ヤマト王権の成立は七世紀
考古学的検討と中国文献から、日本の古代は、海峡国家から北九州へと発展したことがわかる。そうすると、卑弥呼の邪馬台国が九州にあったことも確実ではあるが、ここからヤマト王権による統一国家への過程がまだ解明されていない。九州王朝説では「磐井の乱」がヤマトの制覇であるとしているし、「壬申の乱」が王朝交代だと言う説もある。 しかし、二王朝の対決といった構図を確認するにはには、あまりにも痕跡が少ない。これが邪馬台国九州説の弱点だと言える。武器の発達も十分ではないし、文字がなくては統制のとれた軍事組織も作れない。この時代の戦争は、小競り合いの連続のようなものにならざるを得ない。決着には長い年月がかかり、したがって大きな痕跡が残るはずだ。二大王朝の対決には無理がある。 日本の王権が王朝などと言える確固としたものになるのはもっと後代のことだと考えるべきだ。小国の分立が続いたが、これらの小国は時に..
2016/10/25 23:06