2017年10月急性骨髄性白血病と診断され即入院。M0、7番染色体異常と2つの予後不良を抱え同年12月臍帯血移植。翌年3月退院。2020年3月念願の復職。振り返り闘病記です。
〜移植前健康診断〜 さて移植が決まってからといってもすぐにできる訳ではなく手続きが進められる中私は変わらず病室で過ごしていました。寛解に入っていないので血球が上がって来ず、ずっと巨大空気清浄機が置かれたベッドで過ごしていました。 先生も「一度は家に帰してあげたいんだけどね…。」と言ってはくれるもののやはり許可は下りませんでした。 その内移植へ向けて健康診断が始まりました。 歯科で口腔内のチェックとマウスピースの型を取りました。マウスピースは移植の際、免疫機能がゼロになるので口内炎予防や睡眠時に自分の歯で舌を傷付けないように守る役目があります。私は結局違和感が気になりす
〜移植に向けて〜 とうとう“移植”という道に進まなくてはいけなくなりました。 色んな方が今まで受けたどんな治療より辛いと書いてあるのを本やブログで読んでいました。 命を賭けた壮絶な治療。 移植はやりませんって言えるんだろうか、でもそれは私にとって死を意味するよね…。 こうしている間もがん細胞が増え続けている。でも移植の治療中に亡くなることも十分ある訳だし、と私の中ではぐずぐずとした思いで堂々巡りでしたが移植の話は進んでいきます。 まずドナー選びですが私は最初からかなり躊躇しました。 移植に関する情報や冊子を読むとドナー(人)の負担も少なからずあるからです。 ブロ
〜2回目骨髄穿刺の結果〜 2回目の骨髄穿刺(マルク)が終わり、それからの2週間はあっという間に過ぎました。 何度か熱が出てその度に培養検査のため両腕から採血されたりして、朝の採血やラインの交換など私の腕は針山ですかとツッコみたくなる程毎日腕にチクチク針を刺されていましたが点滴も抗生剤くらいで比較的元気だったのでときどき輸血をするくらい。 でも周りでは移植に向けて動いているのが分かりました。 「まだするって決まってないけど一応ね。」と言われ、血液検査もいつもはやらない項目がたくさんあったり、理学療法士さんがベッドに来るようになり平日は毎日軽く運動をするようになりました
〜友達〜 病気が発覚し即入院となった私は、家族以外の誰にこのことを伝えるべきかかなり悩みました。 心配をかけてしまうからこそ言いづらいというのもあるし、でも知らなかったというのも友達として寂しいかなと。 でも結局、半年の入院になると聞いていたのでその間に必ず連絡を取り合うであろう友達と仕事に関わる人にだけお知らせすることにしました。なので地元や距離があってなかなか会えない友達には知らせませんでした。 反応は様々でしたが、もう私は長くないと思った人、逆に今は治るから全く心配ないと思っていた人。前者は昔白血病は不治の病だったのでその印象が強い人、後者は親戚や知り合いの知
〜2度目の骨髄穿刺〜 最初の抗がん剤は寛解導入といい、ここで8割の人が寛解(骨髄液中のがん細胞が5%以下)に入るそうです。 抗がん剤を入れるとがん細胞だけではなく正常な血球も攻撃されてしまうので全体的に数値が低くなってしまいます。 そのため、赤血球や血小板の輸血をしなくては生命を維持できません。 私も輸血をしながら血球が上がってくるのをひたすら待っていたのですが、3週間経っても上がってこないばかりか末梢血(採血)に芽球(がん細胞)が出てくる始末…。 白血球が上がってくるときに出てくることもあるので場合によるのですが末梢血に出てくるということはその大元の骨髄液にはもっ
〜骨髄検査の結果〜 初日に採った骨髄液の検査結果が出たので11月に入り先生から説明がありました。 夫と一緒に診察室の様な小部屋に案内されました。 内容は * 末梢血(腕からの採血)ではがん細胞が20%だったが骨髄液には80%あったこと * FAB 分類(がんのタイプ)が M0 であり、これは予後が悪いこと。 * 更に7番染色体の異常が認められ、これも予後が悪いこと。 予後が悪いというのは先の見通しが悪い、つまり現在ある薬や治療法では治る確率が低いということです。 「恐らく今回投与した抗がん剤も効かず寛解(骨髄液中のがん細胞が5%以下の状態)に入らない可能性が高いと
〜髪の毛のこと〜 抗がん剤を投与する前に先生から副作用について説明された中に脱毛の話がありました。「抜けますが終わったらまた生えてきますからそんなに大したことでは無いです。」とのこと。 そっか、やっぱり抜けるよね。でも確かに命がかかっている事と天秤にかけるほどのことでは無いと私も納得していました。 その内髪の毛を短めに切っておいた方がいいんだろうな、抜けたときに少しでも少ない方がショックじゃ無いならいっそのこと坊主頭にするか…とぼんやり考えていましたがそれはやっぱり勇気がいることで迷っていました。 そんなときに知り合ったようちゃん、お話を聞いてみると坊主頭にしたよ、
〜闘病仲間〜 入院当初の私の部屋には同じ血液内科にかかっている方はいませんでした。それぞれの病気を抱えて皆さん大変そうでしたが、やっぱり同じ病気の方と話せたらいいのにと思っていました。 入院から1週間経った頃、消灯間近に慌てて歯を磨きに共同の洗面所に行くと医療用帽子を被っている女性がいたのでもしかしたらと思い「入院長いんですか?」と声を掛けてみました。 「白血病で抗がん剤3クール目が終わって明日一時退院なんですよ。」と気さくに答えてくれました。その間に消灯になってしまったのですが、暗闇の中少し話を続けました。 「最初は辛いけどきっと大丈夫だから。」と力強く言ってく
〜同部屋さん〜 最初に入院した部屋は廊下側、真ん中、窓際と3つベッドが並んでいました。 私が窓側だったので真ん中のお隣さんとよくお話しさせていただきました。 前回書いたように病院の主(ぬし)の様な方で(失礼でしょうか…)、ここでは『しのさん』と呼ばせていただきます。 しのさんは母と同じくらいの年齢で病室の過ごし方をよく知っている方でした。 折り紙でいつも小物入れだったり、鶴をアレンジして複雑なものを作っていました。 「時間つぶしにもなるけど手のリハビリにもいいのよ。」と私にも折り紙を分けてくれて元気なときは教えてもらいつつ私も一緒に折っていました。 ある日廊下側の方
〜大部屋〜 私が最初に入院した部屋は一般病棟の3人部屋でした。 窓側を希望したので空いている部屋がそこしかなく割とナースステーションに近い場所だったので窓側でもナースコールがひっきりなしに聞こえました。看護師さんの大変さがよく分かります。結局その場所には2ヶ月間いることになりました。 2ヶ月もいると同部屋の患者さんがよく変わります。 他の科の患者さんばかりで循環器系疾患や骨折した方、また外科手術を受けられる方などがいました。年配の方がほとんどで病院の主の様な方も。「1年の約3分の2くらいは病院生活なのよ」とその主さんは長年入退院を繰り返されているそうで、入院初日から親
〜抗がん剤開始〜 翌週から抗がん剤が始まりました。 抗がん剤を投与するときは看護師さんがピンクの紙ガウンとフェイスシールドとマスク、そして手袋を二重にするというフル装備でやってきます。知らなかったのですが、抗がん剤は皮膚にかかると溶けてしまうくらい強いものだそうです。毒を持って毒を制すということなのでしょうが、がん細胞だけを狙って退治してくれる訳ではなく正常な血球もやっつけてしまうのが辛いところです。 看護師さんのフル装備に比べ患者側は何もしないのでかなり無防備な私たちは大丈夫なのかと正直不安でした。 病院によっては首から管を静脈に入れてそこから抗がん剤を流すところも
〜初めてのことだらけ〜 私はそれまで入院をしたことがありませんでした。 子供を産むときに入院はしましたが、木をふんだんに使った素敵なお家でした。分娩台を使わず自然に産むのをコンセプトにしたところだったので入院というよりお泊まりさせてもらった感じでした。 なので今回は大きな病院の入院初、点滴初で私にとっては新しいことばかり。これから始まる抗がん剤、家族の負担が増えることに不安と心配を抱えながらのスタートでした。 入院2日目のヘモグロビン値が6.9と更に減ってしまったので早速輸血をしました。ちなみに入院中は数えきれないほどの輸血をしました。献血をしてくださった方の善意
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