唯物論で幸福を追求し始めた経緯

唯物論で幸福を追求し始めた経緯

インドに行くと人生観が変わると言われる。 日本とは全く違う価値観で廻っているインド社会に足を踏み入れると、それまで自分をがんじがらめにしてきた常識とか、正しい生き方みたいなのが、局所的に信仰されている新興宗教の1つに過ぎないと気づく、というわけだ。 その他にもインドを訪れた多くのバックパッカーが口にする感想に、貧しくても明るく暮らしているインドの子供たちから勇気をもらった、というのがある。これはどうにも上から目線であり、高慢な視点と言わざるを得ないけど、正直僕もインドでこのような印象を受けたことがある。 ガンジス川の沐浴で有名なバラナシでの出来事。 ヒンドゥー教の聖地バラナシでガンジス川といえば、マニカルニカーガートであろう。ガートとは河岸の土手のことで、コンクリートの段々がガンジス川の茶色い水面に向かってなだらかに下っていく。ヒンドゥー教の聖地であるバラナシのガンジス川西岸は、無数のガートで埋め尽くされており、その1つがマニカルニカーガートなのである。 ガートは基本的には沐浴する場所なんだけど、洗濯している人が多いガートとか、子供たちの遊び場になっているガートとか、それほど厳密ではないけどそれぞれに「機能」を持っている。 そしてマニカルニカーガートの機能は、火葬場なのだ。 多くのガートがコンクリートで固めた段々なのに対して、マニカルニカーガートではむき出しの赤土がガンジス川の水面までなだらかに続いている。ここにはインドの国中から亡くなったばかりの遺体が次々と運び込まれ、赤土の上に山と積んだ薪の上で流れ作業的に荼毘に付される。 そして焼きあがった骨は、薪の灰もろとも無造作にガンジス川に掃き出され、そのままゆっくりと流されて自然に帰っていく。 ヒンドゥー教では、こうすることで輪廻転生から脱し、生きる苦しみから解放されると信じられている。生きること自体が苦しみであるという概念が多くの国民に共有されているとは、やはやインドはなんとも哲学的な国だ。 抗うつ薬と精神安定剤を服用しながら世界を旅していた当時の僕は、他人事ではない現生の苦しみから一足先に解放されていく遺体と、それを見守る親族たちの様子を、それこそ朝から晩まで見守っていた。 客観的に不幸な、世界一幸福な少年 そんなマニカルニカーガートで、僕は世界でもっとも幸福な少年を見た。 その朝、僕がガンジス川に続く迷路みたいな町の入り口に来ると、純白の棺桶をルーフに括り付け