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1945年祖父の日記 http://usm83.livedoor.blog

戦争中の祖父の日記です。戦時下の東京‥。

戦争中の祖父の日記です。戦時下の東京、51歳会社勤め6人家族。       国が戦争となった時‥‥国民の毎日はどうなる?                (影響が小さかったと思える家族の日々です。)               いま憲法を変えようとしている、よくよく考えなければ・・・。

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2019/01/07

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  • 1945/06/25 1945/06/26 1945/06/27 1945/06/28

    六月廿五日(月)曇 午後一時半から本社で賞与授与式あり社長から極りきった訓示やら説示やらがあった。賞与は五六〇円税金他控除、手取り三一〇円時局柄感謝して受けねばなるまい。 胸の具合が悪くて閉口したが我慢して夕方まで勤務した。胃が弱いのかも知れぬ。六月廿

  • 1945/06/24 暫く振りの休暇

    六月廿四日(日)雨 暫く振りの休暇だ。朝起きたらシトシト梅雨期特有の雨だ。休養には誂え向きの天気だ。間もなく風となり幾分荒れ模様となる、が大したこともなく先ず以って上々の休養日だった。 家族全員休日なので朝食は九時となる。昨日猫にやられた鶏を料理して珍

  • 1945/06/23 朝から警報の連続

    六月廿三日(土)晴 朝から警報の連続で驚いた。正午頃は遂に空襲警報の発令を見るに至る。 支所長と東宝食堂課長事務代行の使い分けで繁忙を極む。欄外:慎太郎夜十時十分上野発で秋田へ行く。 

  • 1945/06/22

    六月廿二日(金)晴 昨夜十一時五十分頃空襲警報で三時間餘起されたのに今朝又数編隊小笠原上空通過の情報あり、間もなくその編隊は紀伊半島方面へ向かいたりとの情報に依り安堵して出社す。 

  • 1945/06/21

    六月廿一日(木)晴 今日から国民酒場ビール部営業を開始する、暫く振りの入荷なので忙しくて閉口した。 丸の内組合田辺氏の招請あり面接、日劇外食券食堂責任者及び丸の内地区支所長の任につき打ち合わせを為す。 夜、実生部長と面会新宿東宝近日開店。綜合食堂として

  • 1945/06/20

    六月廿日(水)曇 暫く振りで新宿東映を視察する。東産品があるので外食券食堂認可前に四・五十日商売をしようかと思う部長へ具申して見よう。 

  • 1945/06/19

    六月十九日(火)晴 朋子は今日小田原へ帰った。暫く居たので帰るのが嫌だと云って居たそうだが可愛いものだ。 支所長としての仕事と課長代理事務とで繁忙を極めた、が結局人間は仕事をするべく生まれて来たのだ。忙しく働いた方が快心だ。 

  • 1945/06/18

    六月十八日(月)曇 外食券食堂設置届を取り纏め警察を経由、都民生局宛届出す。 

  • 1945/06/17

    六月十七日(日)曇 日曜なれど出社。都庁食堂協会本部に寄り懇談、それより田辺丸の内総◯長に面会、三神部長より下命の件に付き懇談、茲に支所長就任の件は完全に決定を見たり。かくなる上は一切の私情を放棄して丸の内業界のため翻っては東京都食料事情解決のために粉骨

  • 1945/06/16

    六月十六日(土)曇 支所長として推薦せる田辺氏逃げを打ったゝめにその代理者として東奔西走繁忙を極む。 午後六時頃三神部長殿訪問先より帰社あり、直ちに面会その後の情勢報告したる処、東宝発祥の地たる丸の内業界のために緊褌一番支所長として就任すべしとの命を受

  • 1945/06/15

    六月十五日(金)曇 実生部長と懇談、急転せる食堂事情下、最後の処置として私が丸の内支所長として就任、丸の内業界のため尽力せよとの内示を受く。三神部長の帰社を待って去就を決すべく留保し置きたり。 

  • 1945/06/14 課長の応召を見、多忙を極む

    六月十四日(木)曇 食堂協会の指示事項判明せるに依り三神部長不在のため直接田辺副社長宅へ伺向、対処策の指示を仰ぐべく正午過ぎ病臥中の副社長に面会、食堂界情勢の変化につき詳細報告、指示を仰ぐ。 丸の内都民食堂班、緊急班会を開くこと数次なるも何れも小田原評

  • 1945/06/13 為政者、指導者の無策は餘りにも情けない

    六月十三日(水)曇 松岡課長正午、最後の乾盃をして出征、世田谷百八十六聯隊へ送る。自動車で丸の内から三宅坂、赤坂、青山、渋谷、道玄坂、世田ヶ谷、三軒茶屋と通って感じたことは空爆の被害の餘りにも大きく惨たる状況だ。これ位のことに屁古垂れる日本人でないことは

  • 1945/06/12 課長応召の事務引継ぎ

    六月十二日(火)晴 課長応召の事務引継ぎは取敢えず自分がせねばならぬ状態なので八時に出社事務処理に当たる。欄外:朋子フジ子に連れられ敏子と三人で来泊。 

  • 1945/06/11 課長に名誉の応召が来た

    六月十一日(月)晴 松岡課長に名誉の応召が来たので非常に多忙であった。これからいよいよ多忙を極めることゝなろう。丁度食堂整理進行中であり未解決で行くは課長としても残念であろうし会社としても又、吾々としても途方に暮れた形だ。 午後二時から都民食堂班会に引

  • 早朝六時三十分頃警戒警報発令

    六月十日(日)晴 早朝六時三十分頃警戒警報発令、数編隊来襲の情報放送あり、同七時頃空襲警報発令間もなくB29約参百機、P51約七十機帝都に侵入せるも我家附近に異常なし未だ出勤前なりし為、慎太郎も会社を休み防空壕の整備をした。これで防空壕の整備も完成した様だ。

  • 少し早目に出勤

    六月九日(土)曇 何かと事務◯◯少し早目に出勤して執務する。事務に専念すれば社交的に味気ないものとなり、社交的完璧を期して来客に応対して居れば事務の処理が片付いていかぬし仲々むづかしい。 日比野氏岐阜行き切符、和田氏に依頼して届けた。明十日から益々強化

  • 東宝国民義勇隊結成式

    六月八日(金)晴 夜雷雨あり 東宝国民義勇隊結成式あり、六時二十分早目に家を出て銀座本社に出頭列席する。 慎太郎は防◯召集教育の為駒沢国民学校へ出頭いよいよ決戦態勢も濃厚となった。 東京都内外食券食堂班長会議、東宝地下に於いて開催、松岡課長出席せるも種

  • 高級食堂は許可せず

    六月七日(木)曇 後雨 警視庁櫻井主任来社、高級食堂は当分許可せざることゝ決定尚委託経営も原則として許可せざる方針なりとの内命あり、我食堂事情のの帰趨も何うなることか、都民食堂は来る十五日を以って一応解散となり十六日の都営食堂の新発足と云っても仲々机上の

  • 戦中でも与太者は居たようだ

    六月六日(水)曇 午後与太者が来て事務所であばれて丁度そこへ丸の内署の森田刑事部長が来てその応対を見て居たが、これではいかぬと思った。国力を賭けて戦争して居る際、与太者の存在はあり得べからざる事だが、そこへ苟も制服制帽の巡査部長が来合わせて何うにもな与太

  • 一般都民食堂の閉鎖、外食券食堂への切替

    六月五日(火)晴 沖縄の戦況は依然として面白からぬとは困ったものだ内地は小憩情態だが勿論油断はならぬ。 本日午前七時頃よりB29三百五十機阪神地区へ来襲の報あり、沖縄の戦況と対比して戦局いよいよ緊迫せるを思はしむ。 社会情勢の急変に伴い食糧事情の逼迫は食

  • 沖縄の戦況がよくない

    六月四日(月)晴 沖縄の戦況が餘り面白くない。いよいよ最後の段階に突入したらしい。最後の勝利は疑わぬが斯う面白からぬ戦況の連続は聊か心細い。 課長は二日夕帰京、昨日は出勤したそうだ。日劇外食券食堂開始に就いて心配して居たが課長が出社して呉れたので自分と

  • 最少限度の書籍だけを防空壕へ

    六月三日(日)晴 日曜で休養した。午前中書籍を慎太郎が新たに造った壕へ最も貴重と思われるものだけ収蔵した全部が惜しいけれどそれは許されぬので最少限度にとどめたが引越し以来荷造りのままになって居るものもあるし果してこれでよいのか何うかも判らぬが止むを得まい

  • 1945/06/02 大井町線が開通になった

    六月二日(土)雨 今日から大井町線が開通になったので助かった。交通時間が一時間短縮されると云うことは精力消耗をそれだけ節減されることになるので有難いことだ。交通関係従業者の並々ならぬ敢闘に対して感謝に堪えぬ。 夕刻寸暇を得てホテルへ見舞いに行った。厨房

  • 1945/06/01 敵の為すに任せるが如き今日此頃の空襲

    六月一日(金) 帝都周辺の交通機関の復旧捗々しからず往復に相当精力を消耗せしめらるゝ現状は誠に遺憾に堪えぬ。東横線が今日から渋谷駅まで入る様になったので自分の往復時間が一時間短縮されたのは有難いが殺人的混雑には閉口だ。 大阪へ大編隊来襲との情報あり、最

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