ブログのネタを探すために記憶の襞のあちこちを探索していたら、病弱だった昔のことを思い出した。そう、私はしょっちゅう病気になっていたのである。信じてもらえないかもしれないが、そのうちの多くは仮病ではなかった。どうか信じてほしい。 詳細について
最近私はオンライン英会話を始めた。先生はネイティブではないので、必ずしも上手な英語を話す訳ではないが、私が英語を話す練習にはなるので特に文句はない。 普段人間と話をすることが滅多にないのでよく知らなかったのだが、毎日違う人とお話をすることで
最近私はオンライン英会話を始めた。先生はネイティブではないので、必ずしも上手な英語を話す訳ではないが、私が英語を話す練習にはなるので特に文句はない。 普段人間と話をすることが滅多にないのでよく知らなかったのだが、毎日違う人とお話をすることで
小学生のときに、クラスのみんなでタイムカプセルを作った記憶がある。カプセルの中身は多分将来の自分に宛てた手紙だったと記憶しているが、なにせ私の記憶は頼りないものなので、ひょっとすると何か全く別のものをカプセルに入れたのかもしれない。 担任の
私が実家を出るまでの十八年間で近しい人の葬式に5回ほど参列したことがある。これが世間一般と比べて多いのか少ないのかはわからない。今回はそのうちの一つについて記録しておこうと思う。 *** あれは私が中学生くらいの頃だったように思う。その日は
私が実家を出るまでの十八年間で近しい人の葬式に5回ほど参列したことがある。これが世間一般と比べて多いのか少ないのかはわからない。今回はそのうちの一つについて記録しておこうと思う。 *** あれは私が中学生くらいの頃だったように思う。その日は
会いたい人、私をとりあげた助産師会えない人、死んでしまったあの人 知りたいこと、私の妊娠がわかったときの両親の気持ち知ることのできないこと、私が死んだことを知った人々の反応 助けたい人、苦しんでいる人みんな助けることのできない人、もう死んで
昔の恋人からもらったプレゼントを使い続けるかどうかという話になると、一方の陣営の人々が決まって持ち出すのが「物に罪はない」という論法である。つまり、恋人と別れたからといって必ずしもその人からもらったものを捨てるのは、その物に対して悪いのでは
子どもは好奇心の塊である。私もかつては子どもであった。したがって、私はかつて好奇心の塊であった。 いきなり素敵な三段論法を披露してしまった。 残念ながら私は全く覚えていないのだが、母から聞いたところによると、私が生まれたてホヤホヤのとき、私
私に友達がいないのはいつからなのだろうか。ふとこう思って、私がまだ素晴らしかったころのことを思い出そうとしてみた。つまり、幼稚園児の頃である。 しかしすぐに思い出したのだが、幼稚園児の夜さんは、周りの子どもたちと遊ぶことよりも先生と遊ぶこと
私の通っていた小学校では、5年生になると児童たちは「自然教室」というものに駆り出されることになる。簡単に言えば自然に囲まれた施設で一泊するというものである。 私の為人(ひととなり)をご存じのみなさまであれば想像に難くないであろうが、私はこれ
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