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志村建世のブログ http://blog.livedoor.jp/shimuratakeyo/

多世代交流のブログ広場

時事評論、随想日記を綴るとともに、創作を連載の形で発表する場としても利用しています。過去作の詩集「愛それによって」単行本「おじいちゃんの書き置き」「あなたの孫が幸せであるために」も、全文を掲載しています。現在連載中の著書は「少年期の戦中と戦後」です。  「ブログ連歌」は07年10月から始めています。誰でも自由に投句してください。エンドレスに続けてギネスに挑戦です。

志村建世
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2006/07/30

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  • ブログ再開します 志村建世

    パソコンの不具合により突然の中断をしていましたが、機器を更新して本日からブログを再開できることになりました。従前と変わらず、よろしくお願い致します。じつはパソコンの不具合とともに、本人も「コロナ」感染により、しばらくの間おとなしくしておりましたが、そち

  • 太陽が帰って来る

    冬至が過ぎて2週間ほどになった。居室の窓の上部に当る直射日光の幅が、1メートル近くにまで拡大してきた。南側に建つ学生会館が新築されるとき、長女の助言を聞きながら、少しでも北側斜線を低くするようにと交渉したのが、その後ずっと役に立っているのだと思う。太陽

  • 落ち着かない正月だった

    あまり正月らしくない、落ち着かない正月だった。家の中でも、ちゃんと「明けましておめでとう」の挨拶をしただろうか、記憶がない。正月は慣例で2日の新聞の発行がないから、正確なことがわかりにくいのもあるが、正月最初に編集されたであろう3日付の朝日新聞朝刊の大

  • 12月8日の一日遅れだが

    今年も「あの日」が巡ってきた。私は小学校(当時の名称は「国民学校」)の2年生だった。目が覚めて起きたときから、家の中が妙に騒がしかった。兄が興奮した様子で「米英軍と戦闘状態に入れり…」と、ラジオのニュースを繰り返していた。資料によれば、「大本営陸海軍部

  • 夢の中で母に会った

    今までに、ほとんど経験した記憶がないのだが、きょうの朝、目覚める前に、母親に会っていた。実際の母親とは、昭和48年(1973年)に死別しているのだから、それはちょうど50年前のことになる。母の死因は乳がんだった。本人はかなり早期に乳房のシコリに気づいていたのに

  • 中川・伊東トークライブで知った福田村事件

    大木晴子さん主催のライブ&トーク「希望をつなぐために語り・歌おう」を聞きに、渋谷の「LOFT9」へ、阿部めぐみさんに教えていただいて行ってきました。出演者は音楽家の中川五郎さんと伊東正美さん、司会が大木晴子さんでした。題名の通りに、今だからこそ西口のような

  • 佐藤愛子の「思い出の屑籠」を読んだ

    詩人サトウハチロー氏の妹(異母)に当る佐藤愛子の新著を読んでみた。百歳にして著書を出すということ自体が稀有のことと思われて、期待して買ってみた。が、読んでみての第一の印象は、やや外れというべきか、題名の通りの「屑籠」だなあ、ということだった。ちなみに検

  • 「国営ひたち海浜公園」へ行ってきました

    昨日は長女の発案で、茨城県の「ひちたなか市」にある「国営ひたち海浜公園」へ行ってきました。常磐線の勝田駅から直通のシャトルバスが通っており、列車も東京(品川・上野)から「ときわ」という特急が、水戸まで無停車で行くので、天気も上々の快適な旅でした。 あと

  • 間庭小枝さんの第24回「椰子の実コンサート」

    一昨日は、間庭小枝さんの「椰子の実コンサート」を聞きに、所沢の「市民文化センター・ミューズ」のキューブホール(下車駅は「航空公園」)へ行ってきました。椰子の実コンサートは第24回ですが、過去記事を調べたら、ご縁が出来てから、私はもう10年近くも続けて通って

  • ニッポン号の世界一周飛行

    前後の脈絡は何もないのだが、「ニッポン号の世界一周飛行」を思い出した。昭和14年に、日本の飛行機が世界一周飛行を成功させて、かなり話題になったのだった。私が6歳のときのことだから、子供心にすごいなと思ったのと、そのときに流行した「ニッポン号の歌」のメロデ

  • 吃音(どもり)を思い出した

    昼のニュースを聞いていたら、吃音(どもり)の話が出て来たので、自分も過去に悩んだことがあるのを思い出した。たぶん中学か高校の頃だと思うが、吃音が出そうで、なめらかに会話ができない経験をした時期があったのだ。たとえば、よく使っていた駒込(こまごめ)の駅名

  • 「続けて書こう」の実践

    「続けて書こう」と宣言しておきながら、一向に実践しないで一週間を過ごしているのでは話にならない。心身に異常があったわけでもなく、身辺に一大事が発生したのでもない。要するに怠けていると言う他はない現状である。 日常の生活としては、91歳の単身世帯としては、長

  • 「続けて書こう」の実践

    「やはりブログは続けて書こう」と言いながら、実行しないでいるのは良くない。1933年生まれの自分は、2023年の5月に90歳を超えた。その後も時間は一日ごとに過ぎて行く。 老人は、古いことを知っている。私が生まれた年、昭和8年には、中国に「満州国」が誕生した。中

  • やはりブログは続けて書こう

    やはりブログは続けて書こうと思った。一日の終りに、きょう何があったかを書き留めておくのは大切なことだ。それは日記を書くのが習慣だった、私の成人期の経験につながっている。大学の受験もそっちのけにして、毎晩にように長文の日記を書いていた私は、たしかにあの時

  • 中野サンプラザ最後の日

    中野サンプラザの閉館の時が、明日17日の月曜日に迫っている。館内の催し物は、すべて無料の出入り自由となっているので、午後の4時ごろに行ってみた。客席は、出入りや位置の選びに不自由しない6割程度の入りだったと思う。出し物は地元の学校関係、趣味の会、個別タレ

  • 中野サンプラザの閉館

    中野駅前にあるサンプラザが閉館した。ここの地下にあったボウリング場は、久しく私が毎週水曜日に通う場になっていたのだが、一足早く、この5月31日に行ったのが、私にとっての最終日になった。そして会館そのもが、昨日の7月2日の日曜日をもって閉館となったのだった

  • 豊島園の思い出

    遊園地だった豊島園が、ハリーポッターのテーマパークとして新装開店したようだ。豊島園は私にとっても思い出すことが多い。豊島園の創業は、大正15年だそうだから、私の誕生より9年も早い。まだ学齢前の幼いときにも、家族とともに訪れた、かすかな記憶がある。私は5人

  • 家に籠った雨の一日

    雨に籠った一日を、終日、家で過ごしている。その雨も、たいした雨ではない。無理をすれば、近所への出掛けは、傘がなくても用が足せそうな程度である。それでも、どこへ行くあてもない。 長くお世話になった、毎週水曜日の午後1時半、サンプラザ地下にあるボウリング場

  • 中野サンプラザとの別れ

    中野サンプラザが、この7月2日をもって閉館することになった。この施設には、長らくお世話になった。当面のおつきあいとしては、毎週水曜日に通っていた「ボウリング教室」が、私の近年の生活の大事な部分となっていた。教室と言っても堅苦しいものではなく、要するに仲

  • 90歳になっていた

    気がついたら、90歳になっていた。長女に「おめでとう」のお菓子をプレゼントされたのが、もう昨日のことになってしまった。90は漢数字で縦に書くと、「卒」の略字「卆」のように見えるから、昔から「卒寿」と呼ばれている。人生の卒業に近いようにも思われるが、私の身辺

  • 鯉のぼりの歌を思い出した

    かつて「鯉のぼりの歌」があったのを思い出した。五月になると、ラジオからも流れていたような気がする。学校で習ったのではなく、今もなんとなく覚えているので確かめてみた。甍(いらか)の波と雲の波重なる波の中空を橘かおるあさかぜに高く泳ぐや鯉のぼり開ける広きそ

  • ひとりぼっちの鯉のぼり

    タイミングを外して、やや季節外れの話題になってしまったが、今年の5月5日にも、屋上のポールに鯉のぼりを上げてみた。この鯉のぼりセットは、1991年に、最初の孫の誕生を祝って買ったことが、箱の蓋に書いてあった。その孫はすでに社会人になり、やや縁は薄くなっては

  • 久しぶりの西六郷少年少女合唱団

    昨日は、西六郷少年少女合唱団の定期演奏会に行ってきました。どこかで縁がつながっているようで、この時期になると案内のお知らせが来て、長女が気をきかせてチケットの購入手続きもしてくれていたのです。会場では、お互いに高年齢になってきた「みんなのうた熱中人」と

  • 10回「外れ」だった公団住宅

    きょうの朝日新聞土曜版「Be」の「サザエさんをさがして」は、1969年(昭和44年)の「公団住宅、また外れ」がテーマだった。この時代、私たちも住宅探しには苦労していた。当時は西池袋の、線路わきの四畳半アパートに住んでいた。生活の上では、幸いにしてテレビ拡張期だ

  • 桜満開の中野通り

    たぶん昨日のことだが(昨日のことなのに「たぶん」をつけなければならないのは不本意だが)、散歩に出て「春らんまんの中野通り」を見て来た。薬師公園のすぐ横にある歩道橋の上から眺めるのが、よい風景である。かなりの大木に育った桜の並木が、中野通りの両側に並んで

  • 夢に出てくる「わが生活史」

    人は眠っている間に、かなり多くの夢を見ているらしい。ただし、記憶に残っているのは、目覚めに近い時間帯に見た、最後のものに限られるようだ。自分が夢を見やすい体質なのかどうか、他人との比較も出来なのでわからないのだが、朝起きる直前まで見ていた夢が、その時点

  • 少子化の時代へ

    長らくブログは夜の寝る前に書くものだと思ってきたが、気がついたら書かずに寝てしまうことが多くなった。結果として2月には、たった一度しか書いてないことに気づいて愕然としたところだ。これでは訪問者が減ってくるのも当然である。自分の生活に「張り」がなくなるの

  • 満90歳が近づいている

    今年の5月になると、私は満90歳に到達する。90歳は、漢数字で縦書きした場合の字の形から、「卒寿(略字で「卆」とも書く)」と呼ばれるのだが、なんとなく卒業のような感じもある。一般的に見ても、今後に何かを期待するというよりも、「お疲れさま」と労わられて、機嫌

  • 強盗集団の登場を許すな

    年末に発生した中野区の集団強盗事件の犯人、7人組のうちの2人が逮捕されたということだ。強盗と言えば、一人でも自宅に入られたら怖いものだが、これが集団として襲ってくるというのだから、考えるだけでも怖い話だと思う。今までの日本には、なかった種類の犯罪だが、

  • 日本の少子化について

    国会での施政方針演説で、岸田首相が「出生率の反転を」と述べたことが、きょうの新聞に出ていた。日本の総人口は、2010年の1億2千800万人をピークとして、減少の時代に入っている。これは、私の家の現状とも符合している。 私は昭和8年(1933年)の生まれだが、上に兄

  • 阪神・淡路大震災の記憶

    朝の新聞を見て気がついた。阪神・淡路大震災が28年前にあった日だ。あの朝は、早朝から異様な雰囲気だった。東京にいて地震を感じた記憶はないのだが、朝のテレビでヘリコからの中継映像が流れ、「高速道路が倒壊しています」と伝えているのを見て衝撃だった。それでも肝

  • 「1969新宿西口地下広場・上映&トークの会」に行ってきた

    渋谷のLOFT9を会場とした、新宿西口地下広場をテーマとした会に行って、帰ってきたばかりです。吉岡忍さん、山城博治さんをメインゲストとし、そこに若い世代の研究者男女二人が参加し、大木晴子さんが総合司会者として全体をまとめる構成でした。会場は渋谷の「LOFT9・Sh

  • 間庭小枝さんの「第2回・見上げてごらん夜の星を」コンサート

    昨日は、所沢の文化センター「ミューズ・キューブホール」(下車駅は「航空公園」)へ、間庭小枝さんのコンサートを聞きに行ってきました。「第2回・見上げてごらん夜の星を」です。間庭さんのコンサートと言えば、秋に行われる「椰子の実コンサート」が定番で、昨年の10

  • 年始めの深大寺

    年の始めの雲一つない晴天の一日、長女の夫婦とその娘の夫婦、そしてそこに生まれた1歳8ヶ月になる長男と、そこに私が加わった6人で深大寺へ行ってきた。新年のお参りに行くという宗教的な感覚は、誰も持ってはいないのだが、車で行ける正月の行き先としては好ましく思

  • 今年最後の夕日

    今年最後の夕日が、先ほど西に沈んで行った。今はもう見ることができない。明日から新年つまり「来年」になるのだが、人との挨拶は、きっと「今年もどうぞよろしく」と言うに違いない。私たちは生きている限り、常に「いまの一瞬」にしかいられないのだから。 昔は「数え

  • 歳月は人を待たぬ

    「歳月は人を待たず」と言われる。原典は陶淵明の詩で、「雑詩」の中に出てくる「盛年重ねて来たらず、一日再びあしたなり難し、時に及んで当(まさ)に勉励すべし。歳月は人を待たず。」という言葉から来ているとのことだ。今年もあと明日の一日だけになった。日めくりカ

  • 金田義朗氏の新著「新・神話」

    旧知の人で畏友の金田義朗氏から、新著の送呈を頂いた。金田氏は旧・全繊同盟の教宣担当者として活躍された人で、私の事業草創期からお付き合いが始まった恩人でもあり、私とはほぼ同年代に当る。今は悠々自適の歳月を楽しんでおられるかと思っていたら、「神と人間の関係

  • サンタクロースが来ていた頃

    12月も半ばを過ぎて、テレビではちらほら、サンタクロースの話題も聞ける時期になりました。私の家にサンタクロースが来ていた時期の最後は、草加団地の隣接地に家を建てて、自立した制作の仕事を始めていた、60年ほど昔、昭和40年代の終り頃だったと思います。娘たちは、

  • 「あの日」から81年

    12月8日は、私にとってはいまでもやはり特別な日だ。いまから81年前のことになる。私は小学校(当時の名称では「国民学校」)の2年生だった。朝、目を覚ましたときから異様な雰囲気で、上の兄が、興奮した口調で「米英軍と戦闘状態に入れり」と、臨時ニュースの言葉を繰

  • 「……たら」「……れば」の戦い談義

    テレビでは、ワールドカップでのサッカーの試合結果についての談義を長々と繰り返している。日本チームは善戦したのだが、いま一歩のところで最後の8チームの中に残ることができなかった。その経過と原因と結果とを、いろいろな人が登場しては分析して語っている。聞いて

  • 曽孫(ひまご)が来ていた日曜日

    薄日が見えるときもあって、やや明るい曇りの日曜日、孫娘夫婦が子連れで遊びに来た。ふだんは静かな家の中が、そのおかげで活性化する。ふだんの何もない日曜日だと、私は朝の8時を過ぎても寝ている場合が多いのだが、きょうは予告されていたから、8時前に起きて居間に

  • 世界の総人口が100億を超える

    国連の推計によると、世界の総人口が、今月の15日に80億人に達したということだ。2010年8月からの12年間余で10億人増えたことになる。今後の見通しだと、2030年に85億人、2050年には97億人というから、あと30年ちょっとで100億人を超えるのは、ほぼ確実に思われる。 人

  • サッカーが「蹴球」だった時代

    昨今のテレビを見ていて改めて感じるのは、サッカーという競技の変貌である。私は高校の最後から大学の前期にかけて、「蹴球部」に在籍したことがある。きっかけは親友だった山本荘二の影響だった。年代で言うと昭和27年から30年あたりまで、ということになる。武蔵高校の

  • 晩秋の所感

    よく晴れた日で、午前の日当たりがガラス越しに暖かい。11月も半ばになったから、寒さもすぐ近くに来ているのだろうが、今の温かさが快適である。庭の柿の実の収穫も、手の届く範囲は順調に終わった。あとは休日の孫にでもやって貰おう。 区役所から、身辺についての問い

  • ご無沙汰しましたが

    ご無沙汰しましたが、無事に過ごしています。この日曜日には、私と次女と、運転担当の長女の息子との三人で、アクアラインを通って房州の鋸山まで行ってきました。ロープウェイで上がった山頂からは、西日に輝く東京湾越しに、案外に近い三浦半島が見えていました。私は、

  • 無人永久戦争の悪夢

    きょうの朝日新聞の第一面は「無人兵器・戦争は変わった」という大見出しで、「一翼じゃない、主力だ」という元防衛幹部の発言も添えてあった。ドローン(無人機)が、ウクライナ戦争では主力の兵器に変質しつつあるという指摘だった。AI(人工頭脳)を搭載して、自立的

  • 父・志村文蔵の短歌

    資料の整理をしていたら、志村文蔵の短歌の原稿が出て来た。昭和48年(1973年)1月に、短歌の合評会的なものに「特別社友」として参加していたらしい。この年に、父は78歳になった筈で、その年の6月には母と死別するのだが、この時点では、母の乳がんは顕在化していなかっ

  • 私には故郷がない

    古い資料の整理などをしていて、私の父には「ふるさと」があったということを実感した。静岡県の、安倍川上流で、甲州(山梨県)にも近い梅が島村大代(おおじろ)という山村が出生地である。「昔から志村という姓があったから、甲斐の武田の縁者だったのではないか」と父

  • ボウリングで、くたびれた

    水曜日の午後は「ボウリングに行く日」だから、きょうも行ってきた。コロナ騒ぎの最中だから、欠席する人も多くて、今回は左右のレーンに二人ずつの四人でプレイすることになった。こうなると、回転が早いから、理論上は場内にいた時間の半分は、自分のプレイ時間になる。

  • 間庭小枝さんの第23回「椰子の実」コンサート

    昨日は、招待状を頂いていた間庭小枝さんの「椰子の実コンサート・第23回」に行ってきました。このコンサートに行くようになったのは、いつからだったのか、ふと気になって調べたら、2014年に私が作詞した「この世にただひとり」の歌が、ネット上に出ているのに気がついた

  • 楽しい夕食になった

    雨の一日だったが、午後から夕方にかけて、孫息子の運転で「オリンピック」の高井戸店へ行って来た。外は雨だが、ここの構内に入ると雨とは無縁になる。同行したのは孫の親ではない私の次女の方だから、厳密に言うと三人ともそれぞれに別姓なのだが、この三人も、なかなか

  • パソコンが復旧しました~永訣の朝~宮沢賢治

    数日間不調になって、使えなくなっていたパソコンが、婿殿の休日の働きで復活しました。一時は、ここまでに書き溜めた「過去ブログ」の集積も消えたのかと思いましたが、こちらはすでにネット上に存在しているので、影響はないと言われて安心しました。 昨日の日曜日には

  • 国葬で「ごくろうさん」

    (熊さん)きょうは安倍さんの国葬だってね。(ご隠居)そのようだな、外国からの客人も来るようで、新聞には「弔問外交」なんて書いてあったな。(熊)安倍さんて、そんなに人気があったんですかね。(隠)それは何とも言えんが、在任も長かったし、外交辞令としたら知らん

  • 百歳になったとき書き上がる本はいかが

    きょうの朝日新聞によると、日本の「100歳以上人口」が、初めて9万人を超えたということだ。ただし男女別の比率は圧倒的に女性が優位で、全体の89%は女性だという。都道府県別では、島根、高知、鳥取の順になり、逆に短命なのは33年連続で埼玉県ということだ。 私は現在

  • 山本五十六の国葬

    昨今の国葬論議で、山本五十六提督の国葬を思い出している。それは昭和18年6月5日のことだから、私は小学(国民学校)4年生だった。山本五十六と言えば、ハワイ海戦を初めとして、勝利を導いてくれる大英雄だと思っていた。その人が「飛行機上にて作戦全般指揮中に、壮

  • 寝る前のたわごと

    また、ブログを書かないうちに夜の11時になってしまった。この時間になると、あきらめて寝てしまうのに抵抗感がなくなる。生命力の劣化と言い換えてもいい。 体調は決して悪くはない。持病と思っていた呼吸器の状況も安定して、処方薬なしの状況か続いている。しかし総合

  • われ行くや解き放たれて秋の風

    9月の最初の日になって、朝のうちに、ふと表題の句が頭に浮かんだ。誰かの既成の作品のような気がしてネット検索してみたのだが、今のところその気配がない。とは言うものの、いま自分が作ったと言うにしては、あまりにも自然に頭の中に出来ていた。なんだか不思議な気分

  • 蘇峰さんの思い出・その5(完)

    前記「病床の婦人秘書」に収録された百三十通の手紙の最後の一通には、日本語が一字もなく、すべて英語で書かれていた。差出人も受取人も日本人なのに、なぜこうなったのだろう。念のため再掲すると OhMy dear KimikoHoware you.RememberMe.  18.11.29(

  • 蘇峰さんの思い出・その4

    いま私は八十九歳になっている。蘇峰さんの名は知っていても、直接に会って話したことがあるという人は、もうあまり残っていないのではなかろうか。それだけに、中学生で蘇峰さんに面会できたのは、稀にみる貴重な経験だったと、今の私は思っている。 かつて蘇峰さんが

  • 蘇峰さんの思い出・その3

    八重樫さんのことが先行してしまったが、これは私が蘇峰さんとのかかわりを書く場だから、原点に立ち帰るにしよう。 私が蘇峰さんと直接に対面したのは、私が中学一年生だったときの一回だけである。蘇峰さんが晩年の住処とした「晩晴草堂」は熱海市伊豆山にあり、私は

  • 蘇峰さんの思い出・その2

    言論人としての蘇峰さんの業績については、どの資料を見ても「近世日本国民史」などの歴史関係の著作が取り上げられている。ところが不思議なことに、蘇峰さんの直弟子であった筈の私の父が、それらの著書を集めて読んでいたらしい場面を、一度も見たことがないのだ。無類

  • 蘇峰さんの思い出・その1

    本日から「蘇峰さんの思い出」を連載してみる。書いたのはこの6月の末ごろなので、受理された原稿が会報に掲載されたのはまだ見ていないのだが、見切り発車で、当ブログの読者には読んで頂きたくなった。熊本の蘇峰会には失礼かも知れないが、お許しを頂きたい。ただし縦

  • 徳富蘇峰の「新聞記者虎の巻」

    私の古い資料の中から、徳富蘇峰が私の父、志村文蔵に与えたという「新聞記者虎の巻」が出てきた。大正十二年(1923年)に、国民新聞社静岡支局長として赴任することになった父に、記者としての心得を説いている。特に筆を執って書き与えたものらしい。 記一、新聞記

  • 私にとっての終戦記念日

    少し日が過ぎてしまったが、8月15日は終戦記念日だった。終戦の当日、私は国民学校の6年生だった。夏休みの期間中だったとは思うが、学校は長期休暇にはなっていなかったと思う。正午からラジオで重大な発表があることは、前日から予告されていた。米軍機による空襲も、

  • 私にとっての太平洋戦争

    私にとっての太平洋戦争は、国民学校(「小学校」の当時の呼び名)の2年生の12月に始まり、6年生の8月に終わっている。だから小学生時代は、ほぼ戦争とともにあったと言ってもよい。ただし私たちが当時使っていた呼び名は「大東亜戦争」であって、「太平洋戦争」という

  • 蒸し暑い日だ

    蒸し暑い日だった。エアコンを効かせた家の中にじっとしていて、一日が過ぎて行った。居間の机の上には、長女が買ってきたクイズ雑誌が開いてある。私も嫌いではないから、けっこう集中して正解を考えることもある。答えがわかれば、すぐに回答欄に記入しておく。 すぐ横

  • 夜の寝る前にブログを書こう

    夜の、寝る前の時間にブログを書こうと、今日から思いついて実行する。私は少年期から壮年期に至るまで、かなりマメに日記を書いていた。高校3年のときには、頭の中でトグロを巻いた循環論を、なんとか解きほぐしたいと思い込んで、一か月で日記帳一冊を使い切ってしまう

  • 「休ブ届け」も出さずに休み

    「休ブ届け」も出さずに休んで、ついに月末近くになってしまいました。別に体調が悪かったということもありません。ただし酷暑が続いているようで、さすがに夏が好きの私も、ろくに外出もせずに過ごしています。ただし週に一度、水曜日のブロードウェイ地下での「ボウリン

  • 安倍銃撃直後の選挙

    東京地方は、すばらしい夏晴れの投票日になった。参議院の半数を改選する定例の選挙だが、投票率は常時よりも高くなりそうな気がする。安倍前首相が、街頭で演説中に銃撃されて死去したというのは、衝撃的な事件だった。どんな理由があれ、演説中の政治家を暴力で殺してお

  • 野方警察署も七夕飾り

    ふと気がついたら、すぐ近くの野方警察署の正面入り口に、立派な七夕飾りが立ててあった。例年これほどのものが立っていたという記憶はないから、誰かの思いつきで今年は採用されたのだろう。2階の高さを優に超える立派な竹を使っている。警察署と言えば、ふだんは厳めし

  • 松戸市民劇団公演を松戸市民劇場で見た

    昨日の日曜日、久しぶりに松戸市民劇団の公演を、松戸市の松戸市民劇場で見て来ました。久しく八柱にある劇舎(しばいや)ビル4階の稽古場で見てきたので、カンの悪い私は、会場が変わっていることに気づかず、一度は八柱へ行って「空振り」をし、お世話役を務めて下さっ

  • 長雨もなしに「梅雨明け」が来た

    今年は梅雨らしい雨降りを、ほとんど経験しないうちに「東京・関東地方の梅雨明け」が発表されてしまった。30度超えの「真夏日」が、これから当たり前のように続きそうである。天候は、適度の晴天と、時折りの降雨があってこそ万物が育つのだろう。干ばつと日照不足とは、

  • 最後の薬たち

    いつも食卓の上に出ている、一週間分の「お薬ボックス」です。きょうは日曜日、朝のうちに一日分の薬は飲みました。そして月曜と火曜のところにだけ薬が入っていて、あとは何もありません。5年以上も続いていた服薬が終るのです。毎日3種類を2錠ずつ、何を飲んでいたの

  • 病院からの卒業

    ほぼ5年間、継続してお世話になっていた東京警察病院呼吸器科での治療が、ついに「完治」の判定で終了になりました。前回に予定されてはいたのですが、今回のレントゲン撮影も、前回、前々回のものと比較して全く変化がなく、「これならいいですね」の判定になりました。

  • きょうは日曜日

    きょうは日曜日だから会社も休日になっている。私はもう現役ではないから勤務に関係はないのだが、家の中に働いている人がいないというのは、気持ちの休まるものである。その前日の土曜日、きのうの夕方には、久しぶりに家族5人で郊外のファミレスへ食事に行ってきた。内

  • 「蘇峰さんの思い出」について

    オモテのブログ書きを休んでいた間に、「蘇峰さんの思い出」の原稿を、どうやら書き上げた。無事に採用になったら、このブログにも再掲できるかも知れない。 関東・東京地方は梅雨に入ったそうで、それらしい雨と曇天が続いている。そんな中では、外へ出歩く気にもならな

  • 夏至に近い夕日

    本日午後6時50分頃、秩父連山の右端に入って行く夕日である。梅雨入りしたとかで雨の続く近ごろだったが、きょうはよく晴れていた。自分の小さなカメラでも、こんな太陽が撮れた。それだけのことなのだが、なんか嬉しい。 西方の浄土に、妻が先に行って待っていてくれる

  • 徳富蘇峰さんのラヴレター(5)

    前回で完結のつもりだったが、いくつかの書き残しを、この際に書いて置きたくなった。前述の「婦人秘書」の「編者の言葉」の最後に、私の父・志村文蔵は次のように書いている。 「祈美子さんについて語るならば、思い出は尽きません。が、それはすべてやめましょう。何故

  • 徳富蘇峰さんのラヴレター(4)

    そしていよいよ、通信は最終の130通目、「さらば、君よ」に到達する。ただしこのタイトルは、父の志村文蔵がつけたものに違いない。内容は見ての通り、横組みの英文で、日本語は一字も書かれていない。なぜこんな形になったのかを、私は考える。 明治の男として、「親愛な

  • 徳富蘇峰さんのラヴレター(3)

    ここで前後の事情を少し整理してみると、徳富蘇峰夫人の静子さんは、かなり以前に亡くなられていたのだった。すでに秘書として蘇峰さんの信用を得ていた八重樫さんは、自然に蘇峰翁の身辺の事務にまで気配りをする立場になって行ったと思われる。しかし蘇峰さんは文久3年

  • 徳富蘇峰さんのラヴレター(2)

    上の写真は、私の父・志村文蔵が昭和24年(1949年)9月に野ばら社から発行した蘇峰さんの書簡集である。内容は、蘇峰氏が秘書の八重樫祈美子(本名は君子)さんに宛てて書いた130通の手紙から成っている。書かれた期間は、昭和18年(1943)7月6日から11月29日までの5か

  • 徳富蘇峰さんのラヴレター(1)

    このブログが縁になったようで、「蘇峰の会・熊本」から、会報への寄稿依頼を頂いた。三千字から四千五百字程度というから、半端な枚数ではない。この6月中にという話なので、やや緊張している。ちなみに蘇峰氏は熊本の出身だから、地元では今も「郷土の偉人」のお一人な

  • 日本が縮んで行く

    日本の出生率低下が止まらない。昨年の出生率は、1.30と新聞に出ている。これは2.0のときに増減なしになる指数だから、かなりの速度で少子化が進行することになる。 私の家系を日本の縮図と考えると、父母の夫婦は5人の子を育てた。それに加えて、幼時に死んでしまった

  • 晴のち雷鳴、のち強雨

    午後4時過ぎ、東京西部の空は、晴天に雷鳴が轟いたと思う間もなく、急速に黒雲が広がって強雨に見舞われました。ただし長続きはせず、間もなく雨は止みましたが一面の黒雲は残っています。 昔は「雷が鳴ると梅雨が明ける」と言われたものですが、最近の気象は、少々荒っ

  • 比奈子さんのお墓2022

    自分で決めたことだから、早稲田の宗参寺にある比奈子さんのお墓に行ってきた。本日は、自分が一人だけだったから、かえって現地で落ち着いて過ごすことができた。お寺の水を貰って念入りに墓石を清め、かなり長い間、故人と会話していた。ただし墓石は「田村家」の名であ

  • 「こら」またやる

    今朝の、長女との会話である。なぜか、彼女が幼児だったころのことを思い出していた。「こら、またやる」というの覚えてる?と聞いたら、「なに、それ」と言う。もちろんわかるわけはない、彼女が幼児だったころの話なのだ。 皿をひっくり返して中身をぶちまけるような、

  • 5月25日は「比奈子さんのお墓に行ってみる」日

    明後日の5月25日は、「比奈子さんのお墓に行ってみる」日です。去年、そのように決めてみました。地下鉄東西線「早稲田駅」の都心方向出口から、午前11時に出発し、近くにある「宗参寺」の墓苑にある「田村比奈子」さんのお墓を訪ねます。私はそこで、自分で書いた「般若

  • 箱根にいた朝の残響

    昨日の朝、私は箱根にいた。姉の家族と私の家族が合同して4人、申し分のない環境のホテルのベランダで、鶯の声のフルコーラスを聞いていた。「ホーホケキョ」というのがフルコーラスだとすると、ケキョケキョの部分だけを繰り返すのは「鶯の谷渡り」というのだと覚えてい

  • 89歳になった日のボウリングスコア

    一昨日の5月18日、満89歳になった誕生日のボウリングスコアです。3ゲームやって、回ごとに点数が落ちているのは気に入りませんが、どうやら100点を切ることなく終了しました。私としては、「やや不調」レベルの成績だったと思います。球は、会場の備品の11ポンドを使って

  • 北欧2国のNATO入りを歓迎する

    スウェーデンとフィンランドの北欧2国が、NATO(北大西洋条約機構)に加盟の申請をすると伝えられている。いずれも北欧の有力な国で、平和国家のイメージがある。たまたま両国とも女性が首相を務めているというのも、私には好ましく思われる。フィンランドは長い国境線で

  • 雨傘の天気予報は「外れ」でした

    昨日の「雨傘の天気予報」は「外れ」でした。朝から暖かい日差しです。寒さが苦手の私は、夏らしい強い日光が感じられると、気分が上向きになります。 世界のどこかでは戦乱が続いていますが、少しでも早く平和が回復して欲しいと思います。 不戦を誓った日本国の憲法

  • お日さまが傘さした

    先刻、午後6時過ぎに、西の空に現れた「お日さまが傘さした」状況です。これが出ると、「翌日は雨」という、古くからの言い伝えがあります。科学的に説明してしまえば、「大気中に水蒸気が多い」ということなのですが、これを教えられたのは、いつのことだったでしょうか

  • とても大きい夕焼けだった

    きょうの夕焼けは、とても大きかった。地平線から天頂近くまでが夕焼雲になった。地平線が傾いているようにも見えるが、カメラは傾いていない。晴天ならば秩父連山が見える位置に、低い雲が右上がりの斜めに横たわっている。 きょうは いい日だったな と思う

  • 青空に鯉のぼり

    昨日のことだが、孫娘が子供を連れて遊びに来た。誕生日は私と2日違いの5月20日だったから、もうすぐ満1歳になる。つかまり立ちは、もうしっかり出来るようになっていた。天気も良かったから、屋上に鯉のぼりを上げてみた。

  • 軍艦島の思い出

    知床の海で沈んだ「カズワン」という船が話題になっているが、それに誘われて、長崎にある「軍艦島」のことを思い出している。私が訪ねたのは、連合の平和運動を取材していた時代のことになるが、今は世界遺産として登録されているこの島、正式には「端島」というのだが、

  • わが思い出のダットサン

    日産自動車から、ついに「ダットサン」の名が消えるという話が新聞に出ていた。ダットサンと言えば、私にとっては少年時代には小型国産車の代名詞だった。家業だった出版の「野ばら社」で、私は高校一年の16歳で自動車運転免許を取ったのだった。昭和24年(1949年)12月24

  • 沖縄が右側通行だったころ

    今朝のNHK朝ドラを見ていたら、沖縄のバスが、右側通行で右のドアから乗り降りしていた。とたんに、初めて沖縄へ行ったときのことを、ありありと思い出した。 あれは1975(昭和50)年、夏に沖縄で「海洋博覧会」があった年だった。長女が中学1年生で、私は42歳、NH

  • 沖縄が右側通行だった時代

    今朝のNHK朝ドラを見ていたら、沖縄のバスが、右側通行で右のドアから乗り降りしていた。とたんに、初めて沖縄へ行ったときのことを、ありありと思い出した。 あれは1975(昭和50)年、夏に沖縄で「海洋博覧会」があった年だった。長女が中学1年生で、私は42歳、NH

  • 「患者」でなくなる日が見えてきた

    定例になっている東京警察病院での定期観察に行ったら、思いがけない吉報を貰った。「経過がよいので、このまま落ち着けば完治ということで、次回(9週間後)で終りにしましょう」と言うのだ。いつから始まったか、もう忘れてしまうほど長く続いていた肺の患部が、ほとん

  • ロシア海軍の南と北、そして「海軍記念日」

    ロシア黒海艦隊の旗艦を務める巡洋艦が、ウクライナ軍のミサイル攻撃を受けて、火災を起こし沈没したというニュースが入ってきた。どういうことかと思って世界地図を出してみたら、改めていろいろなことがわかった。まず、ロシアとは基本的に内陸国だから、海とは中心から

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