日本史好きの若者が稚拙な文章で、自分が学んだことと、少しの考察を書いてみるブログです。
日本史好きの若者が書いているブログです。歴史認識も浅く、特に専門性もないこと書きます。ときに哲学分野にはしります(笑)
'> 最近、the wave (ウェイブ)という映画をみた。この映画は、独裁をテーマとした映画で、ある高校の教師が、独裁をテーマに授業していたところ、生徒たちが退屈そうにしていたので、実際に独裁体制を設定し、生徒たちにも実践させていったところ、先生や生徒たちも知らぬ
最近、「ふしぎなキリスト教」という2012年度新書大賞を受賞していた本を読んだ。その中で、興味深い議論があったので紹介しておこう。日本は無神論者が多いように見られる。確かに、意識上においてはそうだろう。しかし、意識以前では、つまり日常生活のちょっとし
では、なぜこの推古朝の時期に「日本」の国号が決定したという学説が浮上するのか。東アジア全体の動向を探っていこう。よく7世紀の東アジアは、激動の時代と呼ばれる。例えば隋は、煬帝の時代に、冊封体制に入るのを拒否した高句麗征討に乗り出すことになる。しかし、煬
「日本」という国号はいつ名づけられたのだろうか。成立の時期には、諸説あり、有力なのは、天武・持統朝の時期と推古朝の時期の二つである。今回は、推古朝説について述べてみたいと思う。推古朝の説をとったとき、重要な史料がある。それは、誰もが一度は目にしたことが
文永の役と弘安の役の間の時期に、鎌倉幕府内で、高麗征討計画が浮上していた。健治元年12月8日付安芸国守護武田信時宛執権時宗・連署義政関東御教書の内容にはこうある。すなわち、異国征伐のため侵攻軍を組織するよう太宰少弐武藤経資に命じたので、西国御家人は兵を結集さ
今回は元寇についてである。ある程度テーマ性をもって書いたほうがいいと思うので、日本軍が元軍を撃退できた理由について書こうとおもう。 文永の役が起こる前の元の情勢から今回は話そう。元、すなわちモンゴル・ウルスは、ユーラシア大陸にその強大な領土を誇っていた。
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