飯能市の歴史を紹介します。『新編武蔵風土記稿』などを頼りに飯能市の神社仏閣、城館などを歩きます。
家紋研究家であり歴史ライターでもある高澤等が、飯能という地名の由来は何か?を考え始めたのをきっかけとして、飯能を歩きつつ独自に故郷の歴史を考えてゆきます。
飯能市赤沢に勝輪寺という寺院があった。背後に素戔嗚神社がある。明治の廃仏毀釈の波を受けて廃寺となり、跡地は小学校になった。いまはそれも廃校になり、分譲された住宅地である。跡地にはかつてのものと思われる石積みがあり、あまり広くない墓地が残されている。勝輪寺
飯能の街を見下ろす多峯主山から南へ降りる尾根筋(字前岩)に御嶽八幡神社がある。南側に切り立った岩場があり、山岳信仰の依代としては格好の場所である。地元では「おんたけさん」と呼ばれているらしい。創建年代は不明であるが、明治時代の初め御嶽教が盛んになり、丸田
飯能市大字下直竹にある長光寺は集落を流れる直竹川を前面に、日当たりのよく南向きに建てられた曹洞宗の寺院である。隣接する南高麗中学校からは元気な部活動の声が聞こえてくる。長光寺の創建は貞治五年(1366)、通海良義による開創と伝えられている。通海良義は奥州黒石
神明神社は川寺にある大光寺の東方にあり、周辺からも大きなケヤキが目印になる。境内には川寺自治会館があり、南北に長い川寺では今でも中心地的な位置にある。御祭神:天照大御神、大山祇命、大物主命、崇神天皇、保食命、軻具突智命、天御中主命、神倭盤礼彦命、倉稲魂命
東飯能駅と高麗駅の間に天覧山駅があった。 西武鉄道の前身である武蔵野鉄道により昭和6年(1931)に開設され、第二次世界大戦中(1941~1945)に実質廃止となったという。天覧山駅の名前が記されている旧天覧山駅の駅舎は西武鉄道に引き継がれた後の昭和29年(1954)頃ま
久須美の白鬚神社は名栗に向かう県道70号線が永田台へ上がる交差点を直進し、名栗川と共に大きく曲がるカーブを過ぎると右側に見えてくる。簡素な両部鳥居をくぐると正面に入妻作の拝殿がある。主祭神は猿田彦命で、他に素盞鳴尊、菊理媛命、宇迦之御魂神を祀る。久須美村の
2014年9月13日(土)~28日(日)まで、飯能市郷土館で、第17回飯能市小・中学校社会科研究展が開催されています。社会科研究展は始めて拝見しましたが、いずれ劣らぬ力作が並んでいます。郷土の研究から、世界へ目を向けた研究まで、夏休みに頑張った成果の結晶です。地元密
飯能駅北口から中山に伸びる道路を北上し、国道299号線中山陸橋西交差点のすぐ手前に小径がある。バイパスが出来るまでは私も良く利用した道だった。東側に数メートル上がると二叉の分岐点に「右江戸街道、左日光街道」の小さな標と馬頭観音があり、中央に石橋供養塔が建
飯能に在住した文学者として、平山蘆江(ひらやまろこう)は決して有名であるとは云えない。飯能に住む人々も、その名前さえ聞いたことがない方も多いのではなかろうか。それは飯能人との関わりの濃淡によるものでもあろう。もちろん日頃から『文藝飯能』を読むほど飯能文学
さて身内に不幸があり、楽しみにしていた飯能郷土史研究会の例会の日が本葬になり、本ブログも間が空いてしまった。しかもちょうど複数の仕事依頼も重なってしまい、身動きがとれない状況である。仕事が詰まっているときにはブログも書かないことにしているのだけど、身内の
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