膵臓がんと診断された著者。「抗がん剤別の副作用」「味覚障害でも食べられたもの」といった具体的な事柄を詳細に語る。示唆に富む内容が多く多くの方にオススメしたい、必読書だ。
2019年の食道がん告知から現在までの私の経験を紹介。抗がん剤・放射線療法、これらの副作用や治療内容を詳しく。闘病記だけでなく、おススメ本の書評、やってよかった、知らずに損したお役立ち情報も。
2019年8月24日に食道がん化学療法の2回目を終えて退院した。その後、8月末から9月にかけては2週間おきに血液検査などで通院したが、大きな問題は見つからなかった。そして10月、突然の胸の下部分の痛みが始まった。一時は救急外来にも行ったが、内視鏡検査の結果、単なる胃潰瘍だった。
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膵臓がんと診断された著者。「抗がん剤別の副作用」「味覚障害でも食べられたもの」といった具体的な事柄を詳細に語る。示唆に富む内容が多く多くの方にオススメしたい、必読書だ。
2019年初春に食道がんを告知され、化学放射線療法の治療を晩夏に終えた。2019年末時点で、副作用はまだ残っているが、特別な一年を終えようとしている。そこで、がんになってから思うこと、やったことなどをまとめてみた。
2019年8月24日に食道がん化学療法の2回目を終えて退院した。その後、8月末から9月にかけては2週間おきに血液検査などで通院したが、大きな問題は見つからなかった。そして10月、突然の胸の下部分の痛みが始まった。一時は救急外来にも行ったが、内視鏡検査の結果、単なる胃潰瘍だった。
土日を除く40gy/20回の放射線照射、2回に分けての4日間24時間連続の入院での抗がん剤を行った。抗がん剤終了後から半年間に経験した副作用について時系列でまとめた。
抗がん剤中、吐き気や副作用がいつ襲ってくるだろうかと不安に思っていた。医師や看護師に聞くと、すぐに「人それぞれですからねぇ」との答えばかり。わかってはいるのだが、大丈夫ですよとか、最終日くらいですかねぇ、などの一言が欲しかった。
2019年7月と8月に食道がん化学放射線療法を行った。抗がん剤(FP療法)で2回入院、入院時と通院で40gyの放射線照射を20回。これらの支出が約24万円だった。
食道がん抗がん剤2回目の退院は一日早かった。退院した日は、告知から169日目で5ヶ月と少し。最初の抗がん剤開始から、34日目。ここまで重大なことは無く順調だったと思う。
食道がん化学療法の入院2回目の3~4日目。放射線による喉の痛み、耳鳴り・吐き気・しゃっくり・便秘といった感じで副作用が酷くなってきた。心身ともに落ち着かないが、倦怠感や強い吐き気、終日ぐったりと横になることがないだけでもありがたい。
食道がん抗がん剤2回目の入院2日目。放射線照射でのどが痛く、朝から痛み止めが変わった。痛みが面から点に変わった。恐る恐る飲み込むことが前提だが、それでも嬉しい。また、この頃から耳鳴りが固定化した。
がんよりも仕事。最後まで女優を貫いた川島なお美。肝内胆管がんの治療法を探し求めたセカンドオピニオン。信頼できる医師と臨んだ腹腔鏡手術、夫への遺書。最後まで「川島なお美」を演じきった女優の生き様。
2019年8月19日、2回目の抗がん剤(FP療法)で入院。1回目の抗がん剤で吐き気や倦怠感がほとんどなかったため、今回もこれらの副作用については不安ではない。脱毛は抗がん剤一回目から始まっている。
化学放射線療法2回目の入院。木曜入院で各種検査を金曜にやって、土曜に一時外泊し日曜夜に戻る。放射線照射最終日・静脈カテーテル留置をやった。放射線の影響で出なかった声が出たが脱毛は続いている。
化学放射線療法2回目の入院。木曜入院で各種検査を金曜にやって、土曜に一時外泊し日曜夜に戻る。放射線照射最終日・静脈カテーテル留置をやった。放射線の影響で出なかった声が出たが脱毛は続いている。
告知後や手術前は不安や心が落ち着かない。そんな時のために自分自身で心を落ち着かせる方法を知っておく。ここではメタ認知・コーピング、そして5分後のことだけ決めるという3点を紹介。
告知されたら、誰でも頭の中が混乱します。私は「それほど遠くないうちに心は落ち着く」「2、3日以内に死ぬものではない」と、はっきり口に出して自分に言い聞かせました。
食道がんの抗がん剤・放射線療法での入院2回目だが、4月にESDで入院をしており合計で3回目。しかし入院1回目の化学放射線療法の副作用があり、今までとは違う。
グリーフケアとは。最愛の妻をがんで失った著者を襲ったのは想像を絶する悲しみ。死別の悲嘆とは?立ち直るためにどうすればいいかなど、グリーフケアについてがん専門医がまとめた。
2019年7月18日から土日を除く20回の放射線照射、7月22日から4日間24時間連続の化学療法を行った。ここでは、いつから副作用が始まったのか、開始3週間までについてまとめた。
放射線照射7回目が終わった頃に副作用としてのどの痛みが始まった。照射12回目が終わって、声がほとんど出なくなった。15回目頃には首の部分に赤みが出てきた。ここでは、放射線副作用の初期の頃の状況についてまとめた。
食道がん抗がん剤1回目の入院中から便秘は続いていたが、退院4日目からひげが生えず、退院12日目にどっさりと脱毛した。副作用が本格的に始まった。
土日を除く40gy/20回の放射線照射、2回に分けての4日間24時間連続の入院での抗がん剤を行った。抗がん剤終了後から半年間に経験した副作用について時系列でまとめた。
抗がん剤中、吐き気や副作用がいつ襲ってくるだろうかと不安に思っていた。医師や看護師に聞くと、すぐに「人それぞれですからねぇ」との答えばかり。わかってはいるのだが、大丈夫ですよとか、最終日くらいですかねぇ、などの一言が欲しかった。
2019年7月と8月に食道がん化学放射線療法を行った。抗がん剤(FP療法)で2回入院、入院時と通院で40gyの放射線照射を20回。これらの支出が約24万円だった。
食道がん抗がん剤2回目の退院は一日早かった。退院した日は、告知から169日目で5ヶ月と少し。最初の抗がん剤開始から、34日目。ここまで重大なことは無く順調だったと思う。
食道がん化学療法の入院2回目の3~4日目。放射線による喉の痛み、耳鳴り・吐き気・しゃっくり・便秘といった感じで副作用が酷くなってきた。心身ともに落ち着かないが、倦怠感や強い吐き気、終日ぐったりと横になることがないだけでもありがたい。
食道がん抗がん剤2回目の入院2日目。放射線照射でのどが痛く、朝から痛み止めが変わった。痛みが面から点に変わった。恐る恐る飲み込むことが前提だが、それでも嬉しい。また、この頃から耳鳴りが固定化した。
がんよりも仕事。最後まで女優を貫いた川島なお美。肝内胆管がんの治療法を探し求めたセカンドオピニオン。信頼できる医師と臨んだ腹腔鏡手術、夫への遺書。最後まで「川島なお美」を演じきった女優の生き様。
2019年8月19日、2回目の抗がん剤(FP療法)で入院。1回目の抗がん剤で吐き気や倦怠感がほとんどなかったため、今回もこれらの副作用については不安ではない。脱毛は抗がん剤一回目から始まっている。
化学放射線療法2回目の入院。木曜入院で各種検査を金曜にやって、土曜に一時外泊し日曜夜に戻る。放射線照射最終日・静脈カテーテル留置をやった。放射線の影響で出なかった声が出たが脱毛は続いている。
化学放射線療法2回目の入院。木曜入院で各種検査を金曜にやって、土曜に一時外泊し日曜夜に戻る。放射線照射最終日・静脈カテーテル留置をやった。放射線の影響で出なかった声が出たが脱毛は続いている。
告知後や手術前は不安や心が落ち着かない。そんな時のために自分自身で心を落ち着かせる方法を知っておく。ここではメタ認知・コーピング、そして5分後のことだけ決めるという3点を紹介。
告知されたら、誰でも頭の中が混乱します。私は「それほど遠くないうちに心は落ち着く」「2、3日以内に死ぬものではない」と、はっきり口に出して自分に言い聞かせました。
食道がんの抗がん剤・放射線療法での入院2回目だが、4月にESDで入院をしており合計で3回目。しかし入院1回目の化学放射線療法の副作用があり、今までとは違う。
グリーフケアとは。最愛の妻をがんで失った著者を襲ったのは想像を絶する悲しみ。死別の悲嘆とは?立ち直るためにどうすればいいかなど、グリーフケアについてがん専門医がまとめた。
2019年7月18日から土日を除く20回の放射線照射、7月22日から4日間24時間連続の化学療法を行った。ここでは、いつから副作用が始まったのか、開始3週間までについてまとめた。
放射線照射7回目が終わった頃に副作用としてのどの痛みが始まった。照射12回目が終わって、声がほとんど出なくなった。15回目頃には首の部分に赤みが出てきた。ここでは、放射線副作用の初期の頃の状況についてまとめた。
食道がん抗がん剤1回目の入院中から便秘は続いていたが、退院4日目からひげが生えず、退院12日目にどっさりと脱毛した。副作用が本格的に始まった。
食道がん抗がん剤(FP療法)の4日目からの3日間のまとめ。想定していた大きな副作用や体調の変化はなかった。詳しい抗がん剤の副作用や身体の変化についてまとめた。
食道がん抗がん剤3日目。一日中、点滴に繋がれているだけで治療に変化はない。副作用がいつ始まるか不安だが、吐き気としゃっくりが短時間あっただけだ。
がん闘病中は断捨離をしよう。普段より時間があり、自分自身を見つめられる時期だからだ。今回は詳しい実践方法を書いた。残る家族に迷惑をかけないためにも断捨離だ。私は食道がん告知から1年半後に一通りの治療を終え、その頃から断捨離を開始。遺る家族に迷惑をかけたくない一心だった。