといって悩んでいる人に「悩むな」といっても なかなか通用しないかもしれません。 なので、ここはやはり、どこか一つでも自分のいいところを…
【物欲しそうに動いてはいけない】 何かを願うことと、手に入れることは違います。 何かが欲しくて手に入れようとすればするほど、 チャンスは逃げていく気がしますね。 だから、これが欲しいと思ったら、そのためにきちんと努力して、 気が熟すのを待つしかない チャンスは必ずやってきます。 でも欲しい、欲しいと言い続けても、何もしなければ、ただの待ちぼうけ よく「思いは叶う」とか「一生懸命念ずれば実現する」 という人がいますが、何も努力せずに1億回「こうしたい」と 思い続けても、実現するわけはありません 当たり前ですが、何かを手に入れるためには、 それにふさわしい努力をしなければいけないんです。 そして、…
神様や仏様がいるなら、なぜ不幸な災害や事故でなくなる人を救えないのでしょうか?
【寿命が尽きれば、どんな命も亡くなる】 東日本大震災が起きた時、被災した日本のカトリック信者の女の子が ローマ法王に質問したそうです。 「なぜ子供もこんなに悲しい思いをしなくてはいけないのですか?」 それに対する法王の答えはこんな答えでした 「私にも答えは見つかりません。でも、神はあなたとともにあります。一緒に 祈りましょう」 絶対神を持つキリスト教では、当然こうした問いが起きるわけです。 人間は神と契約し、神のいうことを守っていれば、救いがある、と教えています。 教えを守って、きちんと生活していたのに、どうしてこんな理不尽なことが起きるのか という疑問ですね。 一方、仏教には「絶対的な救い」…
ブッダの説法は 「そのようなことをするのは、 こういう理由で良くないし、 悪い結果が出る このようなことをすれば こういう理由で 良い結果が出る」 と、あくまで説示するだけです 「法則、真理」を示し 「どうだろうか」 と相手に判断を委ねます 相手は自らの意思で 「じゃあ、やってみよう、試してみよう」 と決めて実行するわけです ブッダが押し付けることは全くない 聴く人には、いつでも自由があります 仏教徒は自由な人間なのです
ブッダの説法には その場で直ちに人々を苦しみから 解き放ってしまうほどの力がありました ブッダは、 悩み 苦しみ について説き 悩みそのものをなくす実践方法を示されたのです ですから 聞いた人はたちまち幸福になったのです 大富豪でいい暮らしをしていた人が 散歩の途中でブッダに出会う 説法を聞いただけで もう家には帰らず そのまま出家してしまうほどでした ブッダの教えはいつでも具体的、現実的な苦しみを なくす教えなのです 死後の天国を約束するだけの教えではありません
大乗仏教には 大日如来 阿弥陀如来 お地蔵様 観音さま など、無数の如来・菩薩がいます 彼らは、超人的な力を持って 人々を救うと約束する 「救済者」です 我々はそれらの仏様をひたすら信仰して すがる以外ありません しかし、本来のブッダ(御釈迦様)は 拝む対象というより 模範にすべき人格完成者です 人間として生まれ 修行によって人格を完成し 悟りに達してから45年間 人々に正しい生き方を説き示したのです ブッダは人間の師です 我々はブッダから学び 智慧の完成を目指すのです
如来は パーリ語で「タターガタ」と言います 「タターガタ」には二つの意味があります 一つは、真理に達したという意味 もう一つは、真理から来たという意味 そして、ブッダ自身で、「タターガタ」の定義をしています 自分が他人に説くのは 全て自分が行なっていること 自分が行なったことを他人にも教える ということです 「言う通りに行なう」 「行なっている通りに言う」 と言う意味で タターガタなのです
ブッダは 私たちの偉大なる師匠であり 慈愛をたたえた母親のような存在と言えます ブッダが歩んだ道は 私たちの模範になるのです ブッダは 雲の上の人ではありません 人間として生まれて 人格を完成した人なのです どんな悩みに対しても ブッダは見事に答えを出しています ブッダを礼拝するのは ブッダという人格を尊敬し 生き方を学び 教えを実践するためなのです ブッダを念ずることで 励みになり 自らを高めることになるからです
勉強すれば 「頭が良くなる」 と思われていますが 勉強するとかえって 「頭が悪くなる」 場合もあります 世間では 勉強と称して 「何のためか」を考えず 情報や知識をやみくもに 詰め込んでいます 役に立たない知識で 頭が雑然とするばかりで 結局、何も理解していない でも 「何も知らない」 とも言えません 本当は知らないのに 知識のせいで 「知ってる」 と思ってしまう 雑然と詰め込まれた知識は 実際の役に立たず しかも余計な知識によって 明晰(めいせき)に見ることが できなくなるのです
「捨てる」ということは 「何物にも依存してい」 ということです それは単に ものに頼らないことだけではありません 神であろうが 仏であろうが 全く 何物にも依存しない生き方なのです それが 真の自由ということです
本を読むのは 喜びを感じるため 楽しみのためと 理解していれば リミットを守って 依存症にはなりません 飲まず食わず 本を読みっぱなしとはなりません 結果が出たら終わります 体を維持するために 食べているのだと 知っている人は 適量の栄養をとったところで やめます 依存していることを 理解していれば リミット 適量を知るのです
諸行無常の、「諸行」とは、全てのものという意味です 「無常」とは、常が無いと書いてある通り、変わり続けるということなので、 諸行無常とは、全てのものは変わり続けるという意味になります。 大事にしているものでも、ずっとその状態が続いてくれればいいのですが、 傷ついてしまったり、欠けてしまったり、中には、壊れて動かなくなってしまう などもありますね。 世の中の景気も、いい時もあれば悪い時もあります。 ずっと同じ状態が続いて欲しいけれどそういうわけにはいかないんですね。 人の心も変わりゆくものであり、いい時もあれば悪い時もあります。 そして、仏教では、この無常というのを、人が死ぬことを表すことが多い…
依存はいけないのでしょうか 依存は 完全に断つことができないことです そもそも 生きること自体が依存なのです だから 依存からは 決して逃れられません 怖いのは 依存に気づかないと 依存症に陥って 危険だということです 食べ物に依存すると 健康を壊します 心の刺激に依存すると 自己破壊に 陥ります 生きている間 完全に依存から脱することはできませんが 依存していることに気づくことが大切です
「これは依存なんだ」 「今自分は依存している」 とわかってやることと わかっていないこととは 大きく違います 依存していることを しっかりと理解していると やりすぎにはなりません 問題は起こりません 依存していることを 知らないでやる人は ますます依存症に陥るのです
よく 「命がけでやります」 「必死でやります」 という人がいます では聞きます あなたは そのことに そこまで依存しているのでしょうか 本当に 命をかけるほど 価値のあることに 挑戦しているでしょうか 自分の依存症を 誤魔化してはならないのです
お酒や賭けごとに 依存するのは 悪いと、決まってますが 「いいこと」 に依存していることがあります それはどうでしょうか 例えば ボランティア活動 平和活動 地域活動 などは、いいことです しかし いかに「いいこと」でも それに依存すれば やはり自分を見失っていくのです いいことでも 依存して行えば いい結果にはなりません
私たちが依存するものは 酒 金儲け 仕事 賭けごと おしゃべり テレビ など、限りなくあります 酒や賭けごとに依存するのが よくないことは、誰にでもわかります けれども、 ブランド 健康食品 読書 インターネット などに依存しているかもしれません それが何であれ 依存すると 本来、なすべきことを後回しにして 「今何をすべきか」 が、わからなくなるのです 人生の歯車がおかしくなるのです
私たちは みんな何かの 「依存症」 にかかっていると言えます 今は依存症でなくても 次の瞬間に 依存症にかかることもあります いわば 依存症のキャリア(保菌者)なのです
完璧に勝利を得る道とは 「何かを得る道」 ではなくて 「ものから離れていく道」 なのです 離欲の道には完成があるのです 本当に充実するためには ものはいらないのです 足りないから満たそうとするのではなく、 ものがいらないということで 心を満たす道があるのです ものから離れる 離欲というところから 安らぎが生まれるのです 離欲にチャレンジすることが 最高のチャレンジなのです
自分の思うようには 心も体も動いてくれません 体は 「ああしろ、こうしろ」 と、自分に命令します 「はい、わかりました」 と、体の奴隷になって 従わなくてはいけません 心も命令します 「決して怒らない」 と言っても 怒るときには怒ってしまいます 「悩まない」 と思っても 悩んでしまいます 優しい心を持とうと思っても イライラしたりする 仕方なく奴隷のように 心の命令に従っているのです 人は体の奴隷であり 心の奴隷でもあります だから苦しいのです
多くの人は、 「自分には子供がいる」 「財産がある」 「名誉がある」 「地位がある」 と思って、主人気取りでいるのです しかしよく見てください 「自分のもの」 と思っていても それによって、 自分が支配されているのです 自由が失われているのです 子供の奴隷になっているのです 財産の奴隷になっているのです 名誉、地位の奴隷になっているのです まるで 使用人にこき使われる 主人のようなのです
ブッダは この世は 「現世利益に達する道」 であり、それは 「苦しみの道」 であると説きました ブッダの示された道は 「現世利益に達する道」 ではなく 「涅槃(永遠の安らぎ)に達する道」です 利得を追っていたのでは いつまでたっても心の平安はありません 追えば追うほど 安らぎがなくなってしまいます ブッダは ものに依存しない生き方を示されました それが 「安らぎに至る道」 なのです
私たちは 「あれが欲しい、これが欲しい」 「まだ足りない」 と走り回っています 欲を満たしたかと思うと またさらなる欲が出てきます いつまでたっても 満たされる事はありません まるで ずっと燃え続ける炎のようなものです 欲を満たそうとする事は 燃え続ける心に さらに燃料をあげる事なのです
私たちが苦しむのは 欲が多いためです 欲に振り回されているのです 仏教では 「少欲知足」 を説きます 欲を少なくして 足るを知るのです そのためには どうしたらいいでしょうか まずこの無限の欲を 具体的な欲求に落としてみるのです 例えば いくらお金があっても 寝るベッドはたった一つで十分 ご飯の量も 一杯か二杯でしょう 具体的な欲求に落としてみれば 人間に必要なものは 自ずと決まってくるのです
仏教は 「捨てる道」 を教えます そういうと 「仏教を実践したら、楽しみがなくなってしまう」 と思うかもしれません しかし 仏教の実践とは 楽しみを得るためにあるのです 捨てられずに 執着する人は 苦しみを感じているのです 執着を捨てた人は 究極の楽しみを得ているのです
喘ぎながら荷車を引く人と 楽々と荷車を引く人の違いは 執着するかしないか にあるのです 執着が強いと 巨大で重たい荷車を引いているような人生になります 執着が少ない人は 職場や家庭にあっても どこにいても生きる重さを感じる事はないのです 影が体の後を付いてくるような 軽やかな生き方になるのです
ついにアクセス数が100超えました。 ある時からなんかいきなりアクセス数が増えてそのまま安定した感じ でしたが、なかなか100を超えませんでしたが、本日ようやく 超えました。 これからもしっかり勉強してアウトプットしていこうと思います。
私たちの人生とは 荷車を引いていきているようなものです その荷車とは 仕事や家庭や生きる重さです 同じ重さの荷物であっても 人によって 喘ぎながら荷車を引く人もいれば 楽々と荷車を引く人もいます この違いは 心に執着があるかないかなのです
悟った人は 全てのものが無常である事を実感して生活します だから 何も貯める事はありません 心に何の不安もありません 食事さえも 体を維持するために必要な量だけに限ります 鳥が空に足跡を残さないように 悟った人の行方にも 足跡はないのです
仏教は 「得る道」 ではなく 「捨てる道」 を教えます 捨てる生き方を歩もうとすると 身も心も軽くなって 楽な気持ちがずっと続きます 「得る道」は、依存を増幅する道です 不自由な道です 「捨てる道」は 自由を獲得する道です
【運がいいか、悪いかは考え方ひとつ】 家を失った 財産を失った 家族を失った 何もかも無くしてしまった あるいは、自分だけが大損してしまった 「なぜ自分がこんな目に合わなきゃいけないんだろう」 「なんて運が悪いんだろう」 そう思う人はたくさんいるでしょうね でも、考えてみてください 命があるということは そこからいつでもスタートできるということなんです それってすごいことじゃないでしょうか 運がいいか悪いか、これも考え方ひとつです 全部失って裸一貫、ゼロからやり直さなければいけない 大変かもしれませんが、逆にこれまでのしがらみがなく、 まっさらな状態から始められるのですから、ラッキーという考え…
観念的に 「欲しい」 というのではなく、 自分に本当に必要であれば そのものは簡単に手に入るのです 必要なものは 自分で獲得する能力が備わっているからです 必要で無いものを 「欲しい」 と頑張るから うまくいかないのです 具体的に必要であれば しっかりと頑張れるのです あたふたしなくていいのです
人は必ず死にます そして、いつ死ぬのかわかりません 今日かもしれません 明日かもしれません 「今日、死んでも大丈夫か」 と、いつも念じて暮らしていると 平和な生き方ができるようになります 「今死ぬかもしれない」 と思うと ものを集めたり 人と争う気持ちはなくなります
ものを持たない生き方が素晴らしいのです 何もない事を喜べるのが 理想的な人格なのです ブッダが、比丘たちに言いました 「鳥たちはどこに行くにしても 自分の羽だけを持って行く 何も荷物はない しかし どこにいても完璧である だから 比丘たちも三衣一鉢だけでいいのだよ」と。 何も持たない生き方は どこにいても自由で 何も欠けるところが無いのです
「あれが欲しい、これが欲しい」 「あれが足りない、これが足りない」 という人は 他に依存した生き方になっているのです 必要以上にものがたくさんあるのは 多くを依存して 人格ができていないのです 効果なものを置きたがるのは 依存が強くて気が弱いのです そういう人は ちょっとしたことで 動揺し 悩んだり苦しんだりします 精神が脆くて危ないのです
ものを捨てるときは いい気分で捨てましょう 「捨てるのはもったいない。申し訳ない」 という気持ちもわかりますが 「解放されたぞ」 という気分で スッキリ捨てましょう
ものが多くて捨てられない人がいます どんなものでも ものは全て、「荷物」だと思いましょう 人間は荷物を集める清掃車みたいなものです 限りなく荷物は増えていきます 衝動的に、 「これが欲しい」 と買ったり集めたりすると ものはどんどんと増えていきます 目的がはっきりしていないので 使うこともないし かと言って捨てられない コントロールするには 「これは本当に必要だろうか」 「なくては困るものか」 という基準で選択することです
マッチの火が 木に燃え移り 森に燃え移り やがて山を燃やしてしまうこともあります 小さな怒りの炎でも 燃えて燃えて 限りなく増えていきます たった二人の喧嘩でも 怒りが燃え上がって どんどん広がり 国と国との戦争になることさえあります 国の政治を司る人が 怒りに燃えていると 戦争を起こすかもしれません 世界の歴史を見ると そういう愚かな事例がたくさんあります
ひとたび怒りが起こると 心の中に火が点いて どんどん燃えていきます ある人が 私に対して 何か気にくわないことがあって怒ったとします それに対して私が起これば 相手は 「怒るとは何事か!」 と、怒りを増幅させるでしょう そして 私もまた応酬して怒れば 相手はさらに怒ります このように 一度怒りを起こすと それは二倍になり四倍になり八倍に・・・・ と、どんどんと増えていくのです
子供は 何から何まで教えてあげなければいけません 子供が自分勝手にやりたがることは 全部危ないものです だから 丁寧に忍耐強くいろいろなものを教えて まともな大人になるようにしつけをするのです 子供の成長する過程を見ると それが心の成長する過程なのです 大人になった私たちも 自分の心を育てるときは ゆっくりと忍耐強く 淡々とやらなくてはいけないのです
心は怠けの塊です 心の衝動 エネルギーは 「貪・瞋・痴」です 精進の反対です 「いかになまけようか」 ということしか 心は考えないのです しかし 怠け心のままでいたら 何も得られません 退化するばかりです 心はそのことを知っているにも関わらず無視するのです だから いとも簡単に退化の方向に進んでしまうのです 心を育てる人は 心のささやきに 耳を傾けないほうがいいのです それが安全です
私たちは、普段、 自分自身に気づいていることは とても少ないのです ほとんどの行為が 無意識のうちに行われています やっていることと考えていることが バラバラです 歩いている時には、 歩いていることに気づいていないで 何か別のことを考えています 食事の時も 本を読んでいる時も 話している時もそうです 無意識の心は、常に 「貪・瞋・痴」 で汚れているのです ですから 無意識で行う行動は かなりトラブルの種になるのです
私たちの心の中で 燃えている火は 「貪」 「瞋」 「痴」 という煩悩なのです 欲(貪)を満たすと、欲の炎が消えると思っていますが 実は欲の炎にさらに燃料をあげることになるのです 怒り(瞋)に対して怒り返せば 怒りの炎にさらに燃料をあげることになります 無知(痴)に対して なおさら妄想すれば 無知の炎にさらに燃料をあげていることになるのです このような生き方では 人は決して生きる苦しみを消すことはできません
今回は、「法鏡」についてのお話です。 これは、お釈迦様が亡くなる直前に仏教とはどんな教えなのかを 一言で表された言葉だと言われています。 仏教とは、「法の鏡である」という事なんですが、法鏡というのは、 いつでもどこでも変わらないありのままの自分の姿を映す鏡のような 教えですよとこのような意味となります。 例えば、我々は、自分を知る時に、人の目、人の意見に重きを置くことが 多いかと思います わかりやすいのが、SNSの投稿がありますが、自分を良く見せたいがために、 人の写真を、あたかも自分が食べたかのようにアップする人がいたりしますね それ以外にも、本当に自分で食べに行ってるのですが、 それから1…
いい気持ちでいたいのは 生命の共通の願いです だから、周りの人々を決して嫌な気持ちにさせてはいけません 怒っている人がいたら 怒り返してはいけません その人の 気持ちを和らげてあげることです 機嫌が悪かったら 「まあ、そんなこともありますね」 と、できるだけ気持ちを和らげてあげるのです
心を育てるには、 「一旦停止」 すると良いです 勢い込んで喋ろうとする時 「自分は、何が言いたいのか」 と、ちょっと止まって自分を観てください それから どんな順番で喋るべきかと 順番を決めて喋ります 行動する時も 何も考えずにパッと身体を動かすのではなく 一旦停止して、改めて順番に行動を起こします 一旦停止してみると 瞬時に沸き起こる感情の氾濫がおさまります それが、心を収めることになるのです
怒りという心がある時、 心の中を探しても、 怒りは見つかりません しかし、 怒りの心は 荒々しい呼吸や こわばった顔の表情 力の入った肩など 具体的に体に表れます だから、 心の動きに気がつくためには 体の変化を その時しっかりと掴むのです 自分の体の動き、呼吸、歩き方、そして感情の動きなど 具体的な動きから 心は捕らえられることができるのです 今という瞬間に起きている心の動きを捕まえた時、 心を収めることができるのです
私たちは、瞬時に怒り出したり 瞬時に笑ったりします 心というものは あまりにもその動きが速いのです あまりにも速いため 心の動きに気がつくのは とても難しい だから 怒った時は そのことにすぐには気が付きません もう、手遅れになってから 「まずいことをした」 と、気がつくのです その心の動きに気がつくことが 心を収めることになります ブッダは 「心をおさめたら、安楽がもたらされる」 と言われました
自分が傷つけられた時 怒りの心で 「仕返しをするぞ、困らせてやろう」 と、思います しかし 自分が怒ったことで 相手が困る場合もあるし 困らない場合もあります ただ、確実なのは 「自分が怒りで汚染されて不幸になる」 ということです だから、いかなる場合でも 怒る人は愚か者であり 人生の敗者なのです
スポンサーリンク // たとえ悪人に対してでも 怒ったり攻撃したりすれば 自分も余計な罪を犯して 不幸になってしまいます 悪をなすのは相手であって 自分ではありません それに腹を立てて攻撃すると 自分も怒りに汚染されて 悪人になってしまうのです 相手に汚物や炭火を投げつけようとすると 先に汚れたり、火傷をしたりするのは 相手ではなくて自分です 相手がひょいと身体をかわせば汚物は当たりませんが 汚物を投げようとした自分の手は 必ず汚れてしまうのです スポンサーリンク
スポンサーリンク // 私たちの生きている環境は 親切にされることよりも 不親切にされることの方が多い うまくいくより いかない方が多いものです 弱きものが それに対して怒ります 勇者は 「うまくいかないのは当たり前」 と思って、落ち着いているのです 勇者は怒らないのです スポンサーリンク
スポンサーリンク // 怒るのはカッコ悪いことです 理由はどうあれ、怒るのは敗者です 誰一人 この人生で負けたくないのです 何事も勝利を収めて進みたければ いかなる場合にも 怒らないことです 怒った時点で その戦いは 自分で敗北宣言をしたことになります スポンサーリンク
スポンサーリンク 喧嘩をして勝ちたいのなら 向こうが何を言おうが 何をしようが あっけらかんとして ニコニコしていることです それができれば あなたの勝ちです 相手には関係なく 怒りを捨てて静かな心を作った方がいいのです そのためには 常に自分の心の状態を知ることです そうすることで 怒りの火種が現れる前に 処理できるのです // スポンサーリンク
スポンサーリンク // 喧嘩をして相手に勝ちたいのなら 怒りは捨てることです 「あいつは、ああ言うことをした」 「こう言う悪いこともした」 と言う恨みを抱いていたら その人の「操り人形」になってしまうのです いくら相手が悪くても 今現在、あなたが相手に対して怒って 悩み苦しんでいるのが事実なわけです だから、 とっくに負けているのです スポンサーリンク
スポンサーリンク // 性格が悪くて肌が合わない人と 一緒にいると苦しいです 相手の嫌なところが気になって 鬱々となったりイライラしたりします ある一定の日にちが経過すると 居ても立っても居られないほど 怒りに燃えることになります この場合は 毎日 少しずつ少しずつ 自分自身に火をつけていたのです だから延焼する前に 相手と仲良くするか 忘れるかしないといけないのです スポンサーリンク
スポンサーリンク // 他人が自分に怒ることは 怒りの火種が自分に投げつけられたと言うことです それによって 自分の持っている燃料で 自分を燃やしてしまうことがあります マッチ一本の放火でも ビルが全焼してしまうのは マッチではなくて ビル自体が燃料になって燃えるからです そのように理解して 他人の怒りには 決して怒り返さないことです スポンサーリンク
スポンサーリンク // へこんだり、落ち込んだりする怒りは 自己破壊的です 幸福になるエネルギーを なくすのです 一度怒られただけでも 自分の心の中で 何度も繰り返して 落ち込む怒りを燃やすこともできます それは 一本のマッチでビルに放火するようなものです ビルは自分のエネルギーで燃え続けます マッチの火は きっかけにすぎません スポンサーリンク
スポンサーリンク // 他人に怒られると へこんでしまうことがあります 延々と悩んで 暗くなったり 身動きができなくなったりします 自分は被害者で 怒っていないつもりでも 実は相当怒っているのです へこむことも 攻撃的に立ち向かう怒りと同じように とても危険な怒りなのです スポンサーリンク
スポンサーリンク // 自由な心とは どんなことがあっても波立たない 揺らぐことのない心です 揺らがない人は 何か反論されても 感情的になることはないのです 感情的になるのは すでに「負けている」ということなのです スポンサーリンク
スポンサーリンク // 怒ると、 怒ったその人は、怒りの炎に燃えているのです。 それに対して怒り返すと 相手の炎が 自分に燃え移ることになります 延焼しないよう 人が怒っても 自分は決して怒らないことです スポンサーリンク
スポンサーリンク // 怒りの感情が入り込んだ時に その瞬間に気づかないと ウィルスのように 瞬時に増幅してしまうのです 爆発するまで増幅してゆくのです 「早い者勝ち」という法則は 自分の感情に打ち勝つ時に使うのです 怒り・憎しみ・嫉妬などの感情は 生まれた瞬間に気づくと 増幅しないでそこで消滅します 早く気づいた方が勝ちです 放っておくと手遅れになります スポンサーリンク
スポンサーリンク // 何事も「それをする瞬間」というものがあります 悪いことをするにしても 怒る時にしても 「その瞬間」があるのです 大切なことは 「その瞬間で気づく」ことです 瞬間の感情というものは 気づいた瞬間に 完了してしまうのです 瞬間で気づいたら その瞬間で問題は完了します あとで悪い結果にはなりません スポンサーリンク
スポンサーリンク // 「私は菜食主義で肉は絶対に食べない」 などと固執していると そのことが強いストレスになります また、肉や魚を食べる人に対して 軽蔑する心が出てしまいます それは 「自分が正しくて相手が悪い」 という「怒りの心」なのです 最良の食品を摂取しても それを毒にしてしまいます それは愚かなことです スポンサーリンク
スポンサーリンク // 怒ると、 体の中に火が生まれます そして、自分を燃やし始めます それは、毒を飲むことと同じなのです 幸福な人生に対する猛毒は 怒ることです 嫌な人に怒る 物事がうまくいかないと怒る 仲間に怒る さらには雨にも風にも怒る 人は怒り中毒です 喜んで怒っているようにも見えます 幸福に過ごしたいなら 怒りは猛毒であることを理解しましょう スポンサーリンク
スポンサーリンク // 怒ると、 破壊するエネルギーが出ます 他人を破壊しようとします 破壊行為に行く前に 十分に怒りのエネルギーを貯めなくてはなりません エネルギーを溜めると 他人を破壊する前に 自爆することになります ですから 他人に対して怒りを持つことで まず自分自身が破壊されるのです スポンサーリンク
スポンサーリンク プライドとは 言い換えれば「自我」のことです 「自我」とは 「私がここにいる」 「私が偉い」 という実感のことです この「自我」が周りの人々に、 「妻」「子供」「部下」と いろいろな役柄を割り当てて 「その通りに演じなさい」 と求めるのです 相手が自分の期待したパートを演じないと 怒ったりするのです 自分が監督で 世界は自分の思った通りに動いて欲しいと思うのです しかし 世界というものは 決してその通りに動いてはくれません // スポンサーリンク
スポンサーリンク いくら自分が正しくて 相手が間違っていても 怒ってはいけません 人を怒らせてはなりません 何を言われても 何をされても 自分の心に怒りの火をつけないことです 人に罵られたら 「ああ、この人は怒っている」 ぶん殴るぞ!!と言われたら 「この人は毒に感染しているのだ、感染らないようにしよう」 そう思えばいいのです そうしたら、それで終わるでしょう わざわざ 争いの渦に飛び込むことは 無知な行為です // スポンサーリンク
スポンサーリンク // 仏道というのは 行く時も楽しい 帰る時も楽しい 帰った後も楽しい いわば、そんな道なのです 仏道は たとえわずかでも 人に苦しみをもたらす行為は 勧めないのです スポンサーリンク
スポンサーリンク // 仏教の考え方は、「どんな時にでも幸福」 ということなのです 畑を作ることも幸福 水をあげることも幸福 肥料をあげることも 雑草を取ることも幸福 成長を見守っていることも幸福 実って作物を収穫することも幸福なのです もしも凶作になっても いい経験を積んで 心が動揺しないことを学べるから それも幸福です 物事を客観的に見る人は 不幸に陥ることはありません スポンサーリンク
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