小学部1年だったある日、父が「正人、ヘリコプターに乗ってみたいか?」と突然言い出した。長島スパーランドでヘリコプターの搭乗体験のイベントがあるとラジオで聞いた…
重度の身体障害がある鈴木正人(すすきまさひと)のブログ 1972年生まれ、三重県松阪市に暮らしています。 普段僕は車イスで生活をしています。 自分のこれまでの人生をまとめてみました。
小学部1年だったある日、父が「正人、ヘリコプターに乗ってみたいか?」と突然言い出した。長島スパーランドでヘリコプターの搭乗体験のイベントがあるとラジオで聞いた…
僕が4歳頃の話。当時、庭にはポリバケツほどの穴があった。その穴は砂場遊びが好きだった僕のために父が掘ったものだ。遊びは進化して、父は穴と屋根からつながる雨樋パ…
僕が生まれて1歳になった頃から、鈴木家ではお伊勢参りに行くようになった。父と母と僕の3人で外宮と内宮をお参りするのだ。僕が生まれてから3人で出掛けることが少な…
クラブは活動が可能な学年(小学部4年生から高等部)の皆で同じものを行う。週に1回、40分。金曜日の6時間目にする。学期ごとに活動内容が決まっている。1学期の活…
小学部から卒業するまで、ずっと学校の送迎バスに乗って通学していた。 僕らが乗っていた頃の送迎バスは、普通のバスと同じだった。段差があって、車椅子を固定する場所…
5年生のキャンプは4年生のときよりも、もっと楽しかった。今年はじめて、中庭でテントを張った。ユキベーと一緒のテントだった。夜の8時半にテントに入った。けど、時…
小学部6年の頃、送迎バスの中で先輩のマーシー(田中雅士)が「中学部は明日からテストなんさ」と話しかけられた。僕は「何のテスト?」と聞くと「保健体育」とマーシー…
僕は早く4年生になりたかった。4年生になって、やりたいことがたくさんあったのだ。まずは泊まりキャンプ。そして、生徒会に立候補することだ。クラブ活動も4年生から…
僕の学校には送迎バスがある。高等部に入るまでは、僕も送迎バスの座席に座っていた。送迎バスを運転するのは、三重交通の運転手だ。毎日、固定の慣れた人が運転する。そ…
松阪駅までは問題なく着けた。しかし、最大の難関が待っていた。ホームから出口に行くためには連絡通路を渡らなければならないのだが、当時の松阪駅にはエレベーターが無…
26歳の春、職員の山田さんから「ちょっと話しがあるんやけど」と呼び出された。山田さんがこんな感じで僕に声をかけるときは、大体何か企んでいるときなのだ。「マーシ…
何とか自宅から一人で駅まで着けた。しかし電車に乗るのは久しぶりだった。僕が小さい頃は、母と一緒に毎週電車で津まで訓練に行っていた。母が車の免許を取ってからは電…
高校生のときに「一人暮らし」というタイトルの詞を書いた。そして誰かこの詞に曲をつけてくれないかなぁと温めてきていたのだが、これはその念願が叶ったときの話だ。 …
安全地帯のライブの魅力にハマった僕はその後、玉置浩二のソロ活動のライブに毎年行く事になる。安全地帯のメンバーがソロのサポートをしていたりもしたけど、やっぱり安…
中二か中三のとき、養護学校の帰りに友人の雅士の家によく寄っていた。雅士の家の前で送迎バスから一緒に下ろしてもらっていた。僕の母と雅士の母は仲が良かったので、母…
僕が二十歳くらいのときだった。安全地帯がライブツアーで名古屋に来るらしいから、行ってみたらどうかと母が提案してくれた。考えてもいなかったのでとてもびっくりした…
僕は普段は邦楽ばかり聞く方なのだが、一回だけ洋楽にはまったことがある。 それは中学二年生のときのこと。当時の保健体育の先生に、ある洋楽のミュージシャンのことを…
小学校6年生のとき、ある先生が安全地帯の横浜スタジアムのライブ映像を持っているよ、と言ってくれた。そしてLDからベータにダビングしてくれた。この85年の横浜ス…
安全地帯を最初に知ったのは小学5年生。音楽番組の歌のベストテンを見たときだ。「ワインレッドの心」を演奏していたが、そのときは全然興味を持てなかった。 好きにな…
以前も書いたけど僕は安全地帯のファンである。その安全地帯のドラマーの田中裕二さんが先日亡くなったというニュースを見た。 田中裕二さんの存在を初めて知ったとき、…
小学校5年生のときにH2Oの「思い出がいっぱい」が流行っていた。僕はその曲を家の自分の部屋で聞きたくなり、ラジカセを買ってもらおうと思った。 母に相談したとこ…
親が突然、ライブに行こうと言った。 「来生たかお(きすぎたかお)が今度、志摩に来るから行かないか」と言ってくれた。 でも僕はその人のことを知らなかったので、母…
今回からしばらく、音楽に関する出来事を書いていきます。僕は今、「ふくろ」というアーティスト名で音楽制作をしています。興味を持たれた方はHPがあるので覗いてみて…
毎年三学期になると近くの高校の吹奏楽部が演奏をしにきてくれた。小学校一年生で初めて演奏を聴いたが、それが、生で楽器の演奏を聴く初めての体験だった。 たくさんの…
僕の学校には送迎バスがある。高等部に入るまでは、僕も送迎バスの座席に座っていた。送迎バスを運転するのは、三重交通の運転手だ。毎日、固定の慣れた人が運転する。そ…
4年生になるとキャンプがある。場所は学校の中。夜は学校内の部屋で眠る。日中は普段通りの授業がある。3年生までの生徒たちはいつも通り下校する。4年生より上の学年…
僕の27歳の頃のことだ。ある日、父が手を怪我した。僕は普段、父に入浴の介助をしてもらっていたので、夜お風呂に入れなくなってしまった。僕が「どうしようか」と母に…
小5の頃の担任の先生は算数を担当していた。中西先生だ。顔全体にやけどの痕があって、少し強面だった。授業中は厳しい人だった。僕は算数が苦手だった。もう5年生だっ…
小学3年生の時に担任になった山下先生にとてもお世話になった。先生との出会いによって、生きていく上での知恵を教わった。僕にとって第二の成長が出来たと思っている。…
成人式の式場までは親と行った。僕から親に送るよう頼んだのだ。式場に着いてから、「ここからは僕だけで行かせて」とお願いした。いつも親と一緒にいるけれど、大人にな…
僕は小さい頃、冬にはこたつの中でとんび座り(女の子座り、割座ともいうのかな)をしていた。今ではこの座り方は風呂でしかしないが、当時はこたつの中でもとんび座りを…
冬休みのある日、母が幼稚園の頃の友達を家に招いた。僕の母の思いは、中学生になったらみんなばらばらになって会えなくなってしまうから、会えるうちに会っておこう、と…
3~5年生にかけて毎年、無人島に行っていた。志摩にある多徳島というところで朝日新聞主催のキャンプが行われた。親が応募して参加することになった。 親子での参加だ…
冬休みのある日、母が幼稚園の頃の友達を家に招いた。僕の母の思いは、中学生になったらみんなばらばらになって会えなくなってしまうから、会えるうちに会っておこう、と…
僕の家は昔から農家だった。祖父母、曽祖父の代は専業農家で田畑を手広く営んでいた。父の代になり兼業農家となったが、年中畑仕事で忙しくしていた。昔は牛の飼育もして…
【電動車イス「スター」で街に出る その2 ミスタードーナツの二人の店員さん 番外編23~24才】
行き慣れたミスタードーナツが無くなってしまった。 しかし、この話には後日談がある。 お店が無くなってから1~2カ月経ったある日、僕は一人で街中を電動車椅子で歩…
【電動車イス「スター」で街に出る その2 ミスタードーナツの二人の店員さん 後編 23~24才】
ミスド通いに慣れてきたころ、山田さんが「じゃあ次はお店の人に食べさせてもらったら?」と言った。「え?!」と僕は思った。そんなこと店員さんがしてくれるわけがない…
僕の父は手先が器用で、モノ作りが得意な人だった。家の壊れた箇所や、道具などなんでも自分で直してしまう。僕はそんな父のことを「すごいなぁ」と思っていた。僕が4才…
【電動車イス「スター」で街に出る その2 ミスタードーナツの二人の店員さん 中編 23~24才】
希望の園に帰るとスタッフの山田さんが「ちゃんと買えた?」と言うので、何とか買えたけど、文字盤の使い方をわかってもらえなくて苦労したことを伝えた。僕は山田さんに…
【電動車イス「スター」で街に出る その2 ミスタードーナツの二人の店員さん 23~24才】
街に一人で出掛けることにも慣れてきた頃、僕は希望の園のスタッフの山田さんに「駅前のミスタードーナツに行きたいな」と何気なく話した。すると山田さんは「一人で行っ…
電動車イス「スター」で街に出る その1 行きつけの喫茶店「幹」での思い出 23~24才
希望の園職員山田さんの勧めがあり、はじめは園の近所を散歩してみた。いつも誰かに車イスを押してもらっていた道だけど、自分ひとりで進んでいる。それだけで楽しかった…
22歳の夏、訓練合宿を終えた僕は、電動車イスに乗って希望の園に通うことになった。当時の希望の園は、松阪市内の街中にある障害者福祉センターの中にあり、形態は小規…
いよいよ「三重県身体障害者総合福祉センター」にて電動車イスの訓練が始まった。2カ月、平日は泊まり込みだ。初乗りはセンター内の体育館だった。訓練にはセンター職員…
家族会議の結果、電動車イスは自腹で買うことになった。 早速、希望の園で電動車イスを購入することを相談してみたところ、ほとんどの職員は「え!?難しんじゃないの?…
1994年、22歳の時、希望の園で奈良県にある施設「たんぽぽの家」へ見学に行った。当時僕等は15人ほどのメンバーだったが、そこはとても大きな施設で希望の園の1…
僕は度会養護学校に小学部1年から高等部3年まで12年間通った。その中で、思い出に残っている行事がある。それは月に1回、学校の回りを散歩する「歩行会」というもの…
アンコウと文字盤、ふたつのツールで僕の世界は広がった。 数学の授業では、計算機を使うようになった。キーが押しやすいように大きめの計算機を用意してもらったのだが…
自分の意思を伝えたくても伝えられない。もどかしい気持ちを抱えた僕に大きな転機が訪れた。中学2年の時、担任になった冨岡先生と言語訓練の中川先生との出会いだ。2学…
僕の言葉はとても聞き取りにくく、思い通りに人に伝えることができるのは「はい」「ちがう」「おはよう」「ありがとう」「トイレ」「もういいよ」の6語くらいだ。頭の中…
師走も押し迫った27日。いとこの家に遊びに行くため、僕と母は出かける準備をしていた。母は僕を車に乗せるため、部屋のガラス戸の方へ僕をズリズリと引きずり寝かせた…
【野球の話し ~ジャイアンツからスワローズへ~ 1992年 20歳頃】
ジャイアンツ一筋だった僕は1992年の20歳の時、とあるドキュメンタリー番組を見た。放送していたのはヤクルトスワローズの古田捕手の特集だった。初めはスワローズ…
【ドラゴンズのキャンプを見に宮崎へ(後編)小学部3年 1981年 】
ホテルにチェックインし、部屋で休んでから夕飯となった。畳敷きの宴会場にドラゴンズのファンが集まっていた。ジャイアンツファンは僕一人。「チェ!」と心の中で思って…
【中日ドラゴンズのキャンプを見に宮崎へ(前編)~小学部3年 1981年~ 】
野球に興味を持った小3の僕に、父が「中日ドラゴンズのキャンプを見学するツアーが宮崎県であるよ。もしかしたらチラッと巨人のキャンプも見れるかもしれへんぞ。行って…
1981年の小学部3年生になり、野球に興味を持った。きっかけは度会養護学校でお世話になった2人の先生だった。まずは担任だった山下先生。学生時代は野球をやってい…
小学3年生のころの話。度会養護学校でリハビリ訓練の時間だった。その日は車椅子から降りて、地べたに正座し、バランスを保つ訓練をしていた。僕の後ろに介助の方が入り…
6歳になるまで、僕は「はい」「ちがう」「じゃー(おしっこ)」「うう(うんこ)」の4語ぐらいしか発音ができなかった。言葉は理解していたし、伝えたいこともちゃんと…
【基本の「き」その2 ~スクールバスでの試練~ 小学部1年】
度会養護学校の小学部1年生になった僕は、毎日スクールバスで学校に通った。家の近くにあるバス停まで歩いて行き、母も学校まで一緒に乗車していた。片道45分の道のり…
入学式当日、僕らは体育館に集まった。校長の挨拶の後、クラス分けの発表と担任の紹介があり、僕らは男子3人のクラスになった。草の実の訓練で一緒だった親友の幸弘(ユ…
幼稚園も卒園の頃、母から「小学校は、みんなとは違う学校に行くのよ」と言われた。僕は当時津市にある草の実で訓練を受けていたので、となりにある「城山養護学校(現城…
楽しい幼稚園の生活の中で、忘れられない思い出がある。6歳のときの初恋の話しだ。 相手は僕の隣の席の女の子。いつもお洒落で可愛いMちゃん。入園してすぐに僕たちは…
生まれたときから市民病院で訓練をし、忙しかった僕は近所の人と知り合う機会も少なかった。そんな時、僕にはじめて健常者の友達ができた。となりの家に住む同じ年の男の…
自分史なので、産まれた頃の話しから始めるべきなのですが、まだまとまっていません。僕の記憶で覚えているのは2歳ころからなので、ここから始めたいと思います。産まれ…
「僕は死んで生まれた 呼吸もせずに生まれ落ちた お医者様の懸命な措置のおかげで なんとか命を手に入れたけれども、手に入れなかったものが いくつかあった」 これ…
「ブログリーダー」を活用して、鈴木正人さんをフォローしませんか?
小学部1年だったある日、父が「正人、ヘリコプターに乗ってみたいか?」と突然言い出した。長島スパーランドでヘリコプターの搭乗体験のイベントがあるとラジオで聞いた…
僕が4歳頃の話。当時、庭にはポリバケツほどの穴があった。その穴は砂場遊びが好きだった僕のために父が掘ったものだ。遊びは進化して、父は穴と屋根からつながる雨樋パ…
僕が生まれて1歳になった頃から、鈴木家ではお伊勢参りに行くようになった。父と母と僕の3人で外宮と内宮をお参りするのだ。僕が生まれてから3人で出掛けることが少な…
クラブは活動が可能な学年(小学部4年生から高等部)の皆で同じものを行う。週に1回、40分。金曜日の6時間目にする。学期ごとに活動内容が決まっている。1学期の活…
小学部から卒業するまで、ずっと学校の送迎バスに乗って通学していた。 僕らが乗っていた頃の送迎バスは、普通のバスと同じだった。段差があって、車椅子を固定する場所…
5年生のキャンプは4年生のときよりも、もっと楽しかった。今年はじめて、中庭でテントを張った。ユキベーと一緒のテントだった。夜の8時半にテントに入った。けど、時…
小学部6年の頃、送迎バスの中で先輩のマーシー(田中雅士)が「中学部は明日からテストなんさ」と話しかけられた。僕は「何のテスト?」と聞くと「保健体育」とマーシー…
僕は早く4年生になりたかった。4年生になって、やりたいことがたくさんあったのだ。まずは泊まりキャンプ。そして、生徒会に立候補することだ。クラブ活動も4年生から…
僕の学校には送迎バスがある。高等部に入るまでは、僕も送迎バスの座席に座っていた。送迎バスを運転するのは、三重交通の運転手だ。毎日、固定の慣れた人が運転する。そ…
松阪駅までは問題なく着けた。しかし、最大の難関が待っていた。ホームから出口に行くためには連絡通路を渡らなければならないのだが、当時の松阪駅にはエレベーターが無…
26歳の春、職員の山田さんから「ちょっと話しがあるんやけど」と呼び出された。山田さんがこんな感じで僕に声をかけるときは、大体何か企んでいるときなのだ。「マーシ…
何とか自宅から一人で駅まで着けた。しかし電車に乗るのは久しぶりだった。僕が小さい頃は、母と一緒に毎週電車で津まで訓練に行っていた。母が車の免許を取ってからは電…
高校生のときに「一人暮らし」というタイトルの詞を書いた。そして誰かこの詞に曲をつけてくれないかなぁと温めてきていたのだが、これはその念願が叶ったときの話だ。 …
安全地帯のライブの魅力にハマった僕はその後、玉置浩二のソロ活動のライブに毎年行く事になる。安全地帯のメンバーがソロのサポートをしていたりもしたけど、やっぱり安…
中二か中三のとき、養護学校の帰りに友人の雅士の家によく寄っていた。雅士の家の前で送迎バスから一緒に下ろしてもらっていた。僕の母と雅士の母は仲が良かったので、母…
僕が二十歳くらいのときだった。安全地帯がライブツアーで名古屋に来るらしいから、行ってみたらどうかと母が提案してくれた。考えてもいなかったのでとてもびっくりした…
僕は普段は邦楽ばかり聞く方なのだが、一回だけ洋楽にはまったことがある。 それは中学二年生のときのこと。当時の保健体育の先生に、ある洋楽のミュージシャンのことを…
小学校6年生のとき、ある先生が安全地帯の横浜スタジアムのライブ映像を持っているよ、と言ってくれた。そしてLDからベータにダビングしてくれた。この85年の横浜ス…
安全地帯を最初に知ったのは小学5年生。音楽番組の歌のベストテンを見たときだ。「ワインレッドの心」を演奏していたが、そのときは全然興味を持てなかった。 好きにな…
以前も書いたけど僕は安全地帯のファンである。その安全地帯のドラマーの田中裕二さんが先日亡くなったというニュースを見た。 田中裕二さんの存在を初めて知ったとき、…
4年生になるとキャンプがある。場所は学校の中。夜は学校内の部屋で眠る。日中は普段通りの授業がある。3年生までの生徒たちはいつも通り下校する。4年生より上の学年…
僕の27歳の頃のことだ。ある日、父が手を怪我した。僕は普段、父に入浴の介助をしてもらっていたので、夜お風呂に入れなくなってしまった。僕が「どうしようか」と母に…
小5の頃の担任の先生は算数を担当していた。中西先生だ。顔全体にやけどの痕があって、少し強面だった。授業中は厳しい人だった。僕は算数が苦手だった。もう5年生だっ…
小学3年生の時に担任になった山下先生にとてもお世話になった。先生との出会いによって、生きていく上での知恵を教わった。僕にとって第二の成長が出来たと思っている。…
成人式の式場までは親と行った。僕から親に送るよう頼んだのだ。式場に着いてから、「ここからは僕だけで行かせて」とお願いした。いつも親と一緒にいるけれど、大人にな…
僕は小さい頃、冬にはこたつの中でとんび座り(女の子座り、割座ともいうのかな)をしていた。今ではこの座り方は風呂でしかしないが、当時はこたつの中でもとんび座りを…