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唯識に学ぶ・誓喚の折々の記 https://blog.goo.ne.jp/seikannamo

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思ってい

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2014/11/27

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  • 唯識入門(40)

    おはようございます。前回明日にでもとお伝えしましたが、少し先延ばしになってしまいました。外境は存在しないとどうしていえるのかという問題です。ここは、無始以来の有漏種子が因として現行している異熟識を受け止めることが出来ないことに関わってきます。もう少し先になりますと、阿頼耶識の心所が述べられますが、触の心所が大事なキ-ワ-ドになると思います。根・境・識の三和合に由って認識が生起するわけですが、ここに深く関わってくるのが恒審思量の第七末那識なのです。根・境・識の何れの一つがなかったなら認識は起こりません。根が境に働きかけなければ識は生まれません。識があっても、根・境が無かったなら認識は起こりません。認識は和合体なのです。前五識の成り立ちは、例えば眼識は眼根に依り、眼根の対象である眼境(色境のことです)を捉えて眼識が...唯識入門(40)

  • 唯識入門(39)

    おはようございます。いい天気ですね。ちょつとお出かけしたいと思います。しばらく休憩をしていましたが、また再開させてもらいます。前回は因縁変・分別変について考えましたが、少し戻ってですね、阿頼耶識の所縁について考えてみたいと思います。その前に、四分義が終わりまして、「故に識の行相は即ち是れ了別なり。了別と云うは即ち是れ識の見分なり。」(『論』第二・(『選註本p42))ここが総結の文になります。ここをもって四分の説明はおわります。このように識の行相(働き)は了別(区別)して知ることである。そして区別するのは識の見分である、と。そして所縁が説かれてきます。認識の主体は常に自分なんですね。自分を離れて認識は成り立たないことを四分義は教えてくれました。眼は外に向いていますから、世界は自分を離れて存在すると思っていますが、...唯識入門(39)

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