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  • 日ごとの糧を(マタイ6;11 ルカ11;3)

    私達に必要な糧を今日与えて下さい。(マタイ6;11ルカ11;3)主の祈りは貧しい者の祈りだと教わった。今日食べる物を請い願わなければならない、無一物で飢え渇き、今日一日を生き延びるために切迫した、天の父なる神以外に何も頼るものが無い、貧しい者の祈りだと。『路上のうたホームレス川柳』ビッグイシュー日本編集部仕事も住む場所も無く公園やビルの隙間で雨風を凌ぎ炊き出しのカレーを貰って食べていると雨が降って来て雨がカレーにも降り注ぐ。今日食べる物が無くて公園にいると誰かが公園の鳩にパンの耳を投げ与えている。そのパンの耳、少しでいいからくれないか。思いながら空腹に耐え、じっと見つめる。誰かが同情してインスタントラーメンをくれても湯が無いからそのままがりがり齧るしかない。硬い、冷たい地面に敷いた段ボールと布団代わりに被る新聞...日ごとの糧を(マタイ6;11ルカ11;3)

  • 生きている時から死んだ親

    今朝読んだナウエン『放蕩息子の帰還』から二人の息子の父を考える。この父の苦しみを思い浮かべる。この父親は物凄く不幸だ。弟息子は父を捨てて出て行った。「お父さんあなたが死ぬまで待てない、あなたの遺産を今下さい。それらを処分する権利をも。」子供に金づるとしか思われず疎まれ見捨てられる親はどんな気持ちがするだろう。私の父ならその気持ちを知っていたに違いない。遠方に嫁す次女にまとまった金を渡し、婿と孫を連れていつでも会いに来いと言い、盆と暮れには高価な珍味を送り電話や孫の写真の入った手紙が来るのをいつも待っていた。次女と婿と孫と、一家で泊まりに来てくれて美味いものを食べさせて皆で昔の話をしたりあちこち案内して楽しませようと寝具一式を買い揃えていた。しかし何年経っても来ないのである時押し入れに収納したままの布団の綿を打ち...生きている時から死んだ親

  • 御父の宴の食卓

    今朝、待合室で読んでいたナウエン『放蕩息子の帰還』の9章で「祝宴に招き待ち続ける御父」の事を考えた。他者にも自分にも苦難と喜びとがある。他者との出会いの中で相手の苦難の方にばかり注目する心理はより深刻でセンセーショナルな三面記事を求めるのと同様だと筆者自身が告白している。他者の苦しみに共感し涙する事は大事な事であり、相手の直面する問題を深刻に考え人と話し合う事もある。ナウエンはそこから更に踏み出して、苦難を通じて見出される祝宴への招きとその喜びを共有する事について述べている。その章を読んで気づいた。どんな人との出会いにも言えるが、例えばここに移り住んで私が出会った二人の人達の言葉で表現し得ない苦しみの生涯を思い出し、私はこれまで彼らの苦難にばかり注目し泣いたり怒ったりしたがその先に示されたものがあり、私が彼らと...御父の宴の食卓

  • 家出しなかった兄息子

    ナウエン『放蕩息子の帰還』続きを読んだ。家出しなかった方の息子、家に居残って父に仕えていた兄息子に自分を当て嵌めてみる。実際、父の在宅介護中の私はほぼこの兄息子の心理そのものだったと言える。父は兄息子の偽りの従順を見透しているがそれでも一緒に宴会の席に着くように迎えに来る。帰って来た弟だけでなく兄息子をも迎えに来る父親。兄息子が父の招きに応じて宴会の席に着いたかどうか、書かれていない。父親はどうして、何を望んで息子達を宴会の食卓に招くのだろう。失われた息子は家出した息子ではなく家にいる息子だった。招きに応じる子供と応じない子供。親が元気だった頃の私自身は放蕩の弟息子同様だった。とにかく息苦しい家族の家から出る事しか頭になく実際進路を生家から離れた所に見つけて早く家を出て家族と距離を置いた。父が孤独死しかけた事を...家出しなかった兄息子

  • 父の家を出る弟息子の心理

    ナウエン『放蕩息子の帰還』続き。弟息子に自分を当て嵌めてみる。放蕩息子が父の家を出るに至った経緯を考えてみる。単なる放蕩だけであれば父親と絶縁して出て行く必要はなくいつまでも父親にたかる放蕩ニート息子でいてもよかった筈。弟息子はどうして家を出たか。彼が家を出たいと思うに至ったのは息苦しさとか兄息子との軋轢とかいろいろ想像できる。私自身がそうだったからだ。今はもう無い「家族の家」で私は物心つく前から窒息していた。ろくな思い出の一つも無い、陳腐な茶番のような家族。放蕩息子の問題は放蕩で金を使い果たした事ではなく差し伸べられる手を黙殺し家を出て「失われた者」となった事だ。失われた者は、見えない手で首根っこをつかまれ否応なしに帰還の道を辿らされる。父の家を出る弟息子の心理

  • 失われた自分を考える

    Youtubeでリュートの楽曲をかけ流している。昼間読んだナウエン『放蕩息子の帰還』の続きから、弟息子に当て嵌めて失われた自分を考える。失われた自分を考える

  • 失われた息子

    ナウエン『放蕩息子の帰還』の続き。福音書の譬え話(ルカ15;11~32)のタイトルは『放蕩息子』であるがこの箇所の主人公は弟でも兄でもなく、父であるという事。弟息子から愚弄され反発され金をたかられ家出される。「お父さん、あなたが死ぬまで待てないから今遺産を下さい」兄息子からは偽りの従順で仕えられ宴の食卓を拒絶される。「お父さん、あなたの傍でこんなに働いてきたのに弟には大宴会、しかし私には子山羊1匹すらくれない」失われた弟息子は放蕩の果てに身を持ち崩し飢えて戻って来た。「お父さん、私は天に対してもまたお父さんに対しても罪を犯しました。」(ルカ15;21)この台詞は腹が減っていたから出た処世術なのか本心なのか。飢えて頼る宛ても無く帰っては来たが、しかし父親の生前に遺産を要求する事は父親の死を願う事と同じ。遺産は親が...失われた息子

  • 内なる

    ナウエン『放蕩息子の帰還』を読み始めた時に付箋紙を貼った、序章の中の三つの語句を反芻する。“頭よりも心で聴く”“自分の内にある神の住まい”“内なる聖所”今はそこに注目している。内なる

  • 大宴会を辞退する

    今読んでいるナウエン『放蕩息子の帰還』の前の章、『大宴会』の譬え話を考える。ルカ14;15~24、大宴会の用意をした主人は招待客達が悉く都合を言って食を共にする事を断ってきた事に対し怒って・・・・ここまでは理解できる。しかしどうしてそこらの通りで食べるものも無くたむろする貧者達の誰でも彼でもを掻き集めてまでも宴を強行したか。宴会を取り止める事をしてもよかったのに。宴会への招待を蔑ろにした客達に文句言うとか抗議するとか招きに対して侮辱を返された事に怒って報復・・・ではなく何で「そこらの誰でも彼でも」を招いたか。招かれた食卓に着く事を拒む事の意味を考える。私自身は、宴会と名の付くものは何でもかんでも苦手で「欠席」「辞退」する事が多い。聖餐式のパンと杯以外での人と食卓を囲む「会食」は億劫で苦手だ。食い意地張っているく...大宴会を辞退する

  • 『放蕩息子』の章を脱線する

    通勤の行き帰りのバス待ち時間や車中でここずっとナウエンの『放蕩息子の帰還』を読んでいる。弟息子は年老いた父親が死ぬのを待ち切れずに請い願う。「お父さんあなたが死ぬまで待てません、私が相続する分の遺産を今下さい。遺産を自由に処分する権利も下さい。」老いた父親は、父を愚弄する弟息子を叩きのめす事はせず財産を兄弟に分けてやり、弟息子は出て行った。放蕩の限りを尽くし、有り金を全て使い果たしてしまって路頭に迷った弟息子は悔いて故郷に帰る。私は福音書のこの箇所を読んでいつも二つの光景を思い出す。過去に自分の目で見た、珍しくない二つの悲劇の光景。一つめ。「お父さん、私は天に対してもまたお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にして下さい。」と自分の台詞を諳んじ老父の怒りを受ける事を思...『放蕩息子』の章を脱線する

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