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ブログタイトル
日本国有鉄道 労働運動史(別館)
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https://jnrera-kat.hateblo.jp/
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国鉄の生産性運動に特化したblogです。
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1回 / 14日(平均0.5回/週)

ブログ村参加:2021/01/05

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blackcatさんの新着記事

1件〜30件

  • 生産性運動導入から、中止まで 第二〇話 国労による反マル生運動

    組合員の大量脱退で焦る国労本部 今回は、国労の反撃という点に絞って、何回かに分けてお話をしていこうと思います。 生産性運動は、燎原の火のごとくと表現されるほど、現場に浸透していきました。 国労は、当初は生産性運動に関しては熱心の取り組んでいませんでしたが、昭和45年11月から12月にかけて国労組合員が大量に脱退して、鉄労に鞍替えすると言う事態が発生しました。 これに関しては、国労40年史に下記のように記載されています。 少し引用してみたいと思います。 70年の11月から12月にかけて、国労本部にとっては、かなりショッキングな出来事が幾つかの地本で相次いでおこった。しかもそれは、全国規模で集中的…

  • 生産性運動導入から、中止まで 第一九話

    今回から、大幅に時間を戻して、再び昭和46年3月まで時間を巻き戻したいと思います。 今回も、鉄労編纂、「国鉄民主化の道」を参考に、関連する資料等があれば、それも併せてアップしていきます。 生産性運動はどのような経緯で導入されたのか? 国鉄が生産性運動を導入した背景にはどのような経緯があったのでしょうか。 この点を明らかにしないと、生産性運動だけが一人歩きしてしまいます。 生産性運動に関しては、国鉄当局としては、止むにやまれず導入した経緯があると言えそうです。 生産性運動=国鉄当局の不当労働行為だった・・・終わりでは、何故そうなったのかという部分が全く見えてきません。 国鉄が生産性運動導入に踏み…

  • 生産性運動導入から、中止まで 第一八話

    鉄労の運動史と、国労の資料などを参照しながら綴っていきたいと思います。 本日も主たる資料を、鉄労の、国鉄民主化の道を参照しながら随時、国労40年史を参照しながらアップさせていただこうと思います。 はじめに 今回は、直接マル生運動の話と言うよりもそれに関連する出来事、支社制度の廃止や、国鉄諮問委員会の答申など、昭和45年頃の国鉄の動きを中心にお話をしてみたいと思います。 ある意味、この時期は生産性運動がことのほか伸びて改革が進む反面、国鉄本社は、その権限を集中する権限強化などむしろ生産性運動とは真逆の方向に舵を切ったのが気になるところです。 なお、この支社制度導入を決定したのは、十河総裁ですが、…

  • 生産性運動導入から、中止まで 第一七話 鉄道労組のマル生運動への考え方

    久々に更新になります。 今回は、鉄労の生産性運動に関する考え方について書いてみたいと思います。 今回は、鉄労友愛会議編、国鉄民主化の道から引用してみたいと思います。 生産性運動と鉄労 鉄労は、元々労使協調路線でスタートした組合と言うことも有り、生産性運動は親和性の強いものと言えました。 昭和46年2月22日・23日に神奈川県湯河原で中央委員会が開催されています。これは、春闘のための会議でしたが、賃金問題よりも生産性運動に関する議論で占められたとしています。 その辺を、国鉄民主化の道から引用してみたいと思います。 鉄労は2月22、3の両日、神奈川県・湯河原の観光会館で中央委員会を開いた。賃闘(春…

  • 生産性運動導入から、中止まで 第一六話 鉄労組合員の増加と国労

    長らく間が空いてしまいましたが、久々に更新させていただこうと思います。 今回も、鉄労友愛会議編纂の、国鉄民主化への道と、国鉄労働組合40年史を参考に書かせていただこうと思います。 最初は意識もしていなかったマル生運動 国労としても当初は、マル生運動を、得体の知れない運動ではあるが、大きな影響を及ぼさないであろうと考えていたような節があります。 実際どの程度に考えていたのかは、もう少し複数の資料を探す必要があろうかと思いますが。国鉄労働組合四〇年史を参照しますと、下記のように、マル生運動開始初期には、さほど重要視はしていなかったと書かれています。 以下、国鉄労働組合四〇年史から引用したいと思いま…

  • 生産性運動導入から、中止まで 第一五話 全施労結成

    今回も、鉄労友愛会議、国鉄民主化への道を参照しながら、適宜他の資料も参照しながら、お話を進めたいと思います。 国労は一貫して、マル生運動に対して対立姿勢 国労では、昭和45年4月11日から始まった生産性運動は、当初のは無視を決め込んでいた国労ですが、国労を脱退して、鉄労に移籍する組合員が増えてきたことなどから、国労としても危機感を抱くようになり、よく昭和46年1月12日には国労本部で、不当労働行為対策会議で組織破壊攻撃(マル生攻撃)への対応策を協議したほか、2月24・25日の拡大中央委員会では、マル生攻撃と戦う職場闘争の強化を決定するなど、組織的な対抗策を考えていきます。 この背景には、国労を…

  • 生産性運動導入から、中止まで 第一四話 国労のマスコミ操作と新組合の結成

    国鉄の生産性運動は、現場レベルで盛り上がりを見せており、以前から国労を脱退して、鉄労にと言う流れはありましたが、【動労も同様】生産性運動以降はその流れが顕著となりつつ有りました。 今回は、鉄労友愛会議の「国鉄民主化への道」を参考に書かせていただこうと思います。 生産性運動反対派の主流は「反戦青年同盟」 生産性運動が実施された昭和46年頃は、組合の中でも一つの世代交代の波が押し寄せた時期でした。 総評全体もそうですが、昭和21年~27年の第一次ベビーブームと呼ばれた赤ん坊が18歳から24歳くらいであり、こうした若者の中には、反戦青年委員会*1【昭和40年に総評・社会党を中心に結成されたグループ】…

  • 生産性運動導入から、中止まで 第一三話 盛上がる生産性運動

    生産性運動は確実に国鉄の職場で定着しつつあったが 国鉄当局の生産性運動は、順調に進み、生産性運動を受けた職員が職場に帰り、自ら実践し、そして周りの人を巻き込んでいくようになったとしています。 その辺は、昭和45年度の国鉄監査報告書に下記のとおり書かれています。 特に日本生産性本部が推進している生産性運動に関する教育が全社的に行なわれたこともあって、 職員の間に国鉄の現状についての理解が深まり、再建意欲は急速に向上しつつある。 これらの諸施策の実施にあたっては、 今後さらにその趣旨の徹底をはかり着実に推進する必要がある。 昭和45年度監査報告書 から引用 として、生産性運動が国鉄としても一定の成…

  • 生産性運動導入から、中止まで 第一二話

    幹部は、生産性運動に無関心 管理局の幹部も生産性運動は今ひとつ無関心でしたが、それ以上に無関心だったのは国鉄本社のキャリア組と呼ばれるグループでした。 国鉄の本社採用と言えば、いわゆる官僚コースであり、超スピード出世が約束されている存在で有り、何年間かを問題なく過ごせば栄転できるわけですから、わざわざ危ない橋を渡る必要も無いわけです。 以下は余談ですが、 郵政も同じようなもので、私も郵政局に勤務していましたので、キャリア組と呼ばれる人たちとの接触は、せいぜい部長クラスだけでしたが、ノンキャリアであれば50歳以上で到達する、部長ポスト【本省の課長クラス】に40前後で就任するわけですから。ノンキャ…

  • 生産性運動導入から、中止まで 第一一話

    ながらく間が空いてしまったのですが、本日も生産性運動の頃のお話を、「国鉄を売った官僚たち」、大野光基氏の本を参考に、当時の様子などを語っていこうと思います。 生産性運動は、国鉄のあり方を変える? 国鉄の生産性運動は、それこそ最初の頃は、少し首を出した亀のような感じでスタートしたわけですが、昭和46年には、国鉄の生産性運動教育は、日本生産性本部の委託教育から国鉄の経営との一体教育となりつつありました。 前述しましたが、良くも悪くも純粋な人が多い国鉄ですので、当然と言えば当然と言えましょう。 この頃の様子を、動労の松崎委員長は 国鉄労働者の中・高年層は、その殆どが高等小学校(現在の中学校程度)を卒…

  • 生産性運動導入から、中止まで 第一〇話

    引き続き、生産性運動運動時代のお話をさせていただこうと思います。生産性運動に関しては、改めて「国鉄を売った官僚たち」、並びに「国鉄民主化への道」から見ていこうと思います。 生産性運動は、現場管理者に十分理解されていたのか? この時期、国鉄本社としては生産性運動を国鉄の柱にしたいとして、本社各部局に生産性運動の推進を依頼していました。ただし、鉄労が指摘するように、一部現場管理者が生産性運動を正しく理解せず、誤った生産性運動を行っているという声も有ったことも事実であったと指摘しなくてはなりません。これが後に、国鉄当局の不当労働行為だと突っ込まれる余地を作ってしまったといえそうです。改めて、複数の視…

  • 生産性運動導入から、中止まで 第九話

    > 実際には、国労幹部クラスは当局の幹部と癒着して行くのですが、その辺のお話は次回にさせていただこうと思います。 現場で盛り上がる生産性運動の実践的活動 当時の生産性運動の実践的活動はどのようなものだったのでしょうか、生産性運動の実践活動は、国鉄の現場での自主的勉強会から始まっており、昭和45年11月5日には、田端機関区での勉強会の会員が100人を突破したとして記念大会を開催したり、日付は不明なるも、向日町運転所では、独自の生産性研修会の「修了証書」を発行するなどの動きもありました。 そして、こうした個々の活動状況は、昭和46年4月25日から、「生産性ニュース」という記事で紹介されることとなり…

  • 生産性運動導入から、中止まで 第八話

    本日も、生産性運動導入から、中止までの第八話として。お話を進めさせていただこうと思います。 参照しているのは、「国鉄を売った官僚達たち」、鉄労編纂の「国鉄民主化への道」などを参照しながら。書かせてもらっていきます。 マル生運動の成果?スト破りする国労・動労組合員 生産性運動は、職員の意識改革が大きかったようで、国労・動労に所属したまま、スト破り(ストライキに参加しないこと)を行う組合員もいたそうで、生産性運動を受講して、自らの意識として、国労の運動について行けないと感じる組合員が一定数いたと言うことになります。実際、昭和46年5月20日には首都圏でストライキが行われ、旅客列車だけで2,624本…

  • 生産性運動導入から、中止まで 第七話

    今回も、生産性運動に関して、今回も大野氏の本を底本として、私なりの解説などを加えさせていただこうと思います。 生産性運動は、現場の若手を中心に盛り上がりを見せ、鶯谷駅における朝ラッシュ時、鴬の声を流すのは、当時の駅員からのアイデァであるとされており、そのきっかけは、生産性運動であったことは、前回書かせていただきました。 生産性運動は、国鉄の中で浸透 そんな風に、国鉄の現場では、それこそ熱狂的とも言えそうです。 ① 自主的勉強会 ② 生産性掲示板や生産性大看板の掲出 ③ 生産性職場報の自主発行 ④ 生産性推進チームの結成 ⑤ 違法ストへの不参加・反対運動など ⑥ その他具体的な実践活動 等に分類…

  • 生産性運動導入から、中止まで 第六話

    前回は、「管理局による温度差、さらには管理局の非協力な部分がネックとなるのですが。その辺はまた次回にお話をさせていただこうと思います。」 と言うことだったのですが、実際の生産性運動の実践効果はいかほどのものであったのか、再び「国鉄を売った官僚たち・大野光基著」から引用させていただきたいと思います。 生産性運動の実践効果として ① 自主勉強会 ② 生産性掲示板 ③ 生産性職場情報の発行 ④ そのほかの具体的実践活動 ⑤ 生産性推進チーム(国鉄再建会)の結成 ⑥ 違法スト反対・不参加行動 等に分類できます。 そして、生産性運動の中から、具体的な実践運動になった例の一つに鶯谷駅で、朝のラッシュ時にウ…

  • 生産性運動導入から、中止まで 第五話

    >国鉄本社の幹部にもこうした生産性運動等には関心がない人も数多くいたことも事実でした。 しばし開けてしまいましたが、久々に投稿させていただきます。 今回も、「国鉄を売った官僚たち」大野光基氏の本を参照しながら当時の生産性運動を振り返ってみたいと思います 全国行脚を始めた、大野労働課長 生産性運動を導入した、能力開発課長の大野氏は、自らも昭和45年6月頃から中央鉄道学園で週3回程度講演していたそうで、「生産性運動を広めよう」というタイトルで繰り返していたそうです、さらに、7月からは全国に生産性運動の概念を知ってもらうために、全国行脚を始めたとそうです。 そこで、多くの現場の人に話をする訳ですが、…

  • 生産性運動導入から、中止まで 第四話

    組合の分析も全く的外れとも言えないのですが、結果的には多くの職員が、国労・動労を離れ、鉄労に移籍することとなっていくことになるのですが、この辺は、次回に書かせていただきます。 と書かせていただきましたが、その前に生産性運動に関するエピソードの中から、幾つか興味をひくものをリストアップさせていただこうと思います。 生産性運動は当初は、実効性が何処まであるのかという思いもあったようですが、その成果は燎原の火の如く広がっていったようで、中央鉄道学園や、地方の鉄道学園でも指導者自らも積極的に生産性運動に参加しており、生産性運動は、成功するかのように見えました。 以下、中央鉄道学園長や地方の鉄道学園の事…

  • 生産性運動導入から、中止まで 第三話

    昭和44年から試験的に始められた生産性運動は、順調に進められることとなり、昭和45年だけで約二万人が研修を受けることとなりました。 その反面、国労・動労も生産性運動を批判的に考えていました 生産性運動は現場では積極的に開催されることに 生産性教育講師の研修を受けた人たちは、現場に帰るやいなや、生産性教育を始めるところが有ったと書かれていますが、こうした状況に対して、国労・動労はよい顔をしませんでした。 さらに、現場での研修が開始されるに伴い、管理局の部長クラス研修が強く言われるようになり、昭和45年10月17日から4泊5日の行程で第一回部長研修を生産性本部に委託して行うことになったとされていま…

  • 生産性運動導入から、中止まで 第二話

    管理局への生産性運動の導入 生産性運動は、先にも記しましたように、昭和45年4月11日から始まるのですが、生産性運動の理念を理解した職員が現場に戻っても、肝心の管理局に生産性運動を理解していないと、元の木阿弥になってしまうことから、研修生の中からも管理局のバックアップを望む声が大きくなってきました。 国鉄を売った官僚たちから引用させていただこうと思います。 引用開始・・・・ ところが、現場だけが生産性教育をやっても、管理局に生産性運動の理解者がいなければ困る事態が方々で発生してきた。研修生の中からも管理局のバックアップを望む声が強くなった。そこで、5月8日から13日にかけて第一回生産性指導者研…

  • 生産性運動導入から、中止まで 第一話

    生産性運動が正式にスタートしたのは、昭和45年4月11日で、現場の意識改革と言うことで生産性本部の協力を得てスタートするのですが、概略を最初に述べさせていただきます。 生産性運動の開始から終焉までの概略 1) 生産性運動を行おうとした背景 そこには、昭和30年代から続く、過激な組合運動とその対策として、何らかの意識改革が必要であると考えられていました。 2) 現場長も学園も、本社も消極的でした 意識改革と呼ばれるものは何処もそうですが抵抗されるものであり、現場長による研修でしたが、受講後は意識が変わって行った〔これが後にマル生運動を崩壊させる根拠となった可能性もあります〕 3)生産性教育はボト…

  • 生産性運動導入前夜、民間で先行した生産性運動

    生産性運動は、昭和45年当時、民間では殆どの会社が参加していた 生産性運動の理念は、繰り返しになりますが、富の再配分であり、労働者からの搾取というものではないことは、すでに書きました。 そして、全繊同盟、新産別、全国自動車、鉄鋼労連など、春闘を今までリードしてきた組織も積極的に生産性運動に取り組むようになり、昭和45年時点で620万人達すると言われ、参加していないのは、官公労系を中心とした組合に限られるといった状況になっていました。 この頃から民間のストライキへ減少し、昭和30年代にみられた労働争議は、徐々に減っていきました。 まぁ、その中で国鉄と、郵政は派手な闘争、郵政省の場合は郵便に全逓組…

  • マル生運動は何時から始まったのか?

    生産性運動は、昭和45年3月国鉄本社内で議論され、3月24日に常務会で最終決定がなされ、3月25日に日本生産性本部に文書で3箇年計画書と共に送付されましたので、3月24日を国鉄生産性運動のスタートとみることが出来ます。 なお、生産性運動というと不当労働行為の象徴のように言われたり、国鉄の負の部分だとする意見も多いのですが、生産性運動の基本的な考え方はむしろ、労働者を守る事に主眼がおかれたものでした。 その辺は誤解が多い、というか「生産性運動=不当労働行為」から入る論調が多いためであり、「国鉄を売った官僚たち」 大野光基氏の著書を見ますと、元々の生産性運動の概念は、フィラデルフィア宣言をよりどこ…

  • マル生運動が導入された背景は?

    国鉄はどのような経緯でマル生運動を導入したのでしょうか。 マル生運動を理解するためには、何故マル生運動が必要になったのかと言うことで、昭和30年代までさかのぼる必要がありそうです。 国鉄の労使関係は、昭和40年だから一気に悪化したと言う印象を持たれている方も多いのですが、実際には昭和30年代から強力な闘争が行われていました。ただし、当時は当局側もしっかりしており、現場管理者をバックアップする体制が出来ており、さほど大きな問題にならなかったと言うことです。 昭和30年代の闘争というと、三井三池闘争等が目立っていますが、国鉄でも幾つかの大きな争議は行われており、今回は特に、「新潟闘争」と呼ばれる闘…

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