統一教会(統一協会)・キリスト教・仏教・ヒンドゥー教等を考察し、私たちが生きる本当の意味を探る
「信仰」が、究極の「何か」を体得するための手段であることはわかった。しかし、そもそも信仰者たちは、一体どういうわけで、信仰などという一見すると不明瞭で不明確なものに目覚めたのだろう。見たわけでも知っているわけでもないものに、自らの人生を捧げてしまうとは、
人間は元来、そのものに対する意味と価値を実感しているものであれば、それに対する関心は自然と高まるものである。しかし、世間の多くは信仰に対してはそうはなっていないようである。それはつまり単純に、信仰の意味と価値がわからないからそうなっているわけだが、一体な
「信仰」という言葉に対するイメージは各個人によって違うだろう。では、イメージは横にして、そもそも「信仰」という言葉がもつ、本来の意味は何だろう。「信仰」を辞書で引けば、「神仏を信じ崇めること。あるいは、宗教の教えを自分の拠り所とすること。」と大抵説明され
とは言え、現実には宗教を憎む人は多い。「信仰」と聞いただけで、それを胡散臭く感じたり、拒絶反応を起こす人々も大勢いる。掘り下げれば、それら偏見は誤解であると説くこともできるが、どうしてもそうならざるを得ない状況があることを私は理解しているつもりだ。し
では、どのようにしたら神にベクトルを合わせることになるのだろう。それがいわゆる「信仰を持つ」ということだ。ただ、「信仰」について色々語る前に、この「信仰」という言葉に対するイメージが各個人によってかなり異なっているであろうということを確認しておく必要
神、あるいは霊的存在について、理論的・物理的に証明しようというのは、ちょうど見たこともない外国のフルーツの味を、話だけで連想しようとするようなものだ。形や味などをいくら説明されたところで、聞かされた方は、聞いた言葉のニュアンスと、自分が食べたことのある
では改めて、なぜ神を立証することが難しいのか説明していこう。思えば、人類歴史には、常に神や霊という存在が強く関わりを持ってきた。人類はいつの時代も、祭事で神や祖先の霊を敬い、祈りでそれらにすがってきた。私たちには、神や霊について考える時間が、歴史の長さだ
唐突ではあったが、「人の生きる意味と価値~『愛』の存在証明~」で語った物語の教訓はわかって頂けただろうと思う。理論を知ることと、そのもの自体を知ることとはまったく違うということだ。物語の主人公である「彼」は、おそらく「男女の愛」を哲学的に論証しようと思え
大学の課題のために二人で会うようになって3度目、突然、彼女からカラオケに誘われた。それも二人きりで。カラオケなど一度も行ったことがない彼にとっては、戸惑い以外の何でもなかったが、彼女の楽しそうに歌う姿や、バラードのしっとりとした歌声は、彼の心に新鮮な印象
彼は大学で哲学を専攻していた。彼が参加しているゼミのテーマは「愛の哲学的論証」だった。そして今回、「男女の愛」の存在証明についての課題が与えられた。期限は1ヶ月、ペアになって、プレゼンを行うこととなった。彼は、教授も感心するほど非常に頭が良かった。彼のゼ
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