第7章 3 その日の目的はあくまで落葉きのこだけを採ることだったので毒きのこを間違えて採ってしまうという心配はほとんどなかった。というのは落葉きのこの特徴をみな熟知していたし、間違いやすい似たような色、形のきのこはまずないので気をつけていれば問題はなかった。もちろん、調理の前には再度確認するし、怪しいと思われるきのこは食べずに捨てる。そこまで徹底していればきのこ中毒になるということ…
第7章 2 木々が生い茂る森の中は薄暗く、まるで日暮れ時のようだった。ざあざあと雨音は激しく聞こえてくるのだが、雨水はほとんど落ちてこない。木々の枝葉が雨を防いでくれているのだ。合羽のフードを外してもさほど濡れることはなかった。兄とわたしは野球帽をかぶりなおした。雨音は森の木の屋根の上で、いっそう激しくなるばかりだった。 わたしたちはゆっくりと進んだ。時々、離れるなよと父が声を…
第7章 1 9月10日は朝から土砂降りだった。日曜日も農作業を休むことはなかったのだが、この雨では別だ。出稼ぎの家族らは朝寝を決め込んでいた。 天井3か所からの雨漏りのしずくが落ちてきて、受け止める半分に切った一斗缶とバケツがぴちゃん、ぺちゃんと音を立てていた。音の間隔は不思議な一定のリズムを刻んでいて、心地良い眠りへと誘う子守歌となっていた。 太田さんたちは法事があるとかで朝早…
第6章 3 朝からの微熱が今になって体に重くのしかかってきた。足、腰、腕が鉛のように重く感じる。べっとりとした汗が流れ落ちてくる。心臓が飛び出そうだった。 ああ、おとなしく寝てないからこんなことになるんだ。ひとりで遊ぼうなどと考えるから罰があたったんだ。これはきっと豚たちの呪いなんだ。 とうとうわたしは咳き込んでその場にしゃがみ込んでしまった。吐き気がしてきた。 50メート…
第6章 2 ああそうか。重吉爺さんがいつもわたしを養豚場に近づけようとしない理由はこれだったのだ。毎日世話をして可愛がって育てた豚は、必ず殺される運命なのだ。食べるために、殺すために育ているのだから当たり前のことだ。わかりきっていることを重吉爺さんは、そんな悲しい現実を子供のわたしの目に触れさせたくはなかったのだ。きっとそういうことだ。なのにいつもわたしたちは彼をくそ爺い呼ばわりして蔑…
第6章 1 9月5日は曇り空だった。 わたしは一人宿舎に取り残されていた。今朝目が覚めると頭痛がして咳が出始めたので母にいわれて体温を測ったところ、37度8分の熱があった。 そのため、風邪薬を飲んで様子を見るということになったのだ。母は一日寝てるように言い残して、昼食のおにぎり二個を枕元において農作業へと出かけた。食欲はなかった。薬が効いてきたせいか、眠くはないのだが頭がぼおっ…
第5章 6 翌9月1日の朝は薄曇りだった。 わたしはいつになく真剣に取り組んだ昨日の農作業が体にこたえたようで、鶏のけたたましい鳴き声が聞こえてもなかなか起き上がることができずにいた。板間に敷いた花茣蓙(ござ)に薄い煎餅布団の寝床はいつも背中が痛くなり、お世辞にも快適とはいえなかったのだが、日々野山を駆けまわる暮らしではすぐに深い眠りへと導いてくれる憩いの場所だった。今朝は疲労と筋肉痛…
第5章 5 気まずい雰囲気の中でいつもよりは品数が多い、三家族の食事が始まった。この貧しい暮らしに今日から新しい仲間が加わったのだ。宴というにはお粗末ではあったが、普段は食卓にないビールとジュースが目についた。子供たちはオレンジジュースを、姉と母、おばさんたちはビールを、父と勇おじさんはやはり焼酎を乾杯の後で飲んだ。みんなだまって食べ物を口に運んだ。気まずい空気はなかなかもとには戻ら…
第5章 4 「俺だって若え時分はさ。羽振りも良がったし、おなごだって何人も泣がしたもんだで」 明らかに台所に立つおばさん達に聞こえるように勇おじさんが吐き捨てるようにいった。 「そりゃあ誰だって永い人生一度ぐらいはそういうごともあるべさ」 父は台所に立つ富代おばさんの後ろ姿を横目に見ていった。 「昔はよ。これでもおなごにはうるさがったもんよ」勇おじさんはだんだんと調子に乗ってき…
第5章 3 その日の夕方には竹下一家がやってきていた。宿舎に戻ると竹下家族はすでに宿舎の一角を生活スペースとして確保していた。朝のうちにみんなで片づけて空けておいた場所だった。カーテンの仕切りがひとつ増えていて、隅っこにはさほど多くはない一家の荷物が積まれていた。富代おばさんは幼い誠を背負いながら、荷ほどきをしていた。 すぐに子供らは集まってトランプ遊びを始めた。 「こんなどごさ良…
第5章 2 虫取り網もカゴもなかったが、そんなものはなくとも蜻蛉は簡単に手掴みで捕まえることができた。草の上や地面にとまった蜻蛉へゆっくりと近づき、蜻蛉の眼の前で人差し指をくるくるくるくる回して油断を誘う。その間にもう片方の手で後ろから素早く羽根をつかむのだ。 あっという間に昼食のおにぎりを入れていた透明なビニール袋の中に数十匹の蜻蛉が閉じ込められた。そこから一匹ずつ取り出し、わたした…
第5章 1 8月31日。早朝の空は薄い灰色の雲が一面に広がっていた。雨が降る気配はなさそうだった。午前5時、鶏の鳴き声が聞こえてくる前には全員が起きていた。けたたましく鳴き出すのはだいたい午前6時頃だったから、いつもより1時間ほど早くに起き出したのだ。父と母、太田さんも慌ただしく朝の支度をはじめていた。納豆と漬物とみそ汁だけの質素な朝食を掻き込むと6時には宿舎を出た。 この日の朝は全員…
第4章 4 わたしは小さくあッと声を上げていた。煎餅のかけらが口元からこぼれ落ちた。ちょうど画面は人気アニメのクラマックスシーンで、ミツバチの主人公が敵のスズメバチに襲われてあわや危機一発というシーンだったのだ。画面は何も映らないチャンネルを挟みながらニュース、漫才、歌謡ショーと切り替わっていきプロ野球中継のところで止まった。康弘は食卓テーブルの椅子をテレビの前に移動させてどすん…
第4章 3 夕食のあと、姉とわたしは時々堀倉の屋敷をたずねてテレビを観せてもらっていた。カラー放送が本格化したばかりの頃でまだ珍しい時代だったのだが掘倉家の居間には大きなカラーテレビがあった。 堀倉の親方はりっぱな口ひげを蓄えていて普段は気難しい経営者であったが、子供に対してはいつも優しい気配りを見せるひとだった。 わたしたちが玄関で声をかけると、いつも「おお、おいでなさった。…
第4章 2 澱粉工場の中の機械が整然と力強く、ごとごとと動く様を見るのは子供心にも興味をそそられた。暇さえあればわたしは一人で工場の前に立ち、いつまでも眺めていた。 時々、工場のベルトコンベアに近付きすぎると、作業をしている使用人に叱られた。危ないからあっちへ行けと追い払われるのだ。 そんな時はさらに奥にある養豚場へと移動して、今度は豚の様子を眺めことが多かった。 養豚場では…
第4章 1 便所から草むらを隔てた5メートルほど先にコンクリートで囲まれた十メートル四方ほどのプールがあった。水泳用ではない。澱粉を沈殿させるための大きな水槽だった。深さは1メートルもなかったと思う。 澱粉工場には最新の機械が導入されていたものの、工場自体はあまり立派なものではなかった。錆びたトタンの壁で仕切られていて、ところどころが剥き出しのぼろい建物だった。 ヤマから運ばれて来た…
第3章 4 その日の夜だった。宿舎の者は皆寝静まっていた頃だ。食べ過ぎたためかわたしは急に腹が痛くなり、強烈な便意を催した。しばらくは我慢していたのだが、次第に脂汗がにじみ出てきた。我慢の限界が近づいて来ていた。これは困ったことになった。ここでは夜なかに用を足すということが非常に難しいのだ。便所は外にある。さほど離れてはいないが照明器具もない。月明かりだけが頼りなのだった。もう小学校…
第3章 3 食事が始まると宿舎の中はしんと静まりかえった。テレビもラジオもないのだから箸がぶつかる音と食器の音、あとは口の中で食べ物を租借する音だけだ。室内が静かになると、外の虫の声がやかましいほどに大きくなった。親たちは食べながらしゃべるのはご先祖様の罰があたるとかいう変な道徳感を植え付けられていたので食事の最中は押し黙るのだった。おそらく親たちも小さい頃、祖父母や曾祖父に…
第3章 2 その年、本山家では一番上級生の姉だけを『芋掘り学級』に転入させることになった。兄とわたしは結局手続きをせず、出稼ぎの間は学校をまるまる休むこととにした。それは親の都合のせいというよりも、わたしたちがともに『芋掘り学級』を嫌って行きたがらなかったことが大きかった。 先に学校から帰ってきていた姉は、たいてい一人宿舎で留守番、洗い物などの手伝いをしながら家族の帰りを待っているのだ…
第2章 4 帰りの山の中の道を、家族は並んで歩いて帰った。芋畑のある『ヤマ』から宿舎まではだいたい二キロほどの道のりだった。帰りはずっとくだりの道だったから疲れきっていてもその足どりは軽やかだった。 わたしと兄は夕焼け小焼けの歌を歌いながら帰りの道をはや足で歩いた。 親方は運転するトラクターがゆっくりと、みんなを先導するように前を進んでいた。トラクターがやっと一台通れるだけの狭い道だった…
5 一面の馬鈴薯畑が広がる羊蹄山のふもとに正午を伝えるサイレンの音が響き渡る。それは朝早くから働くひとたちにとってようやく訪れたお昼休憩の知らせであり、誰の胸にもひと時の安らぎを与えてくれる心地よい音色でもあった。 芋畑ではそれぞれの働き手が、午前の仕事を切り上げる態勢に入った。父と母が籠に山盛りで入れた芋を、朝から積み上げてきた芋の山へと最後のとどめのごとくに開け放つ。芋山はわたし…
3 やがてがらりと教室の戸が開いて担任の斎藤先生が入ってきた。 母の姿をクラスの者に気付かれずに済んだことでわたしはほっとした。 斎藤先生はまだ二十代の若い新米教師だった。紺色の背広の上下に白シャツ、ほっそりとした体つきに青白い細面。どことなく頼りない感じがしたが、その一生懸命さは幼いわたしにも充分に感じ取れた。 多くの生徒は先生の登場に気づいて席に戻ったのだが、何人かは騒ぐことを…
<br />番外編<br /><br />夕日の少年 第1回
兄の手のひらに収まった蛙は明らかにおびえていた。激しく手足を振りまわして逃亡の活路を見出そうとするのだが、それは虚しい行為でしかない。腹を力いっぱい握りしめると、蛙はこの世の終わりを予感したようにぐわっと大きな声をひとつあげた。大きく見開かれた眼がうつろにしぼんでゆく。 兄は容赦なく拾った細い木枝を蛙の肛門目がけて突き刺す。蛙はぴくりと体を痙攣させて断末魔の悲鳴をあげた。兄は悪魔の顔を見せ…
第8章 かなしき口笛 (最終回 拡大版) 3 死闘の彼方 その8 「やめろ。いい加減にしねえか」銃口は花菱親分に向けられた。花菱組の面々は当然だったが、神龍会の構成員達も事態を注視していたしいつでも飛び出す覚悟を皆決めていた。教龍会の面々もまた同じだった。奥村の動きひとつで一触即…
第8章 かなしき口笛 3 死闘の彼方 その7 少々脱線が過ぎたようだ。元の路線に戻そう。 それからの両軍の戦いはこう着状態を続けることとなった。レアドンの投げる球の勢いは衰えることなく誰も打てずに回が進んだ。我がスーパーピエールズもレアドンとテリーを敬遠する作戦に出るともう点を取られることはなくなった。星野の投球は冴えわたり、次々と三振凡退の山を築いていった。試合は極道者も黙り込む…
第8章 かなしき口笛 3 死闘の彼方 その6 相手のやる気をそぐための作戦のようだが、いまいち幼稚過ぎる。いったい何がしたいんだよ。俺は自軍の連中が何を考えているのか、疑わざるを得なかった。ようするに目立ちたいだけだったのではないのだろうか。それよりも気になるのはスタンドに陣…
第8章 かなしき口笛 3 死闘の彼方 その5 バッターボックスで繰り広げられるわいせつ行為はだんだんとエキサイトしていった。女の目はすでに快楽の海に溺れた魚のようだった。どうにもこうにも目のやり場に困った。俺はいったいどうすればいいんだ。二人の行為が終わるまでネクストバッターズサークルでただつっ立ってろというのか。股間の愚息とともに。…
第8章 かなしき口笛 3 死闘の彼方 その3 両軍の挨拶が終わり試合開始のサイレンが鳴った。 季節外れの陽気の中、ぎらぎらと太陽がグラウンドを焦がしていた。しかしそれ以上に、観客席のボルテージは最高潮に達していた。ガラの悪い連中がほとんどを占めているため、その応援は過激な罵倒合…
第8章 かなしき口笛 3 死闘の彼方 その2 球場内は不穏な空気がすでに立ち上っているかのようだった。内野外野席にはびっしりとファンならぬ極道関係者がひしめきあっていた。当然神龍会、教龍会の身内が多く席を埋めていたのだが、彼らの組織とは何の関係もゆかりもない、チンケな半グレの連中も多く集まっていた。いわゆる暴走族くずれの若い奴らだ。 近頃彼らは、かつての『暴走族』や『ゾク』などといっ…
かなしき口笛 3 死闘の彼方 その1 さあ、極道のための極道による、極道野球のし烈な闘いの幕が切って落とされた!!その場所はO市営野球場。高校野球が開催されるそれなりの設備を備えた球場だ。よくも集まったものだといえる、約5000人ほどの…
第8章 かなしき口笛 2 夏の終わりに その12 「いいか、たった今からお前たちの揉め事は俺が全部預かる。今さらこんなチンケな街でドンパチでもあるまい。喧嘩は今後、一切禁止だ。野球で決着をつけろ!!」シンちゃんの言葉に多くの者はが反発した。残った教龍会の者たちも当然不満…
第8章 かなしき口笛 2 夏の終わりに その11 「いいか、たった今からお前たちの揉め事は俺が全部預かる。今さらこんなチンケな街でドンパチでもあるまい。喧嘩は今後、一切禁止だ」「ちょ、待ってくださいよ。俺達は何も揉め事を起こしに来たんじゃねえ。今度計画している港湾開発の…
第8章 かなしき口笛 2 夏の終わりに その10 朝焼けの中、おびただしい数のクルマが狭い港湾へと向かう道を進んだ。 瞬く間にO市の港、中央埠頭には相容れない者たちで溢れかえった。その数は双方合わせて約600人。とてつもない数だ。 こんな漫画を昔、俺は少年ジャンプで読んで育ったんだ。そう、あれは『男一匹ガキ大将』という漫画だった。あの漫画のおかげで俺は人の道を外れずに生きてこれたのではないかと…
第8章 かなしき口笛 2 夏の終わりに その9 朝焼けの中、O市中央埠頭にはすでに神龍会の構成員たちが整列していた。俺達は埠頭を遠巻きに見渡せる高台に陣を取り、身を隠すようにして彼らの動きを見守った。続々と味方の兵隊達も集結していた。構成員たちは皆、黒のスーツに身を固めていた。集団の前に海を背にした男が立っている。神龍会のナ…
第8章 かなしき口笛 2 夏の終わりに その8 宴は夜通し続いた。場所は運河通りに面した古い倉庫を改造した大きなホールだった。300人ほどがホールを埋め尽くしていた。さすがに一般社会に背を向けたような奴らの集まりだった。その酒の飲み方は尋常ではなかった。樽酒も開けたそばからあっという間に飲み尽した。飢えた野獣の集まりだった。 呼ばれた20名ほどの若いコンパニオンの女性は警戒を強めた。隙あらば…
第8章 かなしき口笛 2 夏の終わりに その7 「俺たちの出番だなッ」 現れたのは出院親分だった。昔懐かしい暴走族風の特攻服といった装いだ。旭日の鉢巻を額に巻き、気合いの入った服装で現れた。「任せとけッ」 すると、その身体を押しのけるように割って入った男がいた。黒井親分だ。ごわごわでごつい感じのチョッキにジャンパーをはおり、鉄火面の様な仮面を被っている。おそらくは銃弾に備えているようだった…
第8章 かなしき口笛 2 夏の終わりに その6 「パラダイスグループにはすでに情報が届いている頃ね」花菜は俺の眼を鋭く見つめた。「ああ、だろうね。事務所には報告書を上げてある。伊藤とミエさんの関係については今日知ったばかりだからそのことは伝えていない。伊藤がミエ…
第8章 かなしき口笛 2 夏の終わりに その5 跡目の譲り合い争いだと。馬鹿もやすみやすみ言え! 俺は憤慨した。やり場のない怒りを覚えた。そんな馬鹿げた話があるのものか。夢でも見ているのだろうか。しかも本物の銃をわざわざ殺傷能力を限りなく落してわざわざオモチャに改造するだなんて。馬鹿にするのもいい加減にしろ。極道っていうのは仁義なき戦いに明け暮れているのが普通じゃないのか? なんだか馬鹿…
第8章 かなしき口笛 (2) 夏の終わりに その4 乾いた銃声がこだました。伊藤の身体が崩れ落ちた。 花菜の右手には火を噴いた拳銃があった。 「おい。何をする」言わずにはおれなかった。 伊藤は俺とナカムラさんを痛めつけた憎き相手ではあるが、だからといっていきなり殺すことはあるまい。少なくとも玉造ミエが死んだ真相に、もっと迫るべきだ。それがいくら聞きたくもない理由だとしてもだ。この…
第8章 かなしき口笛 (2) 夏の終わりに その2 「俺はミエさんが……ミエさんのことがたまらく好きになったんだ」 伊藤が口にした言葉は理解するまでに少し時間がかかったが、悪ふざけの言葉ではなかった。 「あの婆あを? あんた正気か。相当歳が離れてるだろう。まして水戸のおばばに」思わず俺は言った。 「何とでも言え。俺はあの人の美しさに触れて心を奪われたんだ」 「え?」 俺は伊藤が隠し…
第8章 かなしき口笛 (2) 夏の終わり その1 花菜は俺に自分の決心を伝えた。どこまでが本気で本当なのかもわからない。 それをかなえてやれる程の器量が俺にあるのだろうか。俺など岡林探偵事務所というちっぽけな事務所のしろうと探偵にすぎない。まして使われている身だ。相棒のナカムラさんだってそうは付き合っていられないだろう。無理に決まっている。そう思っていた。 だが意外なことに、…
最終回 僕はクルマから降りた。手には新聞紙を持っていた。 アパートの下に来ると、新聞紙を広げて一枚ずつ剥がした。NTT株が上場して百六十万円の初値がついたとか、自分には全く関係のない記事が載っていた。くしゃくしゃに丸めた。くしゃくしゃの紙団子を五、六個作った。ライターを取り出して紙団子のひとつに火をつけた。火はすぐに全体を包み込み、勢いをましていった。 メラメラと燃えあがる炎を見ていると、だ…
奈々子と歩いた日<br /><br />第15回<br />
一週間が過ぎた。 少しずつ奈々子と啓太の荷物が減っていることには気付いていた。衣服や化粧品の類は相当数がなくなっている。僕がいない昼間、少しづつ持ち出しているようだ。 これが意味するところはつまり、彼女が住処(すみか)を変えつつあるということだ。 一度、託児所に行ってみたが啓太はいなかった。保育士の話ではここしばらく利用されていないとのことだった。 急に不安になった。別れが現実のものになる、望…
二月になっていた。厳しい寒さと大雪とが交互にやってきて、僕のこころとからだを凍えさせた。 奈々子は、相変わらず帰ってきたりこなかったりを繰り返していた。何かと理由をつけては身入りがないといいわけをして生活費を入れようとはしなかった。奈々子の父親はあれきり姿を見せなかった。もちろん連絡もない。 もう、潮時だろうか。考えが浮かんでは沈んでゆく。体力も愛情も忍耐力も精神力も、ぼろぼろにちぎれて風に…
奈々子と歩いた日<br /><br />第13回<br />
事件の後、二、三日が経った頃だった。 仕事を終えて帰る途中、僕は二人の警官に職務質問をされた。 べつだん悪いことをしているという意識は全くなかったから何故自分が、という気持ちしかなかった。名前、年齢、住所、職業、家族、ここ数日間の行動についてこと細かく訊かれた。抱いていた啓太のことも不審感を顕わに、本当にあなたの子なのかといわれた。最近、近所でボヤ騒ぎがあって放火の疑いがあるらしかった。疑いは晴…
正月の三日から奈々子は夜の勤めに出た。 いつまでもキャバクラにいてほしくはなかったから昼間の仕事を探すように勧めると、決まって不機嫌な顔をした。 働く場所がない、コネも学歴もない、経験・資格もない、ないないづくしだから無理に決まってる、どこも採用してくれる訳ない、などと投げやりな返事しか返ってこなかった。やってみなければわからないし、熱意や一生懸命さをアピールすれば結構どこだって採用してくれるさ…
奈々子と歩いた日<br /><br />第11回<br />
元旦に奈々子の実家へ顔を出した。 そのまま僕は奈々子と啓太を残し、正月二日にはひとりで故郷へ向かった。一緒に連れていかなかったのは奈々子が遠慮したことと、いきなり子連れを会わせて驚かれないよう、まずは前ふりをと思ったからだ。 実家に帰るのは決まってお盆と正月だけだった。 雪に埋もれたふるさとの町は閑散としていた。年ごとに過疎化が進んでいるせいか、商店街を歩く人も極端に少なく感じる。いくら正月だか…
翌朝、手早く仕事に出る支度をしていると、部屋の隅で寝ていた香苗がむくりと起き上った。 「おはよ」 「あ、おはよう。今日は晃一君と仲直り、ちゃんとしなよ」声をかけた。 「うん、そうする」 香苗は眠そうな目をこすりながら欠伸をした。 つられて僕も大きな欠伸が出た。 「あんまり寝てないでしょ」 「え、いや。ちゃんと寝たよ」 「うそ、夜中にやってたでしょ。奈々子と」 上目使いでいうのだった。す…
しばらく経った夜、奈々子の姉、香苗がやって来た。ひとりだった。会うのは三回目だったが、今夜は奈々子は仕事だ。啓太を相手に遊んでいるところを不意に現れたのだ。 「いらっしゃい。どうしました。ひとりなの」 「えへへ。晃ちゃんとまたちょっと、やっちゃって」 晃ちゃんというのは結婚を約束して同棲している彼氏だ。晃一君という僕より二つ下で、市場で働いている。彼は朝が早いから夜も早くに就寝する。だからこの…
札幌の街はすっかり冬景色になっていた。 家族のようなひとたちと共に暮らす初めての冬だ。ただ、なにひとつ準備ができていない気がして、それは物というよりも心の準備かもしれなかったけれど、さまざまな不安を残したままに迎える心細さが、いつまでも僕の胸にわだかまっていた。 そんなある夜、奈々子は午前一時過ぎに帰ってきた。 僕と啓太は奥の間で眠り込んでいたのだが、いつもと違う様子にぼんやりと目が覚めた。…
安静にしているはずの奈々子は二日も過ぎると家を空けるようになった。啓太はというと、託児所に預けたきりだ。だいたい帰ってくるのは十二時を回った頃だ。僕は仕事帰りに必ず託児所を覗いて啓太の所在を確かめた。 どこで何をしているのかと問い質すと、友達のところへ遊びに行っていたという。大きな絆創膏を鼻に張り付けた顔で何を考えているのか、僕は不思議でたまらなかった。彼女も若いし、普段はなかなか暇もないし、た…
珍しく中島さんに同行することになった。ニセコ町に住む親戚に新車を販売したため、運んで納める手伝いだ。新車と中島さんの自家用車と二台に分乗し、帰りは一台で帰ってくるという手筈だ。 通り道である中山峠の山に囲まれたワインディングロードは、日陰になった路面が凍っていて、慎重な運転が必要だった。山々は雪に覆われ、すでに真っ白だった。 粉じんによる健康被害や景観を損なう問題、そして膨大な毎年の道路の…
珍しく中島さんに同行することになった。ニセコ町に住む親戚に新車を販売したため、運んで納める手伝いだ。新車と中島さんの自家用車と二台に分乗し、帰りは一台で帰ってくるという手筈だ。 通り道である中山峠の山に囲まれたワインディングロードは、日陰になった路面が凍っていて、慎重な運転が必要だった。山々は雪に覆われ、すでに真っ白だった。 粉じんによる健康被害や景観を損なう問題、そして膨大な毎年の道路の…
十二月になっていた。休日に部屋で、啓太とふたりで過ごしていると来訪者があった。カレンさんだった。 「奈々子はいるか」 すごい剣幕でやって来た。 「どうしました」 「いるなら出せ」 「いませんけど」 奈々子は美容室に行くといって出たあとだった。とにかく部屋に上がってもらうことにした。カレンさんはとても興奮していた。 「あの野郎、アタシの客を盗みやがった」 「どういうことですか」 「アタシのな…
4 間もなく奈々子の実家へ行く機会があった。 札幌市北区の古いアパートの一室で、奈々子の両親は二人で暮らしていた。 啓太を連れて三人で遊びに行くと、大いに喜んで迎えてくれた。話を聞きつけて、ふたつ上の姉、香苗も遊びに来ていた。双子かと思うような良く似た姉妹だった。 奈々子の父親は配管工をしていて、五十手前の小柄だが屈強な体格に朗らかな笑顔、気の良い親父だった。母親は、これまた奈々…
三 十一月の末にいよいよ引っ越しの日がやってきた。 キャバクラの寮には三人のホステスが間借りしていた。部屋ふたつとリビングの2LDKだ。奈々子はリビングの半分を占領して生活していた。 休日のその日、僕は寮の部屋で奈々子の荷物を運ぶために荷造りをした。奈々子の荷物はけっこうな量だった。 寮に古くから住む先輩ホステスのカレンさんは二十九歳。長身できっぷのいい姉ご肌だったが、男癖が悪いうえ…
2 仕事は順調だった。浮かれた気分が好調に拍車をかけた。現金なものだ。この言い方は現金を見るとひとは急に態度を変えることからいうようになったらしい。現金が減ることに対していうのは間違っているかもしれない。ああ、もうそんなことはどうだっていい。つまり、『ロンシャン』に通って奈々子に会うことで、僕のこころは天にものぼった状態であり、それが肉体的精神的好循環となり、いつもより好成績を挙げられた…
逃亡馬券生活 番外編<br /><br />奈々子と歩いた日
「丙午(ひのえうま)の女は男を食い殺すんだよ」 今から思うと三〇年も前のことだ。奈々子はいった。 食い殺されてもよかったんだ、きっと。覚悟を決めてともに暮らしたはずだ。 世間一般の見方でいうと、若き日の浅はかさ、未熟さ、軽薄さによる、取るにたらない苦い思い出というものだろう。これで良かったんだと誰もがいうかもしれない。 だけど、奈々子と啓太を愛したこと、全てを投げ捨ててでも自分が守るのだと誓った…
第8章 かなしき口笛 (1) 花菜の決心 その16 ほとばしる命の源と共に俺は果てた。 生命が命をつなぐために与えられた快楽と苦しみとを、同時に味わったような気がした。いずれにしても天見組の奴らに痛めつけられた身体の節々がきしむように悲鳴を上げた。よくもこんな状態で、男女の行為が出来るものだなと思う。 だが、死ぬ間際にも子孫を残すためにあそこは屹立するのだという。何億年もの命の連…
第8章 かなしき口笛 (1) 花菜の決心 その15 この世のものではないと思われる世界をさ迷っていた。 玉造ミエのしわくちゃの顔が俺に近づいて来て、口づけを求める仕草をした。斜め上に顔を接近させてきた。唇には真っ赤な口紅。顔を上気させているのがわかる。俺は思わず顔を反らせた。すると、俺のすぐ横には天見組長がいた。「お前が…
第8章 かなしき口笛 (1) 花菜の決心 その14 俺たちが向かう先には、信じられない者が待っていた…… 黒井の部下が運転する黒塗りの車は、屋上にヘリコプターが降りられる最新の医療設備を備えたO市屈指の総合病院、『K病院』の前で停まった。ここは数年前に建て替えられたばかりだ。 8
第8章 かなしき口笛 (1) 花菜の決心 その13 出院寅之助がが卍街の路上で撃たれてから4日しか経っていなかった。うつらうつら舟を漕ぎながら俺たちは話を聞いた。幸いにもあの時の弾丸は脇腹を貫通し、致命傷にならずに済んだのだという。それにしてもまだ相当に痛むだろうに、それをおくびにも見せない気迫は相当なものがあった。 そもそも今回の教龍会跡目争いの筆頭と目されている天見組は、2歩も…
第8章 かなしき口笛 (1) 花菜の決心 その12 意識は朦朧としていた。 あれから三日の間、俺たちは伊藤の指示によるあらゆる拷問を彼の部下から受け続けていた。散々に痛めつけられたのだ。もはやこれから、生きて人生を楽しもうなどという希望は見いだせなくなった。どうせなら早く殺してくれよ……そんな思いにかられていたのだ。 口の中は鉄臭い血の味と匂いで充満していた。破れた皮膚がひりひ…
第8章 かなしき口笛 (1) 花菜の決心 その11 「俺は何も知らない。たまたまドライブの途中、小便しに降りただけだ。なのになんでこんな酷いことを」俺は悪あがきを吐きだした。 「嘘つけよ。ピンポイントでこの建物に入ってきたくせに。あのさ、人の命は地球より重いとか訳の分からんことを言いだすあほうが多いけどよ、人の命とありんこの命と何が違う? アメーバーの命とか病原菌の命はどうなんだ。何…
第8章 かなしき口笛 (1) 花菜の決心 その10 俺たちは、花菜から聞き出した天見組の若頭、伊藤正明に接近することを企てた。『ピエール』でコンドームを購入した男だ。この男は、ことあるごとに花菜に言い寄っていたようだ。今では、つかず離れずの腐れ縁のような関係にあるらしい。彼女はこの男を、裏社会から足を洗わせてまともな人間になることを望んでいるようだった。…
第8章 かなしき口笛 (1) 花菜の決心 その8 朝が来た。 まどろみの中で、俺という意識が次第にはっきりとあらわれてきた。そうだった。薬屋『ピエール』のレジで交わした『エル・ド・ラーデ』に来てくれたら全て話すという約束はまだ果たされていなかった。俺の中では…
第8章 かなしき口笛 (1) 花菜の決心 その7 とにかく俺たちは、パチンコパラダイスグループの総帥、玉造秀の依頼を遂行する必要があった。彼の母親である水戸のおばば、もとい、老婆の死の真相を突き止めなければならないのだ。その過程で接触することとなったO市のヤクザ者同士の跡目争いやら、資金集めなどには毛頭興味もなかったし、とにかく抗争には巻き込まれたくなかった。だが、そうはさせないとい…
第8章 かなしき口笛 (1) 花菜の決心 その5 「よっしゃあ! 3レースのアレは確かな情報だったな」 4レースの検討を始めた俺たちをよそに、フロアの中央に陣取ったカタギじゃない奴らははしゃいでいた。そうか。奴らは裏情報をもとに、大金をHドウケイバに注ぎ込んでいるのだな。怪しい出どころの金をマネーロンダリングでもしているのだろうか。 俺はそう感じていた。 すぐそばで焼酎をチビチビやりな…
第8章 かなしき口笛 (1) 花菜の決心 その4 『エル・ド・ラーデ』はO市の繁華街『花園卍街』のど真ん中に位置する白百合ビルの2階にあるパブスナックだった。スマホに入力すればそんな情報がたちまちのうちに現れる。便利な世の中だ。昭和の時代に比べると探偵の仕事なんてほとんどがネット情報だけで終わってしまう。ただし、それは昭和の頃の案件だったらという意味だ。今の時代の案件はネットでもとう…
第8章 かなしき口笛 (1) 花菜の決心 その2 「それは詐欺です! 詐欺師の魔の手はあなたを狙っています」 「暗証番号を聞き出そうとする、銀行員を名乗る者からの電話……」 「減税による還付金があるので口座番号を教えてください。つきましては係の者が伺いますので暗証番号を一度伝えてください。すぐに変更いたします。などと誘い込む役所の人間を語る電話……」 朝の国営放送では、詐欺師による被…
第8章 かなしき口笛 (1) 花菜の決心 その1 汽笛が聞こえる。ボーっと低い音だった。大きな船が港を離れる合図だろうか。気がつくと、もう外はすっかり明るい。 そう、朝だ。 ……どことも知れないホテルの一室。俺は汽笛の音で目覚めた。遮光カーテンからひとすじの明かりが漏れている。港にほど近いところにいるようだ。 え? ここはどこなんだ。なんで俺はこんなところに。気がつくと、俺は素ッ裸で…
第7章 さまよえる者たち (最終回) (3) 女たちのララバイ その6 病院を出た時のカオリは、まるで夢遊病者のようだった。俺の告白をその胸に受け止めているのかどうか、判断することはできなかった。何も語らずただふわふわと、どこへ行くとも感じていないような足がアスファルトを踏みしめては機械的に浮き上がるという歩き方だった。花蓮もまた似…
第7章 さまよえる者たち (3) 女たちのララバイ その5 「ふざけたことを言わないでくれよ。そんなことを言って欲しくない」 チャンゴはとうとう泣きだした。 俺は殴られた左の頬を手のひらで押さえながら、痛みや怒りよりもチャンゴの怒りに驚いた。でもまあ、たしかにマズいことを言ったと思う。 「いや、ごめん。俺が悪かった」 「ごめんこっちこそ。でも、俺だって。俺だってさ……あんな風…
第7章 さまよえる者たち (3) 女たちのララバイ その4 部屋の奥には積木遊びをする花蓮がいた。中はゴミ屋敷と言うほどでもなかったがそれでも煩雑に物が散乱し、複雑に衣類や家具や雑誌などが積み重なっていてかなり汚い部屋だった。おそらく永年にわたり売春婦たちがすさんだ生活を営ん…
第7章 さまよえる者たち (3) 女たちのララバイ その2 ナアリージュの店内は最高潮の盛り上がりを見せていた。ママは右手の握りこぶしを天井のミラーボールに向かって突き上げた。左手で投げキッスを繰り返した。たくましい腕だった。倒れていた輩役の男たちも起き上がってステージに立った。そこにミウラとしゃもん弟が加わり、軽快な音楽とともにみんなで踊り始めた。肩を組んで足を上げて……。 「…
第7章 さまよえる者たち (2) 交差する女 その4 カオリもそれ以上は何も語らなかったのだが、花蓮はさらに押し黙ったままだった。何を訊いてもわからないと答えるだけだった。本当に10歳ぐらいの子供と話しているとしか思えないのだった。俺は彼女の秘密を知っていた。職業柄、それは簡単に知ることが出来たのだ。だがそれをここで話すことは出来ない。少なくとも彼女の前では絶対に。 「ふたりは今…
第7章 さまよえる者たち (2) 交差する女 その3 ホテルを出て俺たちは24時間営業のファミレスへと腰を落ち着けた。 カオリは途中かなりの抵抗を示したが病み上がりの身だ。明らかに心もからだも弱り切っていた。やがておとなしくチャンゴの肩に寄り添うようにして着いて来た。花蓮は怯えていた。じっと怯えている様子だった。俺の腕につかまりながらびくびくしながら席についた。 とにかくカオリはまだ入院…
(1) 消えた女 その7 俺は花蓮の姿にくぎ付けとなった。 こんな場面ででくわすとは、運命を呪うしかない。若々しく派手めの衣装を身につけた花蓮は満面の笑みを浮かべて北川に寄り沿った。 「待った?」「いや、来たばかりだよ」その姿は何度も逢瀬を重ねた男女のそれだった。花蓮は北川の腕を取り彼の肩に頭を傾けた。嬉しそうな表情だ。 「じゃあ、パパ行きましょ」 確かにそう言った。パパとはいったい? さすが…
第7章 さまよえる者たち (1) 消えた女 その6 あれからすでに20日が過ぎようとしていた。 明日は競馬の祭典、ダービーが東京競馬場で開催される。競馬フアンにとってはまさに一世一代の大レースといっても過言ではないだろう。ところが俺ときたら、ダービーのダの字も全く心には入って来ないままでいた。つまり、カオリのことも花蓮のことも、優香との今後のことさえ何も答を見つけられずにただ流され…
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