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魏志倭人伝には「従郡至倭」と書いてあるので、邪馬台国への道順が書いてあるのではありません。倭人在帶方東南大海之中 從郡至倭 循海岸水行歴韓国 乍南乍東到其北岸狗邪韓國 始度一海千餘里至對海國 又南渡一海千餘里名日瀚海至一大國又渡一海千餘里至末盧國
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新邪馬台国の研究 再編集版Kindle版 980円が下記期間無料でダウンロード出来ます。1月28日17:001月29日16:591月30日17:001月31日16:59必ず無料であることを確認してダウンロードしてください!https://www.amazon.co.jp/%E6%96%B0%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD%E3%8
三国志の魏国は大月氏と倭の二国に金印を拝仮しました。229年「親魏大月氏王」大月氏とは人名ではなく国名です。正確には大月氏(国)王の波調が金印を授かった。239年邪馬台国の卑弥呼が「親魏倭王」の称号と金印を授かリました。
https://www.amazon.co.jp/dp/B0BLMK9YDR?ref=d6k_applink_bb_dls&dplnkId=18262cc1-45c6-4331-b624-516f3b8afb45新邪馬台国の研究∶第一巻〜第3巻(発刊済)を一冊にまとめました。更に新しい内容も加筆しましたので読み応えが増しました。是非御一読下さい。
この「男弟」は次の漢文にあります。 名日卑弥呼 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國 名は卑弥呼と言う。年齢はすでに長大。夫はいなく、男弟あり、佐(たす)けて国を治めている。 (年已長大) 無夫婿 有男弟 佐治國夫婿はなく、「男弟」はあるこの箇所の【男弟】
魏志倭人伝には「従郡至倭」と書いてあるので、邪馬台国への道順が書いてあるのではありません。倭人在帶方東南大海之中 從郡至倭 循海岸水行歴韓国 乍南乍東到其北岸狗邪韓國 始度一海千餘里至對海國 又南渡一海千餘里名日瀚海至一大國又渡一海千餘里至末盧國
先日YouTubeで邪馬台国関係の動画を見ていたら下記の漢文に書かれている文章に使われている「行」の漢字が使われている箇所は日本に来た使者(筆者)が実際に行った国で、「行」が書かれていない国には行っていないと説明していました。この件に関して検証したいと思います。
西暦57年に中国後漢の光武帝より,金印「漢委奴国王」を授かった委奴国だけが王と名乗る事を認められてから委奴国の首長は代々王を引き継いできました。なので、「委奴国⇒伊都国」の首長だけが王と名乗れるはずなのに魏志倭人伝には、1.伊都国 2.邪馬台国 3.狗奴国
私は魏志倭人伝に書かれている伊都国の所在地は、光正説から導いて、九州大分県の日田であると確信しています。そして、その九州大分県の日田にある、ダンワラ古墳より金銀錯巌珠龍紋鉄鏡(金銀錯嵌珠龍文鏡)という鉄製の鏡が発掘されています。この鏡はいつ、
では、委奴国(伊都国)はどこに所在していたのかを探って行きます。魏志倭人伝には伊都国についての説明文が下記漢文に書いてあります。東南陸行五百里到伊都國官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往来常所駐「東南に五百里ほ
金印に彫られている「漢委奴国王」の読み方が「漢の倭の奴の国王」と解釈すると、「漢の倭の奴の国王」の倭の漢字が金印では、なぜ「漢委奴国王」の委の漢字になっているのでしょうか?おかしくはないでしょうか!西暦57年に漢より授かった金印に彫られている「漢委
それでは、金印に彫られている「漢委奴国王」を検証していきます。この「漢委奴国王」は、どのように読むのが正しいのかは研究者により、いろいろあります。いちばんの原因は「漢委奴国王」の「委奴国」をどの様に読むかが問題になります。この「委奴国」は研究者に依っ
今回から、皆さんも歴史の授業で聞いたことが有ると思いますが、「漢委奴国王」と彫られた中国の後漢より金印を授かった委奴国について検証していきたいと思います。この金印は江戸時代(天明4年2月23日)に福岡県福岡市東区大字志賀島の田畑で百姓の甚兵衛によって発
西暦57年に後漢より「漢委奴国王」の金印を授かるこの「漢委奴国王」の金印を授かった委奴国の首長は飛び上がって喜んだ図が目に浮かびます。中国(後漢)のバックアップを得た委奴国の首長は自ら「我は国王なり、委奴国の国王なり」と称して倭の国の支配の野望を本格的に
魏志倭人伝は下記の漢文から始まります。 倭人在帶方東南大海之中依山㠀為國邑舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國ここで使われている今使訳通所三十国の「使訳」ですが、どういう意味でしょうか?他の研究者の訳には「通訳使いが通じる所三十国。」通訳使い通
邪馬台国関連の雑誌、書籍本、動画等を見ると、卑弥呼の死後、13歳で女王になった宗女の名前表示が、筆者によって、台与と表示しているものと、壱与と表示しているものがあります。壱与(台与)は卑弥呼の宗女で、卑弥呼が亡くなった後、邪馬台国の女王として再
魏志倭人伝の書き出しは下記の漢文より始まります。 倭人在帶方東南大海之中依山㠀為國邑 舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國 從郡至倭循海岸水行歴韓国乍南乍東 到其北岸「狗邪韓國」七千餘里今回はこの箇所の漢文に書かれている「狗邪韓国」について考えたいと思い
魏志倭人伝に「及共立一女子為王」と書かれている漢文があります。ここに書かれている共立(共に立てた)とは、誰と誰が共に立てたのか?今回はこの共立について考えたいと思います。この「共立」が記述されているのは下記の漢文に書いてあります。まず、この箇所にはどう
魏志倭人伝に記述されている邪馬台国の女王の「卑弥呼」は高齢で夫はいなく独身である。 世間一般的には、此のように理解されている方が多いのではないでしょうか?どうしてこのように解釈されてるのでしょうか?たぶん次の箇所の漢字からそのように解釈されたようですが、
魏志倭人伝をはじめ、中国の古文献には、倭、倭人、倭地、倭種、倭王、倭国のように倭の字を使ってヤマトを表わしています。今回は、この倭について考えたいと思います。魏志倭人伝に書かれている倭の字を見てみると、書かれている箇所によって倭の漢字が示すニュアンスが少
この「男弟」は次の漢文にあります。 名日卑弥呼 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國 名は卑弥呼と言う。年齢はすでに長大。夫はいなく、男弟あり、佐(たす)けて国を治めている。 (年已長大) 無夫婿 有男弟 佐治國夫婿はなく、「男弟」はあるこの箇所の【男弟】