佐藤慶太郎(1868ー1940)《『西方の風~九州ひと図鑑』》(40)
富ミテ死スハ恥辱ナリ。切望されて近代日本にはじめて実現した常設美術館。財政難の東京府に代わって個人財産をポンと差し出し、美術愛好の国民に東京府美術館(現・東京都美術館)をプレゼントした筑豊・北九州の炭鉱経営者である。大正7年といえば鈴木三重吉が主宰する児童文芸雑誌『赤い鳥』が発刊され、中山晋平、北原白秋ら民間芸術家による童謡運動が産声を上げた年である。<美術館の如きは一国の国立建造物として欠くべからざるものである。例えば一家に床の間が必要なると同様であって是れ無くては一国の体裁をなさないと言える・・・>―美術館の早期建設を切望する洋画界の重鎮・黒田清輝の訴えが東京の読売新聞に掲載されたのは大正7年12月21日のことである。黒田をはじめ、岡倉天心、横山大観ら美術家、美術愛好家の明治以来の悲願であった。日本社会にも...佐藤慶太郎(1868ー1940)《『西方の風~九州ひと図鑑』》(40)
2020/09/16 09:35