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2014/10/29

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  • 我が生きざま「31年間の高専」

    (1)昭和43年4月に高専に航空自衛隊から転職した。高専1期生が4年生になる年、専門教育が主体になり、電気では電子工学・電磁気工学・電気回路工学・情報理論・電気電子基礎実験・計算機システム・実験・情報処理等々、多彩な科目が目白押し、学生も教官も気の抜けない日々が続いた。自分の今までの経験を生かして、充実した講義が出来た。学生の評判も良く、質問に責められ戸惑う日々でもあった。5年生になると卒業研究があり、我が班には6名の学生が来た。それぞれ研究テーマを与えて、勉学・外部への研修など多種済々の指導をした。時期を見計らって、我が家に招待し乾杯の祝杯を挙げ、カラオケなどで大いに盛り上がり実に楽しい一時を過ごした。正しく自分が京大の研究室で、大学の卒研生および研究室長と鍋で飲み食い乾杯した思いと合い通じて、懐かしく楽しい...我が生きざま「31年間の高専」

  • 我が人生「大学卒から自衛隊退職までの生きざま」

    (1)航空自衛隊からの誘いに乗るよう例の担任から勧められた。世間的に評判の悪い自衛隊ではと思うと、誠に二の足を踏む話であった。しかし、条件は良かった。4年生の秋から奨学金を出し、入隊後大学院に行かせるとのことであった。時たま、同期で住まいも近い都立大崎高校出の友人が応募するのを聞き、行く先不明の自分にとって仲間が出来るのを心強く思い応募し合格した。結局、技術幹部候補生として航空自衛隊に合格したのは、我々2名、福井大・金沢大・大阪府立大卒の3名と合わせて計5名であった。昭和36年4月1日、航空自衛隊奈良幹部候補生学校に赴任した。文系卒の大学生は30人ほどで、修練機関は我々の3か月に対し10か月であった。朝6時に起床、8時には国旗掲揚、午前講義、午後は体育・教練、夕方5時に国旗降下、6時に夕食・入浴、10時に就寝、...我が人生「大学卒から自衛隊退職までの生きざま」

  • 我が人生「小学校から大学までの生きざま」

    (1)昭和10年10月に生まれ、小学校入学時我が国は昭和16年12月8日にハワイの真珠湾を奇襲攻撃した。日本が米国に宣戦布告した時であった。米国の相当な戦艦が攻撃沈没され、日本は万々歳の威勢であった。そこから米軍の反撃が始まり、日本本土への空襲、主要都市は惨禍の目に会い、最終的に広島・長崎への原爆投下により降参した。昭和20年8月15日、天皇陛下の降伏宣言放送を涙で聞いた。我が家は東急目蒲線(目黒―蒲田)の目黒から3番目の西小山にあった。おやじは長崎・島原の出、次男でもあり東京に大工の職で生計を立てていた。大工の手腕は良かったが、金儲けは駄目だった。人が良く相手先に工事費用を誇張して、お金を儲けることは出来なかったようだ。4畳6畳の借家、子供6人の計8人が住んでいた。その内1番年上と1番年下の女性2人は、上は肺...我が人生「小学校から大学までの生きざま」

  • 平成最後の年、人生を振り返りたい

    (1)改めて若かりし頃のことを思う(1-1)博士号取得までの苦労昭和43年4月、恩師である京大の教授の取り計らいで、地元の国立高専電気工学科に転職した。その前年12月8日に、地元在住の25才の女性と結婚した。元々修士課程の指導者に当たる当時助手の声掛けで、その親類の女性とお見合いし結婚に至った。本来、修士から博士課程に進むつもりでいたが、実現できずに高専に身を寄せた。その後、10年後恩師の指導教授が高専の校長に就任した。当時、推薦して下さった教授もいずれ大学か企業の研究所に転職したらと考えていたようで、教授からは高専には5年でも居たらと言われた。高専に行ったその年に、京大の先輩から勤務先の大手電気メーカーの研究所に来ないかと誘われた。奮い立ったが、恩師教授の世話でここに来たとの思いもあり、断るはめになった。高専...平成最後の年、人生を振り返りたい

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