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新令和日本史編纂所 https://blog.goo.ne.jp/reiwanihonshi

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。<br><br>

布衣草莽
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2019/09/12

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  • プラモデルの断捨離 大砲による戦場の変化

    プラモデルの断捨離老生、男の終い支度として、身の回りの物をほとんど捨てた。その中に趣味で作ったプラモデルが数百点在る。その他、高価なポケールの金属模型やウッディジョーの帆船模型も、一括して業者に綺麗さっぱり全て引き取ってもらった。「高価だから」「思い入れがある」と迷って残すと、死後に家人や子供に負担がかかる。未練を残さないことが大切。プラモデルなどというシロモノは興味のない人間にとってはただのプラスチックの厄介なゴミにすぎない。ただ、比較的印象に残っている作品は画像としてクラウドサーバーにUPし保存してある。これはその中の数点だが、当ブログの「小難しい文章」の合間の一服としてお許しいただきたい。武器はどんな綺麗ごとをいっても紛れもない「殺しの道具」でしかない。しかし小は拳銃やナイフから戦艦大和まで、その機能と美...プラモデルの断捨離大砲による戦場の変化

  • 新撰組異聞 間違いだらけの新選組「原田左之助」

    新撰組異聞間違いだらけの新選組「原田左之助」先日12/20(月)11:30配信ヤフーニュースに、生き延びて中国に渡り馬賊の頭目になった男“原田左之助”が載っていた。(文中黒字はヤフーの記事。青字が調べ上げた記事)剣術に加え槍術を得意としていたと伝わる原田左之助。事実無根だが、坂本龍馬暗殺の犯人として疑われたこともあった。甲州勝沼の戦いのあと、永倉新八ともに新選組を離脱する。新選組結成時からの生え抜きで、常に第一線で活躍した原田左之助(はらださのすけ)。剣客特有の暗さや政治的な動きとは無縁の直情径行な男の生涯に迫る。新選組には、奇妙な体験や人生を歩いた隊士が数人いる。原田左之助もそうした1人であろう。原田は、伊予松山藩の江戸屋敷で足軽の長男として生まれた。天保11年(1840)5月のことである。子どもの頃から頭が...新撰組異聞間違いだらけの新選組「原田左之助」

  • 岸田総理を「姓の法則」から考察する 岸田総理は鵺(ヌエ)になれるのか

    岸田総理を「姓の法則」から考察する岸田総理は鵺(ヌエ)になれるのか第百代と区切りのいい内閣総理大臣に「岸田文雄」氏が選出された。奇しくも同じ時期、野党立憲民主党党首には「泉健太」氏が選出された。この姓のイキヒチニヒミが付く人は、人間的に比較的温厚である。この姓を例によって日本史から考察してみましょう。後段で岸田総理の政治姿勢について記してみたい。この第二横列(アイウエオのイ姓列)のイキシチニを編戸の民(稲束を渡され田夷となって穴居の入り口に目印に筵をはっていた民)とする根本資料は、『延喜式』の授苗腸表及び、太田南畝編『杏花園随筆』及び『寛政家伝指出史料』を参考として、もっとも早く農耕部族となった「原住農耕系」とみなすものです。原住農耕系(仁徳王朝系)─イキシチニヒミ姓列関東では「イカン」「イケマセン」というのを...岸田総理を「姓の法則」から考察する岸田総理は鵺(ヌエ)になれるのか

  • 赤穂義士討ち入り 忠臣蔵

    赤穂義士討ち入り忠臣蔵【前書き】毎年この十二月の時期になると決まってテレビで放映される「赤穂浪士討ち入り」物語がある。元禄十二年十二月十四日、浅野牢人が吉良邸に討ち入って吉良上野介の首を取ったという史実は正しい。しかし、その原因や内容は相も変わらず全く、講談の域を出ていない。そろそろ真実の赤穂事件が出てもよさそうだが、期待できないので、ここにその真相を暴露する。当ブログの十月二十八日の記事「憐れなり赤穂浪士、赤穂義人纂書」と併読して貰えば感幸である。江戸という町は、京の真似をして各町毎に町木戸を作り、番屋を置き番人を置いて、厳しく町人の通行を監視管理し、日没から夜明けまでは鼠しか通られぬようにしていたのである。京は都として碁盤の目のように区切って町並みを作った訳だが、この碁盤という構造は何も住民の便利のために作...赤穂義士討ち入り忠臣蔵

  • 古代史考察 帰れ縄文へ

    古代史考察銅文化石斧や石槍だけが武器だった弥生時代に、何人種が日本列島へ銅器をもちこんできたのか、各地で銅鐸が発掘されるたび問題視される。しかし考古学者も歴史学者も正解は出せないでいる。どうやら従来の通史は、みな誤りなのではないか。土地ブームで宅地開発が進み、宅地造成の際発掘されて、各地で縄文期や弥生時代の物が発見される。土器類はさすが破片として出てくるが、銅鐸だけは金属性の物なので、そのままの型で埋もれていて、考古学上から改めて従来の日本通史が、誤りだらけであったとしきりに糾弾されています。これまでは「弥生時代の青銅器にして、鐘型で5㎝からlmの巨大な物まで中部地方から北九州迄の地域で発掘される。単なる楽器というよりは呪詛的な司祭宝器」というのが歴史家達の説です。そして紀元前15世紀の中国の殷は、青銅文化をも...古代史考察帰れ縄文へ

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