勝手な思い込みを溜め込んだ自我の重みをリセットする

勝手な思い込みを溜め込んだ自我の重みをリセットする

「無我」という言葉の意味を、どうやら今まで僕は誤解していたようだ。 無我夢中、無我の境地などと表現するように、いわば過集中みたいに魂を何かに預けてしまったかのような、深い放心状態を意味する言葉だと思っていた。 ところがその実、全然違った。元々は仏教用語である「無我」という境地についてペラ読みした仏教書からマルっと理解したところ、修行してまで会得を目指すに値する、確かに有益な概念だったのだ。 読んで字の如く、無我とは「そもそも自分なんて存在しない」という一見すると後ろ向きな意味を持つ。 今の自分が「僕はこういう性格です」と信じている、その人格そのものが「決めつけ」「思い込み」であり、人生のどこかの時点で「こういう自分で生きよう」と勝手に選択したのだという。だから、その思い込みを何らかの方法で解いたなら、性格や人格なんて脆くも消え去るし、残された頭の中には何の固定観念も残らない。 つまり、「自分」の中に「自分」でこしらえた「自分」という思い込みを、修行によって消去して、頭の中に勝手な決めつけが何も残ってない状態にすること。これこそが仏教でいう「無我の境地」だったのである。 「自分」という勝手な思い込みが自由を奪う これは「嫌われる勇気」で紹介されるアドラー心理学の教えにも通じるところがあり、アルフレッド・アドラーは自分の人格を選択するタイミングを「10歳前後」だと論じている。 およそ完璧や満足からはほど遠い人格だったとしても、慣れ親しんだ自分の行動パターンに、困りごと込みで順応していこう。成長過程のある時点で、誰しもがこうやって「自我」を選択する。いわば新奇性探求よりも順応した方がラクだと気づくタイミングだろうと、僕は理解した。 ならば、なにゆえ修行してまで過去に選択した「自我」をわざわざ消去し、「無我」を目指すのか。 自我の重みに耐えられなくなるからだ。 10歳前後で熟慮せずに選択した問題アリな自我について、一貫性を保つのは大変だ。なにしろ新しい行動を「しない」言い訳を常に考えなければいけない。これは俺のキャラじゃない、こんなことするの恥ずかしい、めんどくさい。自分のキャラに合わない行動を恥ずかしく不快に感じる気持ちは強力で、話し方や仕事のやり方に至るまで、一挙手一投足を束縛してくる。 幸運にも周囲と折り合いをつけられるマトモな人格を選択できたなら、無我なんて目指す必要はない。でも僕は「そろそろ新しい自分を選び直さ