youtu.be 和歌山線は、和歌山駅と王寺駅を結ぶ路線ですが。かつては、和歌山市~王寺駅を結ぶ路線でした。その辺りの話を中心にさせていただきます。他に、和歌山線で採用された簡易な直接吊架線についても解説しています。#国鉄 #鉄道 #歴史 #train #交通 #電車 #railwayhistory #railway #和歌山線 #105系 #113系
国鉄における労働組合史を底本に、国鉄が解体されて行ったプロセスについて検証していきます。
blackcatの思索帳と銘打って、国鉄労働組合やその他組合の主張等を参照しながら国鉄とはどんな組織だったのかをしゃかいげく的側面から検証してみるblogです。 内容が内容だけに難しいのですが、私なりに解釈を加えて解説しています。 不定期更新です。
約一ヶ月ほど経ましたが、改めてアップさせていただきます。 労使共同宣言までの一連の流れ 昭和61年になると、国鉄分割民営化は既定事項となり、鉄労・動労・全施労は「労使共同宣言」を締結し、国労は更に孤立を余儀なくされることとなりました。 改めて国鉄改革関連の時系列を、弊サイト国鉄があった時代から引用しますと下記のようになります。 三塚運輸大臣が、組合幹部に要請したことを受けて、1月13日に杉浦総裁と国労以下組合幹部が会談、鉄労・動労・全施労の三組合は、「 案文については、 若干の主張はある」としながらも、基本的には同意できるとして、労使共同宣言を受諾、国労は 「 提案の方法が唐突だ」として、議論…
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youtu.be 和歌山線は、和歌山駅と王寺駅を結ぶ路線ですが。かつては、和歌山市~王寺駅を結ぶ路線でした。その辺りの話を中心にさせていただきます。他に、和歌山線で採用された簡易な直接吊架線についても解説しています。#国鉄 #鉄道 #歴史 #train #交通 #電車 #railwayhistory #railway #和歌山線 #105系 #113系
ランキング参加中 鉄道 ランキング参加中 歴史 ランキング参加中 社会 ランキング参加中 相互で読者登録しませんか? 長らく更新出来ませんでしたが、改めてアップさせていただきます。 国鉄職員全体に対する進路希望アンケートを実施 国鉄では、昭和60(1985)年12月13日には政府は、余剰人員対策の基本方針を決定しました。 このアンケートは昭和60年12月20日から翌年の1月6日までの間に提出することとされており、他省庁への転出を含めた希望調書という事で一種の踏み絵のようなものとも言えました。このように具体的な民営化の姿が見えない中で、こうしたアンケートが取られた背景には、各省庁や地方公務員等公…
ランキング参加中鉄道 ランキング参加中歴史 ランキング参加中社会ランキング参加中相互で読者登録しませんか? 国鉄改革労働組合協議会の結成 と国鉄当局 国鉄改革が大詰めとなってきた昭和61年7月18日、鉄労・動労など国鉄改革に協力姿勢の組合と、国鉄改革労働組合協議会(以下・改革労協)を結成しました。 改革労協に結集した組合は下記の組合でした。 鉄労 動労 全施労 真国労 の4組合でした。 国鉄改革に協力的な鉄労・動労・全施労・真国労は改革労協を結成することに 鉄労は同盟系の雄で有り、動労は総評系でかつては鬼の動労と呼ばれるほど恐れられ、当時でも鉄労とはまさに「呉越同舟」状態と言えました。 動労は…
加中 社会 ランキング参加中 歴史 ランキング参加中 鉄道 ランキング参加中 相互で読者登録しませんか? 久々に更新させていただきます。雇用不安と国労内の分裂国鉄当局は、国労との雇用安定協約を更新しないという決定を下し、国労組合員は雇用不安を感じるようになりました。国労は当局の姿勢に問題があるとして、国労組合員自殺者がどれだけあったと発表して当局の弾圧があると指摘しようとしましたが、国労組合んに限ったことではなく中間管理職であった助役などの自殺も実際にはあったのですが、その辺はなかったこととされていました。国労内では分裂が続き、前回のお話の中であったように、国労内の革マル派であるグループが真国…
長らく更新が出来ませんでしたが、久々に更新させていただきます。 今回は、国労の分裂という視点から書かせていただきました。国労は合理化で組合員の減少があったとは言え、1984年時点では20万人強を擁する国鉄最大の労働組合であり、力で押し切れると思っていたものの、その包囲網は狭められることとなり、国労内でも雇用に対する不安から分裂が生じることとなりました。 特に、国労内の革マル派閥は「真国労」という名称で動労と同じく、協調路線を取ることで雇用の安定をめざすとして分裂する事となりました。 その後も主流派を占めていた民同左派は、社会党の協力を得ながら着地の方向を辿りますが、徐々に狭められていったのは既…
約一ヶ月ほど経ましたが、改めてアップさせていただきます。 労使共同宣言までの一連の流れ 昭和61年になると、国鉄分割民営化は既定事項となり、鉄労・動労・全施労は「労使共同宣言」を締結し、国労は更に孤立を余儀なくされることとなりました。 改めて国鉄改革関連の時系列を、弊サイト国鉄があった時代から引用しますと下記のようになります。 三塚運輸大臣が、組合幹部に要請したことを受けて、1月13日に杉浦総裁と国労以下組合幹部が会談、鉄労・動労・全施労の三組合は、「 案文については、 若干の主張はある」としながらも、基本的には同意できるとして、労使共同宣言を受諾、国労は 「 提案の方法が唐突だ」として、議論…
今回も国鉄動労運動史として、国労の記事を底本として当時の国鉄の様子を見ていきたいと思います。 国労は、当局が示した労使協調宣言を従来の慣例を破った方法であり、かつその内容は受け入れられないと書かれていますが、当局側の部内紙(国有鉄道)の記事にその辺の様子が書かれていましたので、引用してみたいと思います。 国労は内容を一瞥して退出 当局側の記述によりますと、1月13日に国労・動労・鉄労・全施労の組合幹部と個別に面談したとなっています。 その席上、国労は労使協調宣言の文書を一瞥して、「提案の方法が唐突だ」として退席したとされており、他の組合が多少の相違はあるものの概ね了承したという話と大きく食い違…
国鉄改革報成立前夜の動き 昭和61(1986)年9月、国鉄を取り巻く環境を弊サイト国鉄があった時代から抜粋してみます。 全て記述すると膨大な量になるので多少端折らせていただきます。 政府,国鉄余剰人員対策の基本方針〈国鉄等職員再就職計画〉正式決定 9/12「明日の国鉄を創る会」主催による「国鉄改革関西フォーラム」を大阪で開催 9/12京都府は、国鉄職員95人(府警分85人を除く)の受け入れを決定 9/12神戸市が国鉄職員100人の受け入れを決定 9/1215日現在の希望退職募集状況によると、退職希望職員認定申請を提出した職員は7、193人(そのうち2、945人が既に退職 9/15滋賀県は国鉄職…
久々に更新させていただきます。 今回から、弊サイト「国鉄があった時代」の記事を参照しながら、自身の記憶を絡めながらお話を勧めさせていただきます。 最初に1985年7月以降の国鉄に関する動きを見ていきたいと思います。 1985年後半(国鉄があった時代) 大畑線【路線廃止】下北~大畑間 下北交通に転換 7/1岩内線【路線廃止】全線(-14.9km)。ニセコバスに転換 7/1 興浜北線【路線廃止】浜頓別~北見枝幸(-30.4km)。宗谷バスにバス転換 7/1 この内、大畑線は、鉄道経営の経験を持たない民間パス会社に移管した全国初のケースとなる 第1次線40線区のうち29線区の転換が完了 JNRカード…
ランキング参加中鉄道 ランキング参加中歴史 ランキング参加中社会ランキング参加中相互で読者登録しませんか? 久々に更新させていただきます。 国鉄分割民営化が、既定の路線として進みつつある中では、市民レベルによる反対運動が提起されるようになってきました。 こうした取り組みの結果、「国民会議の結成」に繋がったと書かれていますが。こうした動きはあるものの、当時の国労は分割民営化絶対反対が基本方針であり、階級闘争という形で当局と対立してきた経緯がある国労からすれば、動労や鉄労のように労使協調路線は出したくても出せないカードでした。 昭和60年頃までは、国労は国鉄内では最大の組織力を誇り、ストライキを行…
今回も、引き続き国鉄分割民営化前後の記事をアップさせていただきます。 本格化する財政再建論議 国鉄の財政悪化を受けて、国鉄の財政再建が本格的に議論が行われていました。 4年前の昭和50年に行われたスト権スト、更には昭和51年の大幅値上げ(初乗り旅客運賃が30円→60円)平均50.4%が行われ、この頃から本格的な国鉄離れが始まりました。 その結果、旅客以上に貨物のトラックへの移行が進むなど徐々に国鉄の貨物輸送はジリ貧の状況に追いやられていきます。昭和52年には、国鉄運賃は法定制から運輸大臣の認可制に変更されることとなり、昭和53年5月には運賃改訂を申請、その後毎年のように運賃は改定されていきまし…
今回も、国労の資料を中心に当時の国鉄分割民営化の頃の様子をご覧いただこうと思います。 国鉄では、昭和60年7月29日から8月2日にかけて行われた、国労の定期大会で決定した、5000万署名運動を展開して来たわけですが、既にこの時期には分割民営化ありきの方向に世論は誘導されていました。 当局は雇用安定協約を当局側が交わさず、揺さぶりをかけるものの、国労の構成員は未だ20万人近くを維持しており、国労とすれば、まだまだ逆転は可能であると考えていたようです。 この辺は、これからは「公企労レポート」なども参照しながら、お話を進めさせていただきます。 国労の的大会の前後のお話をさせていただくと、国鉄総裁が元…
はじめに 国鉄分割民営化の方向性が示され、動労も国労とは距離を置き始めた時代にあって、国労は分割民営化反対をスローガンに掲げていました。この時期は、若手職員などが将来に不安を感じて自殺などもありましたが、まだまだ国労は国鉄の中でも最大人員を誇る組織であり、総評もかなり力を入れて応援していました。世論は、前年のNTTの民営化成功を受けて、民営化には比較的好意的であり、分割に対する不安は持っていたものの、国鉄の赤字を解消するには競争させるべきだ・・・その為に分割するのだと言う論理は冷静に考えれば非常の矛盾した内容でも有りました。すなわち、前年に民営化された、専売公社も電電公社も分割はされず、それぞ…
ランキング参加中鉄道 ランキング参加中歴史 ランキング参加中社会ランキング参加中相互で読者登録しませんか? 久々に更新させていただきます。 余剰人員対策として、国鉄では直営店舗などの開設が行われ、関連事業収入のそうかと言うことでの多角化経営が行われることに 国鉄では、仁杉総裁が更迭され、杉浦総裁が中曽根首相の意向を汲んで最後の国鉄総裁として分割民営化を進めることを目的として送り込まれたわけですが、国鉄当局としては強力な合理化により、過員を生み出し(国鉄当局の表現では余剰人員)、多くの人材を直営店などの関連事業に振り分けることとなりました。 当時の国有鉄道という雑誌〈国鉄非現業機関向けの雑誌〉な…
ランキング参加中社会 ランキング参加中歴史 ランキング参加中鉄道 久々に更新させていただこうと思います。国鉄分割民営化の答申が決定、鉄労は分割民営化を賛成の立場を明確にしていきますが、この時期の動労は多少迷走とも言える状況になります。 仁杉総裁の辞任と国鉄改革 国鉄改革は、高木総裁は全く反対という立場を貫いたことから、任期を残して仁杉総裁と交代することとなりました。 仁杉氏も国鉄出身とは言え、国鉄民営化は止むなしとして最初に発言したことから、国鉄本社の幹部からは、改革派として警戒されることとなり、徐々に発言はトーンダウンしていくことに。 この辺は、仁杉氏の変節と言うよりも守旧派の幹部による情報…
久々に更新させていただきます 国鉄では、はあ制する余剰人員に対して万全の措置を講ずとして、他省庁や公社、地方自治体などの受け入れを要請しました。 しかし実際には、他省庁などからすれば中途採用で入ってくる職員さんは、未知数の上適性もある訳でその後なじむ人も居た反面、水が合わず1年もせずに退職したなんて人も居ました。 今回は其処まで踏み込めるか否かは判りませんが、当時の様子を国労に記事以外からも参照しながらその実情に迫ってみたいと思います。 余剰人員という名の定員整理 国鉄では、昭和30年代から概ね40万人台で推移してきました。昭和30年代は増大する輸送力にそって、迅雲が増える分も吸収できたわけで…
完成したのに消えてしまったので、改めてアップさせていただき 下書きのサムネイルがおかしかったので、それを避けようと思い消したところ下書きまで消えてしまいかなり落ち込んでいます。 再建監理委員会による臨調答申前後の国鉄の現場では 再建監理委員会による国鉄改革は、分割民営化の方向で進むこととなり、民営化を容認していた仁杉総裁は副総裁及び太田職員局長などの説得もあり、徐々にトーンダウンしていくとともに、身内の会社が国鉄から業務を請け負っているとしてマスコミにたたかれるなどして詰め腹を切られされる形で辞任、1985年6月24日には辞任、その際に反対派の幹部の辞表をとりまとめて一緒に退任することで、国鉄…
気がつけば二ヶ月以上も放置状態になっておりました。 申し訳ございません。 改めて、仁杉総裁更迭の頃からのお話をさせていただこうと思います。 国鉄改革の推進役として古巣の国鉄へ 仁杉総裁は、昭和58(1983)年12月2日、第9代国鉄総裁として就任しましたが、その後中曽根首相[当時]に、国鉄改革に関して積極的で無いとして、電撃的に解任されることとなり、反対派の常務理事の辞表とりまとめて辞任することになるのですが、その前に簡単に、仁杉総裁の経歴を振り返ってみたいと思います。 大正4年5月7日 生誕昭和13年3月 東京帝国大工学学部土木工学科卒業昭和13.4 鉄道省入省 任鉄道技手、建設局昭和27.…
気がつけば2カ月ほど放置状態となっておりましたので、取り急ぎ更新したいと思います。 今回は、国労の国鉄労働運動史なども参考にしながらアップさせていただきます。 再建監理委員会答申、国鉄を分割民営化することに 1,985年7月26日、国鉄再建監理委員会は、再建監理委員会「国鉄改革に関する意見」を総理大臣に提出することとなりました。 再建監理委員会の特徴は、旅客会社を6つに分割し、貨物会社は線路を間借りする第②種鉄道事業者として扱うこととしていました。 ま他、圧倒的な収益力を誇る東海道・山陽新幹線を中心にして、新幹線は保有機構が譲渡を受けてJRに貸し付ける 旅客6分割 貨物分離で1社 新幹線は一括…
久々に、更新させていただきます。 今回は、国労が臨調による分割民営化最終答申に反対して、分割民営化反対の運動を行って頃の話を中心に書かせていただきます。 世論はNTTの民営化の成功で官業の民営化は正しいという判断 今回は、国鉄分割民営化が既定事項として進められていた、昭和60年の8月の話となります。 国労は全動労などとともに最後の抵抗として、ストライキを試みることになります。しかし、全面ストライキを打てる状況ではなく、地上勤務者(駅員など)を中心としての時限ストであり、その影響は軽微なものでした。 ただ、当時の世論は現在と真逆で、世論は分割民営化を容認する言う雰囲気があったのも事実でした。 少…
約一ヶ月ほど経ましたが、改めてアップさせていただきます。 労使共同宣言までの一連の流れ 昭和61年になると、国鉄分割民営化は既定事項となり、鉄労・動労・全施労は「労使共同宣言」を締結し、国労は更に孤立を余儀なくされることとなりました。 改めて国鉄改革関連の時系列を、弊サイト国鉄があった時代から引用しますと下記のようになります。 三塚運輸大臣が、組合幹部に要請したことを受けて、1月13日に杉浦総裁と国労以下組合幹部が会談、鉄労・動労・全施労の三組合は、「 案文については、 若干の主張はある」としながらも、基本的には同意できるとして、労使共同宣言を受諾、国労は 「 提案の方法が唐突だ」として、議論…
今回も国鉄動労運動史として、国労の記事を底本として当時の国鉄の様子を見ていきたいと思います。 国労は、当局が示した労使協調宣言を従来の慣例を破った方法であり、かつその内容は受け入れられないと書かれていますが、当局側の部内紙(国有鉄道)の記事にその辺の様子が書かれていましたので、引用してみたいと思います。 国労は内容を一瞥して退出 当局側の記述によりますと、1月13日に国労・動労・鉄労・全施労の組合幹部と個別に面談したとなっています。 その席上、国労は労使協調宣言の文書を一瞥して、「提案の方法が唐突だ」として退席したとされており、他の組合が多少の相違はあるものの概ね了承したという話と大きく食い違…
国鉄改革報成立前夜の動き 昭和61(1986)年9月、国鉄を取り巻く環境を弊サイト国鉄があった時代から抜粋してみます。 全て記述すると膨大な量になるので多少端折らせていただきます。 政府,国鉄余剰人員対策の基本方針〈国鉄等職員再就職計画〉正式決定 9/12「明日の国鉄を創る会」主催による「国鉄改革関西フォーラム」を大阪で開催 9/12京都府は、国鉄職員95人(府警分85人を除く)の受け入れを決定 9/12神戸市が国鉄職員100人の受け入れを決定 9/1215日現在の希望退職募集状況によると、退職希望職員認定申請を提出した職員は7、193人(そのうち2、945人が既に退職 9/15滋賀県は国鉄職…
久々に更新させていただきます。 今回から、弊サイト「国鉄があった時代」の記事を参照しながら、自身の記憶を絡めながらお話を勧めさせていただきます。 最初に1985年7月以降の国鉄に関する動きを見ていきたいと思います。 1985年後半(国鉄があった時代) 大畑線【路線廃止】下北~大畑間 下北交通に転換 7/1岩内線【路線廃止】全線(-14.9km)。ニセコバスに転換 7/1 興浜北線【路線廃止】浜頓別~北見枝幸(-30.4km)。宗谷バスにバス転換 7/1 この内、大畑線は、鉄道経営の経験を持たない民間パス会社に移管した全国初のケースとなる 第1次線40線区のうち29線区の転換が完了 JNRカード…
ランキング参加中鉄道 ランキング参加中歴史 ランキング参加中社会ランキング参加中相互で読者登録しませんか? 久々に更新させていただきます。 国鉄分割民営化が、既定の路線として進みつつある中では、市民レベルによる反対運動が提起されるようになってきました。 こうした取り組みの結果、「国民会議の結成」に繋がったと書かれていますが。こうした動きはあるものの、当時の国労は分割民営化絶対反対が基本方針であり、階級闘争という形で当局と対立してきた経緯がある国労からすれば、動労や鉄労のように労使協調路線は出したくても出せないカードでした。 昭和60年頃までは、国労は国鉄内では最大の組織力を誇り、ストライキを行…