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2019/09/24

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  • カルチャーショック

    最近になって、アメリカのテレビ番組や映画の暴力的なシーンが耐えられなくなってきました 直近では、ハリソン・フォードとヘレン・ミレン主演の「1923」を見ていて、キリスト教の宣教師らがアメリカ先住民の子どもたちを虐待する場面が繰り返され、あまりのむごさに続けて見る気が失せました これもアメリカの歴史の一部であり、見たくなければ見なければよいだけ でも、その他の番組や映画でも刺激の強い暴力的な場面が多く、うんざりしています 日本に比べると、アメリカでは暴力的な場面が多い番組や映画を目にする機会が多すぎるように感じます 日本とアメリカでは、国の成り立ちや歴史の長さ、文化の発展のプロセスも違うのだから…

  • カウンセリングの料金

    ちょっと前から、日本のカウンセラーさんとZOOMでカウンセリングしてもらってる 良心的な料金設定で、50分で5000円 なのに、私は、勝手に1時間5000円と思い込んでた・・・💦 セッションでは、最近のことを話してから、昔の成育歴のこと、を順に話している そうすると、どうも1時間では足りない感じがしてきた 30分延長すれば、慌てずに話せると思って、90分の料金を確認した もともとは、50分で5000円、つまり10分が1000円という設定なので 90分なら9000円でどうでしょう というお返事をもらった 至極まっとうなお返事で、他に比べればこれまた良心的な価格だと思う こっちのカウンセラーには、…

  • 反面教師

    私が高校生くらいだった時、母は私に言った 「ママのこと、反面教師にしてね」 都合のいい言い草である 自分がお手本にならなくてもいいんだから 自分がお手本になる苦労はせずに 娘に、お手本を探す苦労をさせる 勝手だ 自然界を見てごらん どんな動物だって、親を手本に大きくなる 親のすることを見よう見まねで、失敗しつつ、繰り返し 少しずつできるようになって、大人になっていく 親を反面教師にして、成長していく動物なんて、どっかにいる?! いたら教えてください 「ママを反面教師にしてね」とかなんとか、さも申し訳なさそうに言い放って あとは子どもに丸投げ、素知らぬ顔するのは、人間だけじゃん そんなの自然じゃ…

  • 情けない状態

    毎日見に行くいくつかのブログ どのブログにも、落ち着いた、穏やかな、それぞれの日々が書かれている 私の日々は とにかく無気力で 昼頃まで起きられなくて 下手すると、昼過ぎても起きられなくて 自分で自分を寝たきり老人にしているようで 起きても、やることと言ったらネットばかりで 不安でたまらなくなると、ビールかワインを飲んで不安を紛らわせ 何度も時計を見て、夕飯の支度に気が重くなり 毎日同じことの繰り返し 掃除をしない部屋にはほこりが積もり ゴミがちらかり こんな家で、廃人みたいになって 死ぬんだろうか、わたしは 自分なりに頑張って生きてきたつもりだったのに 今、こんな情けない状態の自分 私の人生…

  • 海外こころのヘルプデスク

    海外こころのヘルプデスク という存在をつい最近になって知った ZOOMを使って、日本語で無料で相談できる 話を聞いてくれるのは、海外在住、または海外に在住経験がある、傾聴のトレーニングを受けた日本人 アダルトチルドレンのためのサポートミーティングもある 時差の関係で、私の住んでいるところでは朝5時からのスタート 海外在住とアダルトチルドレンが、重なることはめったにない がんばって目覚ましをかけて起きて、参加してみた 予想に反して、参加者は私だけ ファシリテーターの女性とふたり 途中から、もうひとり参加されたので、3人 1時間のおしゃべり 今後は参加することはないと思う よくこんなんで、3年も続…

  • チャールズ三世の戴冠式

    今日はイギリス、チャールズ三世の戴冠式だった アメリカ西海岸とロンドンの時差は、最悪 戴冠式が始まった土曜の午前11時は、西海岸の午前3時 それでも、起きて見た 去年のエリザベス女王の国葬と比較すると さすがに祝賀行事だけあって、参列者の装いもカラフルだし ご当人たちの衣装や装飾品もきらびやかで 飽きることなく見入った 儀式の最中のチャールズ三世とカミラ王妃の表情をみていたら このふたりは、国王とその妃という重責がついにわが身に巡ってきたことに 憂鬱になっているように、私には見えた 戴冠の儀式は、すべてがキリスト教が基盤の宗教的なもので ひとつひとつの儀式が 王としての、ものすごい覚悟を迫られ…

  • なんでよ

    子どもを病気や自死で亡くした人たちが 命日や折々に、その子どものことを思い出して、悲しみを新たにし その悲しみや辛さを、SNSに書いたりするのをよく見る そんな時、コメントを残す人たちはみんな優しくて親切だ 「いつまでもそんなこと言ってないで、いい加減乗り越えなきゃ」 なんていう人は見たことない 子どもが亡くなってから、何十年たっていても なのに、アダルトチルドレンが親のことでいつまでもぐずぐず苦しんで そのことを話したり、書こうものなら 「そんな大昔のことにいつまでもこだわってないで、いい加減に成長したら」 みたいなことを言われたりする なんでよ

  • 張りぼてのわたし

    いつ頃からか、記憶がないけれど いつの間にか「あるべき姿」というのを理解して その「あるべき姿」を演じてきた気がする 明るく 前向きで 思いやりがあり 親切で 勉強もし 部活もし 仕事もでき 率先して物事を進め 子どもや老人に優しく 気が利き などなど・・・ でも、ほとんどのことは 頭で理解して、とってつけただけ 文字通り張りぼてのわたし その張りぼてをはずし、仮面を取ったら そこにいるのは 不安でたまらず 自分を取り囲む世界が怖くてたまらず どうしていいのかわからず でも、そんな本音を誰にも言えず そんな自分を、不安な気持ちを隠して、なんとか毎日生きている そんな痛々しい娘だった 自分がそん…

  • 誰とも話していない

    去年の8月はじめから、気持ちが下降しはじめ 10月半ばには、急に膝の痛みで、歩くのはもちろん、階段の上り下りも普通にできなくなり 11月から通い始めた新しいアメリカ人のカウンセラーとも、なんだかしっくりゆかず 今年に入って通い始めたカイロプラクティックのおかげで、杖なしで歩けるようになったし、階段もずいぶん楽になったけど、まだ膝回りのツッパリ感はあり 週2回の通院は続き マンモグラフィ検査と婦人科の検診もしないといけないのに、予約を入れておらず そしたら、昨日、右奥歯のかぶせものが割れて、欠けた・・・ 踏んだり蹴ったりとは、このことだ 鬱っぽい状態は続いていて、昼頃までベッドから出られない 医…

  • 思いやり

    本当は認めたくないけれど 私には人を思いやる心、気持ちが欠けている そのことに罪悪感がある 自分はなんてひどい人間なんだろう、と思う 還暦すぎて、60年以上生きてきたのに、これだ そしたら、こんな言葉に出会った 「本来、思いやりなどは幼い時から主として母の態度を摂取して身につくものなので、大声でいいきかせてみてもできるものではないでしょう」 ー人間ごと来談簿 247p 木田恵子著 そうか・・・そうなのか・・・ 私は、母が私を思いやってくれた、とか母と心を通わせた、という記憶がない もともと母との思い出がほとんどない、というかほとんど憶えていないのだが だから、私には人を思いやる、ことができない…

  • 健康なのは、その人が偉いからじゃない

    先日他界された、坂本龍一さんが語った死生観(朝日新聞2023年4月3日付) 「人間というのは、愚かなもので、自分の意識、つまり脳だけが過剰に肥大している。自分がコントロールできている部分なんて、僕は5%くらい。自分の意識だけが自分の生を決めているなんて、錯覚に過ぎない」 「病気になるのは弱くて価値が低くなる? そんな偏見や差別は、無知としかいいようがない。僕たちは自分たちの免疫システムに依存して生きているだけ。健康なのは、その人が偉いからじゃない」 確かに、中年過ぎても健康で活動的な人たちを見ると、食生活に気を付けたり、運動したり、身体にいいことをしているんだろうな、偉いな と思い あちこちガ…

  • ずっとやってみたかった陶芸

    以前から、自分で陶器を焼いてみたいなぁ、と思っていた 今住んでいるところでは、「これいいな」と思える和食器に出会えないから 地元の人が焼いた、小振りで素朴なコーヒーカップを近所のコーヒー屋で見つけて ひさびさにワクワクして、オットに買ってもらい、ずっとお気に入りだった でも、引っ越しした時、包み方が悪くて割れてしまった ファーマーズマーケットで、そのカップを作った人と話して 市でやってるアートクラスに焼き物のコースもあって、格安で習える、と教えてもらった それからずいぶんたって、やっとこの春、その陶芸クラスをとれることになった いつも人気で、今年もすでに満員だったが、キャンセル待ちの順番が回っ…

  • 大谷選手を育てたご両親

    メジャーリーグでもWBCでも大活躍の大谷翔平くん YouTubeで探せば、それこそ山のように関連の動画が出てくる ご両親がどうやって大谷選手を育てたのか そのインタビュー動画をいくつか見て、「やっぱりそうなのか」と思わずにはいられなかった どう育てたいとか、家訓のようなものはなく ただただ、可愛い可愛いと思って育ててきた 相談されれば意見をいうつもりだったけれど、子どもたちは皆自分で決めてきた 子どもの様子を見ながら、愛情をもって、気長に見守る そういうご両親に育てられたからこそ、今のような好青年になったんだなぁ・・・と コーチとしてずっとそばにいた父親の3つの教えも 一生懸命、元気に声を出す…

  • 動けない、動きたくない

    去年の8月初めから、突然、急降下し始めたメンタル (初めてではなく、これで再再発・・・だと思う) 今回の不調のきっかけとして、具体的に思い当たることはあまりなくて それまでの半年くらい、いろいろと予定を入れて動き過ぎて、心身ともにくたびれたのか 8月、9月と普段ならほとんど付き合いのないオットの親戚たちと会うことが続き、いつもなら使わない気を使ったからなのか 去年の秋から、かかわったカウンセラーと相性がよくないことがついにはっきりしたからなのか なんかほんと動けない 若い頃は、不登校にもならず、引きこもりもせず、会社でも大方普通に働いていた私にも ついに、最後の最後になって 動けない 動きたく…

  • あんたのせいだ

    今、改めて感じていること 長いこと、私を精神的に苦しめてきたのは、父の言葉の暴力だと信じてきたけれど 実は、もっと深いところで、私の心を苛んでいたのは、母との関係だった 私には、子供時代の記憶があまりなく 母との記憶も数えるほどしか、思い出せない そして、そのほとんどは、楽しい記憶ではなく、母が私に気づかなかったり 母が言ったことに突き放されたように感じて、怒りに震えたり そんなのばかりだ そうじゃない思い出は、小学校高学年の時、母とデパートへ行った帰りに おぜんざいを食べたことくらい ついてきた塩昆布のことを覚えてる それだって、楽しかったというよりも、ニュートラルだ 「ママ、大好き」と思っ…

  • 幼い私が言えなかったこと

    三つ子の魂、の幼い頃、私がいつも思っていたのは おばあちゃんじゃないっ!おばあちゃんじゃ、いやっ! ママがいい!ママぁーっ!! だったに違いない 母は勤めに出ている 毎日世話してくれるおばあちゃんを嫌い、拒否することは 小さな私にとっては、死を意味することだから おばあちゃんへの嫌悪感は、感じる前に抑圧したんだと思う 無意識の中に 幼稚園くらいの時に、何が原因か憶えてないけれど ものすごく怒った私は、駄々をこねながら、正座していたおばあちゃんの膝を、足で思いっきりダンダン蹴りつけ、その勢いで後ろに倒れたおばあちゃんは、柱のカドに頭をぶつけて、頭の皮膚が切れて血が出た 日頃から、毎日一緒にいるお…

  • 三つ子の魂百まで

    このところずっと、日本から送ってもらった、精神分析家、木田恵子さんの著書を読んでいます 木田さんによると「三つ子の魂百まで」というのは、ほんとうのことで 「性格の形成は胎児の時代から始まる」 「3歳までに、基本の性格が形成される」 「心や性格は、そんなに簡単に変わりようがない」 「心が何かのきっかけでがらりと転換できるように考えるのは、心が目に見えないためにいだきがちな幻想にすぎません」 ーその時子供はどう思うか 139頁ー 「子供のことも自分のことも、その性格に即した生き方を考えてゆくのが、結局は有利だと私は考えています」 ー同上ー とおっしゃっています これを読むと、私はなんだかほっとしま…

  • 木田恵子さん

    どういう経緯だったか、すでに思い出せないのですが 精神分析家の木田恵子さんという人のことを知りました, 残念ながら、ずいぶん前に他界しておられます 今、ご存命だったら、102歳 これから自分を育て直すのだから、どうやったらいいのかわかるかもしれない 自分のために役に立つかどうかわからないけど だめもとでも、ぜひ読んでみたい! そう思って、アマゾンなどのネットで探しましたが 本そのものが古くて、ほとんどが中古本 値段が安いのは有難く 日本の友達に頼んで、彼女の所に配達してもらい、合計9冊、クロネコ便でこっちへ送ってもらいました そのうちの一冊 読み始めて、納得することが山ほどあり そうだったのか…

  • 木田恵子さん

    どういう経緯だったか、すでに思い出せないのですが 精神分析家の木田恵子さんという人のことを知りました, 残念ながら、ずいぶん前に他界しておられます 今、ご存命だったら、102歳 これから自分を育て直すのだから、どうやったらいいのかわかるかもしれない 自分のために役に立つかどうかわからないけど だめもとでも、ぜひ読んでみたい! そう思って、アマゾンなどのネットで探しましたが 本そのものが古くて、ほとんどが中古本 値段が安いのは有難く 日本の友達に頼んで、彼女の所に配達してもらい、合計9冊、クロネコ便でこっちへ送ってもらいました そのうちの一冊 読み始めて、納得することが山ほどあり そうだったのか…

  • オットのこと

    私のオットは、10歳年下のハワイで生まれ育ったアメリカ人です 彼の父親は中国系アメリカ人、母親はインディアンの血も少し入った白人なので、いわゆるHapa(ハパ:白人とのハーフ)です ハワイで専門学校に通っていた頃に、出会いました 父とはまったく逆の性格で、人を見下したり、偉そうにしたり、傲慢なところはひとつもありません 人として、私よりもはるかに優しく、よい人間だと思います 結婚してから知ったんですが、彼も私同様、というより、多分私よりも過酷な子供時代を過ごしてきました 類は友を呼ぶ、とはこのことなのか なので、お互い、機能不全家庭で育った辛さがわかります 経験がないひとには、わからないことな…

  • 緊張を解消すること

    アクセスログを見ると、1月8日のアクセスが一日だけ30近くあるのは、どうしてなんだろう? ま、いいか・・・ メンタルが落ちてきて、鬱っぽくなると、きまってYouTubeでそれ関係の動画を見始める というか、他のことをする気力も興味もなくなるので、ネットの前にずっと座っていることになり、その結果、今しんどい状況をよくする方法を探している 最近見つけた動画で、緊張をうまく解消できないといろいろ症状が出てくる、とあった 家庭とは、本来は休むところ・・・なんだと 目からウロコだ 私にとって、育った家は心が休まるところではなかった かろうじて、自分の部屋だけは、自分が落ち着くようにはしてたけど (自分の…

  • アメリカと日本の違い

    去年の前半は調子があがっていて、一泊旅行をしたり、2週間のロードトリップに出たりしていました が、8月に入って、また鬱っぽくなりました まるで電気のスイッチを、パチンと切ったかのよう これは一昨年にも起こったことで あまりにしんどいので、何とかしたいと思い 11月から、アメリカ人のセラピストに週一回会うようになりました セラピー料金は、安くはありませんが、背に腹は代えられません 通い始めて、今ほぼ2か月 実感できる効果は、まだ感じられません が、家でひとり鬱々とするよりも、話せる人がいるほうがよいと思い、通い続けています でも、最近になって、やっぱりお国柄の違い、があるのではないか と思い始め…

  • また書きます

    しばらく書いていなかったのですが、また少し書こうと思います ブログのタイトルも、今の気持ちに合うよう、変えました

  • 困っていること

    困っていることがある 新型コロナにまつわること ワクチン接種やマスク着用について、それをはなから否定してそのことばかりを論ずるサイトやブログは、最初からほとんど見ないのでかまわないんだけれど 他のこと・・・例えば どうやって自分らしく生きるか、とか できるだけ自然の近くで、自分なりにエコも考えながら暮らす、とか 機能不全家庭で育ったアダルトチルドレンがどうやったらラクに生きられるか、とか そういう内容に共感して、または「ああ、こういう考え方もあるのか」と その人の考えを受け入れたい気持ちでいる時に いきなり、そのひとたちから ワクチンは信用できない PCR検査で陽性でも、無症状なら感染ではない…

  • 疲れたから、お酒を飲もう

    生まれてから60年、母とは心のつながりが持てなかったけれど、父からはずっと精神的・心理的に虐待されてきたけれど、祖母にはほんとうには優しくできなかったけれど それでも、非行に走ることなく、髪を染めることなく、薬物に手を出すこともなく、売春をすることもなく 義務教育を終え、都立高校を卒業し、私立の女子大へ行き、一部上場企業で15年間働いた 高校からOL時代までは、むしろ優等生だった OLだった最後の数年は、躁鬱病で閉鎖病棟での入退院を繰り返した母を見舞い、急死する前、寛解時には、数か月一緒に暮らした 母が亡くなり、会社を辞め、ハワイへ語学留学し、専門学校に通い、そこで今のオットに出会い、アメリカ…

  • 消極的な自殺

    「消えたい」と思うことはあっても、「自殺したい」と思ったことはない そんな勇気はない 万一、自殺することがあるなら、雪山で睡眠薬を飲んで、眠ったまま死ぬ、しかないと思っていた それだって、やるとなったら準備が面倒だし、いろいろやっているうちに面倒だし、怖いしで、決行できない気がする 私はタバコは吸わない 大学生の頃、カッコつけるために、一年くらいふかしていたことはあるけど、「美味しい」思ったことはないし、胸まで吸い込んだこともない 薬物もやらない ここならマリファナも合法だけど、吸いたいと思わない 競馬も競輪、博打など、賭け事も一切しない パチンコもしない ホストクラブは、行ったこともない 整…

  • ありもしないもの

    物心ついた時から、心に淋しさを抱えていた 今も抱えている 幸せそうではない母 一緒にいてくれない母 私を理解してくれない母 私に寄り添ってくれない母 母と祖母の間にある確執 父と母の不仲 父の言葉の暴力 家庭の中で日常茶飯事だった 嫌なこと 悲しいこと 腹立たしいこと が起こる度 こんなはずじゃない と心の中で突っぱねてきた 「親を反面教師にしてね」と母から言われ 家庭で起こっていることを否定し そうじゃないものを探し続けた その結果 私は、ありもしないものを探していたんじゃないか

  • ざわざわ感

    昨日は、オットの腹違いの姉兄とその子供たち、姉兄の母親と2時間ほど一緒に過ごしました 夏休みの観光で、週末の間、近くに滞在しています 今は観光名所になっている、昔、富豪が住んでいた大きなお屋敷の見学です 矢印に沿って、そこここにある掲示板の情報を見ながら、自分たちで館内を巡り、その後は、庭からポートランドの街並みとマウントフッドを眺めて、写真を撮りました 義兄に会うのは、1年振り 義姉と彼女の娘たちは、ほぼ10年振り ふたりの母上は、初対面 特に、気を使ったつもりはないのですが、やはり疲れました 皆、それぞれ、自分の好きなように動き、話していて、私もそうしていたつもりですが なんだかやっぱり馴…

  • また落ちている

    しばらく更新していなかったブログに★がついた うれしかった 4月の終わりごろから、鬱気味 去年も3月から8月まで、気持ちが落ちていた 父が9月に亡くなり、それやこれやで、気持ちが上がり始め かなりよくなってきたと思っていたので、また落ちたことに、がっかりした うんざりした まただ この嫌な気分 この嫌な落ち込みに引きずり込まれると いつも必ず、こうなるのは子供時代が辛かったせいだ と思う

  • 気になっていること

    ここ数日、気になっていることがある 先日書いた、このブログの内容なんだけれど rainorshine.hatenadiary.com 毎日コメントを残していたこの方、数日前からパッタリと訪問が途絶えた コメントはもちろん☆もない 「毎日コメントします」ということだったのに、どうしたんだろう と気にかかってしまう そういう確率はすごく低いと思うけれど もしかして、ひょんなことからこのブログを見つけて、上の記事を読んで、気を悪くされたのなら、ごめんなさい 私は、今、「自分の気持ちを出す」練習中なので こういったらあの人はどう思うだろう、とこれまでの人生でさんざん考えて 自分がどう感じるかよりも、人…

  • 好き嫌い

    私の友人に好き嫌いを、はっきりと口に出す人がいる 「わたしはチラシ寿司嫌いだから」とか 「○○は、まずいから行かない」とか 「お魚は、△△マーケットじゃなきゃ買わない」とか 「わたしは、パスタソース一から手作りだから」とか 要するに何にしても、こだわりが強く、またそれをハッキリと口に出す 最初、そのハッキリした物言いに、驚いた レストランで、私が選ぼうとしているものに「わたしはそれ好きじゃないから、○○にする」と言われると、ドギマギした どう返事したものかわからなくて、頭が真っ白になる思いだった 途端に何が食べたいのかわからなくなったり もちろん彼女に悪気はない ぜんぜんない ただ、思ったこと…

  • 他人との距離感

    ここでは、自分の中にたまったドロドロのヘドロを吐き出している それとは別に、日々のあれこれを思いつくままに、別のところで書いている そこにコメントが書かれると、時々、困ることがある もちろん、嬉しい時もある 最近になって、毎日コメントを書く人ができた 私が毎日見に行くお気に入りのブロガーにコメントを書いている人で、そのつながりで私のブログも見に来てくれるようになった ブログの中身を褒めてくれることもあり、「応援しています」と言われて、うれしい時もある ただ、毎日、この人がコメントを残す、ことがブログを書く前から もうわかっている ことが、私にはちょっと重い しかも、そのコメントで、私が書いた内…

  • 疎遠な関係

    これまでの60年の間、30代半ばまでずっと実家で暮らし、母が亡くなった後、市川の自宅マンションを出て、新松戸で2年くらい一人暮らし、ハワイで部屋を借りてしばらくひとりで暮らし、そして、結婚して、オレゴンで暮らしてきた 私がひとりで暮らした部屋や、結婚して20年近く住んでいる当地を、父も妹も一度も訪れたことはない ふたりとも、私がどんなところに住んでいるかとか、私の暮らしぶりには、まったく興味がないようだった 母が亡くなった後、天下りした会社を辞した父は、妹を連れて、国内や海外へひんぱんに一緒に旅をしていた 泊るところは、上高地の帝国ホテルや道後温泉の有名旅館、奈良の老舗旅館だとか、ハワイならい…

  • 父の愛人、ヘルパーK

    私は厚かましい人は、嫌いだ 誘われもしないのに、自分から「○○ちゃんの学芸会、私も一緒に見に行っちゃおうかしら~」などと言い出すヘルパーKは、最初から好感が持てなかった 里帰りの時に、何度か会う機会があった 父のヘルパーとして、茶飲み友達として、公私にわたってお世話になっているから、会えば型通りにお礼を言ったが、こっちからお土産を用意して行って渡したりはしなかった お世話になっているんだから、そうするものかな、と頭で考えはしたが 自分からそうしたい、という気持ちはないし 日頃から、父が食事に連れ出したりしてるから、それでいいだろうと思っていた ヘルパーKは、世田谷の一軒家に寝たきりのご主人と二…

  • 父の血 その9ー老いらくの恋

    父の 老いらくの恋 は、私には、まあそれもいいか、と思えた その頃には、物理的にも精神的にも感情的にも、父からずいぶん距離を置いていたせいだろう 恋のお相手、ヘルパーのKさんは、小太りで、大きな声で、おしゃべり好きな、ひと言で言えば、悪気のないおせっかいおばさんだ 父のところに、ヘルパーとして週に何度か来るようになって、まだたいしてたっていないのに、妹の次男の学芸会があると知ると 「わたしも一緒について行って、見に行っちゃおうかしら~」 などと、誘われもしないのに言った、と妹から聞いて、厚かましいひとだと思った 好感が持てなかった 父の名前をアップリケした敷物や、ランチョンマットなんかを幾つも…

  • 父の血 その8

    母が急死した後もしばらく、父は関西の冷蔵会社の役員を務めた 一部上場の水産会社からやってきたお飾りのようなもので、仕事らしい仕事もなかったらしい 母が亡くなり、そこを退職するまでの数か月の間に、父は派手な健康問題を起こした ある日の夕方、帰りの通勤電車の中で、急に猛烈な鼻血が止まらなくなり、救急車で大阪駅近くの病院に搬送された 原因と病状が何だったのか、もう忘れてしまったが 知らせを受けて、私はすぐ大阪に駆け付けた 病院に父を見舞い、駅前のビジネスホテルに泊まった その時に、鼠径部から器具をいれて処置をするステント、というのをやったはずだ その手術の時は、私は病院には行かなかった 父は普段から…

  • 大自然のなかで

    55歳になる年の春、初めてひとりで、ワイオミング州にあるグランドティトン国立公園内のリゾートで、泊まりこみで夏の仕事をした ロッジにあるギフトショップの店員として働いた ちょっともめごともあったけど、ほぼすべてが楽しかった 何よりもよかったのは、大自然のなかで、ひとり、誰にも気兼ねすることなく、毎日行動できたことだ 限られた期間とはいえ、自分が働いた収入で、自分の暮らしを賄い、やりたいように、行きたい場所へ行く 車の保険代などは、オットが払ってくれていたから、100%とは言えないけれど、それでも、これまでの人生のどのステージよりも、お金も時間も考えも自由だった 自分で考えて、自分でやりたいこと…

  • 父の血 その7

    海外に住むようになって、里帰りすることがあると 父は、私のスケジュールを勝手に仕切った 里帰りの飛行機代は、私が自分で払っているのに、私は自分のスケジュールを自分の好きなように組めない 滞在中の私の食事予定を、朝、昼、晩、毎日、勝手に決めた 朝食は父の家で○○を食べる 昼は、xxでラーメン 夜は、△△で鮨 という具合に、私が帰国する数週間前から、すでに事前に細かく決めて、メールしてくる 私の予定や都合を一切聞きもせずにだ 私にだって、会って食事をしたい友達がいて ひとりで行きたい場所がある ということが、まったく父の念頭にはない それに文句を言うと、激昂する 前にも書いたが、父にとっての最大の…

  • 母のこと -7 薬は要らなかった

    精神病院って、ほんとうに必要なんだろうか? 母に限って言えば、母は精神病院に入院する必要はなかったと思う 精神病院または精神科の閉鎖病棟へ見舞いに行ったことがある人なんて、あんまりいないと思うけど、あそこは私にはものすごく怖いところだった 行くだけで、具合が悪くなりそうだった 軽い症状のひとが入院したら、間違いなく悪化するだろう 能面のように、真っ白で血の気のない無表情な顔で、じっと椅子に腰かける、中学生くらいの若い女の子がいた なんで、こんなに若い子が、と思った 母のベッドがあった部屋には、少なくとも8人か10人の女性患者のベッドが並んでいて 窓際の一番奥のベッドで、横になった患者がマスター…

  • 続 阪神淡路大震災

    卓上コンロのガスボンベを載せたカートを引っ張りながら、JRの階段を上ったり下りたりして、乗り換え、乗り換え、川西の家に着いた 家で何をしたのか、今となってはぜんぜん覚えていないが、週末の一泊か二泊だから、たいしたことはできなかったはずだ 買い物に行って、鍋でも食べたんだと思う はっきり覚えているのは、私が東京に帰る時だ 母とふたりで、最寄りの駅から能勢電鉄に乗り、阪急電車に乗り換える駅で降りて、駅近くの銭湯へ行った 震災以来、母は風呂に入っていなかったから、暖かい湯舟につかって、体や髪を洗えばさっぱりするだろうと思った 当時は、インターネットなんてまだなかったから、駅で降りて行き当たりばったり…

  • 阪神淡路大震災

    阪神淡路大震災が起こった時、すでに父は取締役をしていた水産会社から、関西のxx冷蔵という会社に左遷になって、母とふたり川西の新築一軒家に住んでいた 妹はすでに看護士になっていて、都心に部屋を借りて一人暮らししていたと思う 私は、市川の自宅マンションに住んで、日本橋まで通勤していた 1995年1月17日の朝、起きだして、まだぼーっとしながらリビングのテレビをつけた 画面に映る数字を見て、天気予報かと思って、もっとよく見ると 地震だった しかも、関西 しかも、大きい! 多分、あわてて川西の家に電話したと思うが、その時はつながらならず 出社して、会社から掛けてやっとつながった記憶がある 家は、壁にわ…

  • 自分がわからない

    大人になってから、どうにも違和感を感じることがあった 例えば、友達と温泉に行く 服を脱いで、ロッカーにしまう 風呂場に行って、体を洗ったり、浴槽につかる 風呂から上がって、体を拭き、化粧品をつけたり、髪をドライヤーで乾かしたり そういうなんてことない動きをする時に、ひとがどうするかがものすごく気になる 友達のすることにあわせている自分に気づく 友達はそれぞれ自分のやり方で、自分のペースで動いているのに 私には「自分のペース」というものがなかった 回りの動きが気になり、気持ちがざわざわして、落ち着かない 好きなものを選んでいい、というのが苦痛に感じることも多かった どれが好きなのが、わからない …

  • 父の血 その6

    いつから父のことが嫌いになったのか、わからない 家の中で、正しいのは父ひとりだけだった 誕生日とかお出かけとか、楽しいはずの日は、必ずと言っていいほど 父の機嫌が悪くなることで、終わった だから、楽しいはずの日も「最後はどうせパパの機嫌が悪くなるに違いない」と思うようになった そして、予想通り、ほぼ毎回そうなった 楽しいはずの日を楽しみにしなくなった どうせまた・・・と冷めた気持ちを持つようになった 外でご飯を食べれば、いつも母が同じものを注文する、といってバカにし 私が蕎麦屋で、うどんなんか注文しようものなら、「蕎麦屋でうどんなんて食うやつがあるかっ!」と頭ごなしに怒鳴られた 私が大人になり…

  • 根無し草

    ずっと自分のことを「根無し草」だと感じていた 母とも父とも心のつながりが感じられず 近くにいてくれる祖母になつくと母を裏切るようで、ほんとうにはなつけなかった 妹が生まれても、10歳も年下だから、姉妹で遊ぶ、というよりも 私が小さな妹の面倒をみる、第二の母のような気持ちでいた そんな家庭環境なのに、住む場所も3年ごとに変わる 住む家が変わり、自分の部屋も変わる 学校も変わり、先生も変わり、友達も変わる その土地に、根っこをはやしている暇なんてなかった 仮に、根っこが生え始めたとしても・・・またすぐ引っこ抜かないといけない 仲良しの友達といえる同級生ができたのは 中学校2年生になって初めてだった…

  • 何のために生きているのか

    中三の秋から、やおら始めた受験勉強で、なんとか新設の都立高校に受かり そこでは、成績もそこそこよく 大学はなんとかひとつ引っ掛かって、私立の女子大の英文科に進んだ 授業にはちゃんと出たし、勉強もしたけれど なぜそれを勉強しているのか 将来何になりたいのか、何をしたいのか 何も見えなかった たいして勉強もせず受験した教員採用試験には、なぜか受かったが(父の知り合いの関係だったかもしれない)、教師になる気持ちにはなれなかった 働いてみたい会社もなく、どんな仕事をしたいのかもわからないので、聞いたことのある会社や父親の勧める会社の面接を受け、これも受かったのは一か所だったと思う そこに勤めた 漠然と…

  • シンデレラ・エクスプレス

    いちばん身近な存在のはずの、母親とも父親とも、幼い頃から信頼関係が築けなかった いつの頃からか、自分の周りに壁を作って、鎧兜を身に着けて、自分を守っていた 何かあれば、すぐ心のシャッターを下ろして、ひざを抱えて丸くなる 私の心は、どんどん固くなっていった 耕されなくなった土地のように あまりにも硬くて、水も浸透せず、ただその上を流れていく 両親はもちろん、周囲のひとを意識的に遠ざける私には、周囲からの優しさや思いやりは、伝わってこなかった あっても気づかなかった、気づけなかった それなのに、私は異性に救いを求めようとしていた 初めて「好きになった」と思ったのは、広島の小学校の同級生 学級委員に…

  • 自分を大事にする その2

    母は私に「自分を大事にするって、どういうことなのか、わからない」 と言ったが 私も、自分を大事にするって、どういうことなのか、わかってなかった よって、当然のことながら、今考えれば、自分をまったく大切にしない行動をとった 一番、顕著なのが、そして我ながら痛ましいのは、処女を喪失した時だ 大学生の時だったけど、正確にいくつだったのか、覚えていない 二十歳すぎていたか、いないか・・・だったと思う 相手は、伊丹の中学校時代の友達で、彼もたまたま父親の転勤で、東京に暮らしていた どうやって、再度つながったのか記憶にないが 中学時代、頭が良くてカッコイイと、女子に人気のある子だったが、私は他に片思いして…

  • ブラックホール

    最近になって、つくづく思う 母親が子供に与える影響は、大きい ものすごく大きい 父親の比じゃない 世の中で、大きな仕事をする人は、ほぼ例外なく、母親を慕っている、愛している、感謝している それを公言できる ジェーン・グドオール女史も RBG(ルースベイダーギンスバーグ)最高裁判事も バラック・オバマ元大統領も ミシェル・オバマも カマラ・ハリスも (バイデンもそうかもしれないけど、事故死した最初の奥さんと娘、若くして亡くなった長男のことが表にでるので、お母さんのことはあまり知らない) 違う言い方をすれば、母親からのポジティブなサポートなくしては、こういう人たちは存在しなかった、だろうと思う そ…

  • 鮨の順番

    戦争中に少年時代を過ごし、飛行機乗りになりたいと思い、食べるものも満足にないなか育った父は、食べることが好きだった 戦争中、カボチャばかり食べさせられたから、もうカボチャはいらんと言っていた 長崎、広島、伊丹と引っ越した先々で、お客があると当地の名物やら美味しいものを食べに行った 「旨いものを食わせる」ことが、父にとっての最大のもてなしであり、愛情表現だったと思う だが、大金をはたいて、喜ばせたいはずの相手の気持ちには、いっさいおかまいなし、というよりも、人の気持ちというものが、恐ろしいほどにわからない男だった 海外在住も長くなった頃、里帰りした時に「鮨を食いに行こう」という父と一緒に、気はす…

  • 自分を大事にする

    「自分を大事にするって、どういうことなのか、わからない」 これはある日、母が私に言ったことだ 3人の機能不全な大人に囲まれて、機能不全な家庭に育った私は、いつも答えを探し続けていた 自分の「問い」がなんなのかわからないまま、「答え」を探していた 加藤諦三の「愛されなかった時どう生きるか」など、自己啓発の本を読み漁った 「アメリカン・インディアンの教え」みたいな本も読んだ でも、欲しい答えは見つからなかった 見つかったような気がしても、また次の壁にぶち当たった 母はそういう本は読んでいないようだった 「どうしてこういう本を読んでみないの?」と母に言ったこともある 本を読む代わりに、宗教に片足を突…

  • おばあちゃんっ子

    私は、子供の頃から、自分はおばあちゃんっ子だと思っていた ものごころついた頃から、そばにいたのは母ではなく、もっぱら祖母 幼稚園にあがる前に、朝目覚めた時に横に座っていたのは、祖母 私をおんぶして子守りしてくれたのも、祖母 寝る前にお話しをしてくれたのも、祖母 梅酒でかき氷を作ってくれたのも、祖母 手編みのセーターを作ってくれたり、ほどいて編みなおしてくれたのも、祖母 ゆかたを縫ってくれたのも、祖母 新聞に入ってきたチラシを見ながら「このページのどの服が好き?」って遊んだもの、祖母 エビオスや養命酒を飲んだり、せんぶりという薬草から煎じた苦いお茶を飲む姿を見たのも、祖母 門限に遅れて帰ってきた…

  • 父の血 その5

    父は、人間として、男として、未熟だったんだろう 当然、夫としても父親としても 社会的な立場から見れば、ちゃんと機能している大人と認識されていただろうが 家庭においては、機能不全の自分勝手な人間だった そして、今思えば、酒乱だったんだろう 戦後復興期の景気のよい時代に、その会社では珍しい東大卒として、管理畑を歩いてきた父は、ワーカーホリックにはほど遠く、たまに接待や飲み会があったくらいで 平日もけっこう家で夕飯の席についていた印象がある そして、飲み始め、話し始めると、それが批評や批判、非難になることがしばしば 私たち家族や親戚に対しての時もあれば、社会一般についての時もあったろう そんな話につ…

  • 父の血 その4

    戦時中のモノがない、食べ物もない時代に、多感であろう少年時代を過ごした父は モノを買う時はよいものを 食べる物は、美味しいものを求めた 戦後の高度成長期で、経済的にゆとりもあったんだろう、少々値が張っても、いとわなかった 品物を選ぶセンスも悪くなかった、どちらかといえばよかった 市川のマンションの木製のダイニングテーブルとイスのセット 川西の家に引っ越した時に買った、ブルー系のペルシャ絨毯 私に買ってくれた薄い長方形のフレームに、薄っすらパープルがかったワニ皮のベルトがついたおしゃれな腕時計 就職祝いだったか 私の目からみて、どれもセンスがよかった でも、贈り物にまつわる思い出には、今でも思い…

  • 父の血 その3

    父に反抗しながらも、父の言動に私は振り回された 高校受験をきっかけに英語が得意で好きになったから、大学は英文科に進もうと思った 受験は、数学が苦手で嫌いだったから、共通一次のある国立ではなく 得意な文系科目に絞って勉強したほうがいいと思った そう父に言ったら 「やってみないでどうする!」 押し切られて、嫌々理系の勉強もせざるを得なくなった 私の志望校のリストを見て、担任の先生が私に言った「浪人するつもり?」 当然ながら、国立は落ちたし、他の私立もほぼすべて落ち、たったひとつ女子大の英文科にひっかかった 大学卒業後、何をしたいのか全然わからなかった どういう訳か、父は大学院に行きたいならそれもい…

  • 凍った湖

    社会人になって、仕事や飲み会などで家にいる時間が減った 職場では一所懸命仕事をすれば、上司がほめてくれるし、取引先の人たちとのやり取りも楽しかった きちんとやれば、ちゃんと評価される これまで家で経験してきたような理不尽さは、まったくない うれしかった 家の嫌なことも遠のいたようで 「あんなに子供時代は大変だったと思ってたのに、大人になってなんともないなんて不思議」と思った記憶がある もちろん何ともない訳はなかったが、その時はまだ気づいていなかった 会社の清掃や茶碗洗いなどの雑用をしてくれてたおばさんのひとりが 腰かけ3年をはるかに過ぎても、いつまでも嫁に行かずに働いている私に 「うちの親戚に…

  • 父の血 その2

    家族や親戚など、身内に対する父の異常とも言える言動は、時として凄まじかった 年老いた母親の胸ぐらを掴んで、引き倒さんばかりになった時は、手が出たが ほとんどは、激しい言葉と強硬な態度による暴力だった 家族で夕飯のテーブルについて、鍋を囲んでいたある晩 椅子に腰かけた、背中が丸くなり小さくなった祖母には、ポータブルコンロの上に乗った鍋は、高すぎて手が届きにくい 私は「おばあちゃん、取ってあげようか」と声を掛けて、祖母の器に鍋の中身をよそおうとした 途端に横に座った父から 「余計なことをするな!なんでも自分でできるんだから、自分でやらせろっ!」 という罵声が飛んだ 故郷の高知に住む姉(私の伯母)の…

  • 父の血

    こうしてブログに過去のことを書いていると、ふと思う 「ああぁ~、なんか、私もパパと同じことしてるじゃん 」 母が亡くなって、勤めていた左遷先の関西にある会社を退職して、市川の自宅に戻ってしばらくたった頃 父から自伝めいた内容の葉書が、時折届くようになった 偶然その内容を見た、友達は「お父さん、大丈夫?」と心配そうに私に尋ねた その心配は、父の健康とか妻が亡くなって精神的に参っているのでは、というたぐいの心配ではなく、ハガキに書いてある内容の異様さに驚いて 「お父さん、ずいぶん異常な人みたいだけど、大丈夫なの?」 というのが、本音の心配だった 彼女の尋ね方でわかった それは回顧録だが、読んであま…

  • 広島の暮らし

    長崎に居る頃から、私はすでに子供のくせに、冷めた考えを持ち始めていたと思う 「どうせまた3年経てば、引っ越して、転校になる」 だから友達を作っても仕方ない、とまでは考えてなかっただろうけど 友達、という言葉は、私にとって長い事「空虚」なものだった 仲良し・・・なんて、まったくもって何なのか、わからない関係 そして、3年後に、長崎から広島へ引っ越した ほらね、やっぱりでしょ・・・って感じ それにしても、私の父と母は、まだ小学校3年生の 私の心情、というものを 考えたことがあったんだろうか? 家では、嫁と姑の関係はもちろん、母親(祖母)と息子(父)の間でも、いさかいはしょっちゅう その家庭で育つひ…

  • 長崎 城山小学校

    父の転勤で、鶴見から長崎へ家族4人で引っ越した 小学校1年から3年まで、城山小学校に通った でも、学校のことは、先生のことも、教室のことも、同級生のことも ほとんど何も記憶がない 借り上げ社宅は、爆心地に近く、家の近くを大きな川が流れていて、そこに橋が架かっていた 橋から釣りをしていた人もいたような気がする この川は、浦上川だったんだと思う 通った城山小学校も爆心地に近く、相当な被害を受けたはずだ 長崎出身の父の元部下の女性は 「どうしてあそこを社宅に選んだのか」 「爆心地の近くで被害がひどかった場所で、私なら住みたくない」 と後に私に言った どうりで、原爆記念日の8月9日になると、まるで空気…

  • 鶴見

    私が生まれた時、一家4人が住んでいた亀有の借り上げ社宅から、鶴見の新築の社宅団地へ引っ越した 借り上げ社宅の区域が道路になるから、立ち退かないといけなかったんだと思う 多分、東京オリンピックのためだろう 今、思い出したが、亀有の他にも板橋にも社宅があったはずだ 両親たちは、そこにも住んだんだろうか・・・? わからない 後で気が向いたら、父の自伝冊子を見てみよう 私の記憶では、鶴見の団地は、少し小高い場所にあって、前も後ろもひろい野原だった というか空き地だったんだろう ひとりで野原に座ってシロツメクサを摘んで、花の冠を編んだ 男の子たちと一緒になって、団地の玄関の前に置いてある配達ボックスから…

  • 栗色のピアノ

    洋館や教会があちこちにある、異国情緒豊かなな港町の函館で育ったせいだろうか 私立のカトリック女子高へ通ったせいだろうか 海産物卸業をする家に生まれ育った、乳母日傘で、ソフトボールのピッチャーだったべっぴんさんの母は、クラシックが好きだった でも、コンサートに足を運んだことは、なかったと思う 地方に住んでいた時はもちろん、東京に引っ越しても 年末に恒例のウィーンフィルの演奏が、NHKで放映されるのを、台所でおせちの支度をしながらうれしそうに聞いていた 一度くらい、当時できたばかりだったサントリーホールへ連れて行って、コンサート聞かせてあげたい、と思ったけど、実現しなかったはず そんな母の影響なの…

  • きつねはどこ?

    私はどんな子供だったのか 父の長姉である伯母によれば お店にはいって、きつねうどんを注文して、うどんが運ばれて来ると 「きつねはどこ?」といって、箸で探してたそうだ きつねを食べるつもりだったのか・・・な? 家族で寄席にいったらしい 舞台の袖から出てきた林家三平に向かって 「さんぺいちゃーん!」と大声で叫んだそうだ 喜んだ三平ちゃんは、自分の噺が終わって、袖に引き上げる時に 「お嬢ちゃん、バイバーイ」と何とか言ってくれたらしい なかなか度胸があるじゃん お隣の居間にあがりこんで、ちゃぶ台の上に体を伸ばして のっかってたお漬物を食べた という話も聞いた 遠慮のない子供だ もともとは、結構、天真爛…

  • 父のこと

    いつ頃から、父を嫌うようになったのか 最初は、好きだったはずだ 祖母におぶわれながら「パパはいつスイカをかってきてくれるの?」と聞いたらしい 父が買ってきてくれた(んだと思う)白い犬のぬいぐるみが、お気に入りだったらしい 首にピンクのリボン(だったと思う)がついていて、その下の胸の部分が擦り切れて、中の藁が見えていても、まだ持っていた 父の自伝本には「毎週のように肩車して上野動物園に連れて行った」とある 記憶はない 小さい頃、父に「布団蒸し」された ふとんの中に巻き込むように、ぐるぐる巻きにされた 苦しいし、怖いしで、私は泣き叫んだ どういう理由で布団蒸しにされたのか、覚えていない 父が怒って…

  • 母のこと-6

    暮れも押し迫った頃に亡くなった伯父の通夜と葬儀に、父と参列した 葬儀が終わった後、川西で留守を守る母に電話をしたら 電話には出るが、ほとんどしゃべらない 何か尋ねても、答えが帰ってこない これはおかしい また調子が悪くなったに違いない 父とふたり新幹線(だったと思う)で、川西へ取って返した すでに大晦日だったと思う 母の状態はあきらかに悪化していた その母を見て、父はものすごく不機嫌になり また始まった、としか私には思えない、グタグタが嫌で 年越しの人で賑わう近所にある神社へ、避難がてら歩いて行った 歩いていく私の背後から、母が「○○ちゃーん」と呼んだのが聞こえたけど 手を振って、そのまま神社…

  • 母のこと-5

    結婚後、最初に母に精神的な不安定が発症したのは、父の栄転で家族揃って長崎へ引っ越した後だった 「課長婦人なんだから、がんばらなきゃ」と張り切りすぎた結果らしい でも、通院でわりとすぐに収まったようだ 私は小学生の低学年だったから、あまり覚えていないが、父の自伝本にそうあった その後引っ越した、広島と伊丹では発症はなかったらしい 妹が生まれて忙しかったんだろう 私が中3の秋に引っ越した、小金井で再発した これは私も少し覚えている お隣の家にあがりこんで、ペラペラペラペラ、おしゃべりが止まらず お隣の人を困らせたらしい でも、この時も、通院でことなきを得たようだ その後、市川へ引っ越し、寝たきりの…

  • 母のこと-4

    通夜も葬儀も滞りなく、終わった 火葬場で、母の棺が焼却炉に入り、扉が閉じられると 妹が泣きながら何か叫んでそちらに行きそうだったので、後ろから引き留めた その後は、彼女のその時のボーイフレンド、今の旦那さんに任せた 母が亡くなってから、葬儀が終わるまで、私はほとんど泣かなかった 母が病院から家に戻った晩、安置された母を見ながら、思わず 「なんで寝てるの?」 「あんなに眠れないって、言ってたじゃない」 と言い始めたら、泣けてきた 私の後ろに座っていた叔父が泣く声が聞こえた 出棺の時、母の遺影を抱えて、参列してくださった方々の前に立ったら、涙が出た 妹からは「おねえちゃんは、なんで泣かないの」と言…

  • 母のこと-3

    昨日、1月10日は、母の命日である 何回目の命日なのか、数えていないから覚えていない 母は、衝撃的なかたちで、この世を去った 1月10日、私は当時勤めていた東京の会社で、残業をしていた たぶん8時過ぎだったろう、職場の広いフロアは、ほとんどひとけがなかった 私は、九州の支社に転勤になった以前の上司と電話で世間話をしていた (彼も残業をしていた) すると一緒に残業していた、同僚男性が私にメモをよこした メモには「病院から電話です」とかなんとか書いてあった 取り次いでくれたのか、私が病院に掛けなおしたのか、記憶にない 電話の向こうで病院の人が 「お母さんの心臓が止まりました。すぐ来てください」 と…

  • 母のこと-2

    母との思い出で、思い出すたびに胸が締めつけられるようになることがある 広島に住んでいた頃のような気がするから、小学校高学年だ 私は、何かのことで母に手伝ってほしいと頼んだか、何かを尋ねたんだと思う はっきり覚えていない はっきり覚えているのは、母の返事が 「ママがいなかったら、どうするの?」 だったことだ 私は反射的に、カチーンときて 「ママがいるから、きいてるんじゃないっ!?」 と激昂し、同時に 「じゃあ、いいよ!もうきかないっ!(尋ねない)」 と心底拗ねた 実際に母にそう言ったのか、心の中でそう叫んで心のシャッターをぴしゃっと下ろしたのか、覚えていない 母からもらいたかったのは、そんな返事…

  • 母のこと

    母は、とても美しい女性で、ミス函館にも選ばれたらしい スタイルもよかった 子供の私に、いつも上等なかわいらしい洋服を着せてくれた 不思議なことに、当時来ていたワンピースやセーターなどの手触りを、今でもかなりはっきり思い出せる ただ、紺やグレーが上品に見えるとかいって 私の服は、そんな色が多かった ピンクや赤っぽいのは少なく、フリルやリボンがついたものも少なかった 女学校ではソフトボールのピッチャーで国体にも行き、下級生から人気があり 父と出会った職場でも花だったであろう母は、いつも優等生でいたかったのか 父の栄転で、長崎へ引っ越して、課長婦人としてがんばらなきゃと張り切ったあげくに躁うつ病にな…

  • 転校生

    うちは、父親の転勤で引っ越しが多かった ほぼ3年ごとに、引っ越した 生まれたのは、東京は葛飾区、柴又の近くの亀有である 一軒家の社宅住まい その一帯が道路になるので、神奈川県鶴見にある団地の社宅に引っ越した ここで小学校にあがったけど、ほとんど記憶はない その次は、長崎 今はもうなくなった夜行列車のさくらで、一家揃って赴任した 食堂車で朝ごはんに、初めて見たオートミールを頼んで、まずかった 慣れない味に気分が悪くなった 社宅のあった場所は、原爆の爆心地に近くて 8月9日の記念日になると、まだ小学生低学年の私でも、悲しみが空気に漂うのを感じた 仲良しの友達がいたかどうか、覚えていない 次は、広島…

  • 怒った子供だった

    大人になって行った専門学校の心理学の授業で 子供の心理についてがあって、母親と離れ離れになって、やっと再会できた時 子供の反応には3通りある、と ひとつは、「お母さーん!」と呼びながら、母親に駆け寄って抱き着いて喜ぶ ふたつめは・・・うーん、憶えてない・・駆け寄って、泣くんだったかな・・・? みっつめは、何も言わずにそこに立ち尽くす、もしくは背を向けて歩き出す クラスメイトがいっぱいいる授業中なのに、その場で泣きそうになった 私は3番目なのだ みっつめの子供に、すねていじけた幼い自分が重なって、目頭が熱くなって、鼻の奥がツーンとした 母がいつもそばにいてくれないのが、寂しくて、悲しかったはずな…

  • 母がそばにいない

    幼稚園にあがる前の私の記憶に出てくるのは、母よりも祖母だ おんぶされて散歩にいったのも 「しんびょうまてまて」と寝る前に、枕元でお話をしてくれたのも 私が近所の家にあがりこんで、ちゃぶ台に載ってたお漬物を食べたことを笑ったのも 母ではなく、祖母だった 母は近所の電気器具屋かどこかで、働いていたらしい 数年前に、思い立って父に「どうして初めての子供の私をおばあちゃんに任せて、ママは働きに出たの?」と尋ねた 返事は「家に、女手はふたり必要なかったから」 ハイカラな街、函館で、商いをする家に生まれて、乳母日傘で育ち、私立の女学校で人気者だった、美人でスタイルも抜群だった母 高知の片田舎で、貧乏ながら…

  • 最初の記憶

    小さい頃の記憶は、あまりない 一番最初の記憶として思い出すのは 朝、目が覚めて、布団の上で起き上がったら、そこに座っていたのは 母ではなく、同居していたおばあちゃん(父の母親) 思わず「ママは?」と思ったか、言ったか その後、お誕生日のケーキを朝ごはんに食べたような気がする もうひとつは 私は道路かどこかで遊んでいて そこにバスが来た バス停からそのバスに母が乗り込むのが見える 母は私には気づいていない 私は大声で「ママーっ!」と母を呼ぶ でも、母は私の声に気づかないまま、バスに乗り込んでしまった どちらも私が幼稚園にあがる前だと思う そして、このふたつの記憶が、ほんとうにあったことなのか 私…

  • 元旦とその翌日

    元旦は、毎年比較的穏やかだった なんでかはわからない 母以外は、ゆっくり起きて、朝風呂に入って、新しい服を着て(セーターとか) 元旦の膳にのぞむ その後は、家族揃ってバスに乗って地元の神社へ初詣 帰り道、決まって寄るのがケンタッキーフライドチキン 家に持って帰って食べたと思う そして昼寝 翌日は、父の会社の部下をよんで家で宴会 私は、いつも山のような皿洗い 車の免許を取ってからは、酔った人を家まで送る役目も加わった 特に楽しかったとも思わなかったけど とにかくイベントがあっても、何事もなくその日が過ぎることは、よかったんだと思う にほんブログ村

  • 川底のヘドロ

    この毒吐きブログは、実は2020年のもっと早くに始めたかった でも、グズグズしてしまって、晦日になった でも、始めたからよしとしよう 今年の9月1日に、2年弱の間、在宅で寝たきりになっていた父が亡くなった 享年88歳 亡くなる一週間くらい前に、入院して、そこで誕生日を迎え、その後まもなく他界した コロナ対策のせいもあって、誰も死に目には会えなかった この父親が、大変な人間だった 父の母親(私の祖母)も私の母も、私も、この父親のおかげで、さんざんな目にあった 私はこの父が 大嫌い だった 2018年の9月に、ひと月ほど里帰りして、そんな予定ではなかったのに、父の介助をすることになった まだ、ある…

  • もの言わぬは、腹ふくるるわざなりー徒然草

    このブログ、1年以上前に別のブログ名で、別の目的で始めたんですが 初回を書いてから、いっこうに進まず・・・ 最初の目的は、どうやら今の私には必要なかったらしい 私に必要なのは これまでためにためてきた「毒」を吐き出すことだ とわかりました よって、本日、還暦を迎えるにあたり、これまでの60年間、言いたくても言えなかったこと、どうやって吐き出したらいいのか、わからなかったことを 思い立った時に、少しずつ、あるいはドバーッと ここで、吐きまくります!!! 吐き出して、ラクになろう・・・ね

  • お初にお目にかかります

    ハワイで始めたブギーボードにはまって、ハワイへ移住する!はずだったのに、どういう訳か(理由は明らかなんですけど)、アメリカ本土へ上陸してしまいました。 山あり谷ありで、あっと言う間にもうじき20年近くなります。 ま、長い話ははしょって・・・ こちらの暮らしで見つけた素敵なモノ、読んだ本や、次日本に帰国する時に買いたい!と思っているモノなど、「私の大好き」について書こうと思います。 どうぞのぞきに来てくださいね。 もう秋だけど、まだ真っ盛り

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