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徳川家康公ファンの歴史ブログ https://www.ieyasu.blog/

「徳川家康公関連サイトNo.1!」を目指すブログです。敬愛する家康公や徳川家臣団に関する史跡巡りや解説・考察などメインに、関東のマイナーな歴史スポット等も紹介できたらと思います。

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2018/09/04

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  • 東急株主限定企画『懐かしの東急8000系ツアー』に行ってきました

    東急株式会社傘下の伊豆急行が開催する、株主限定企画『懐かしの東急8000系ツアー』に行ってきました。 伊豆急行線で活躍中の8000系車両に、東急線で走っていた時代のラッピングを施した特別仕様の電車に乗車して、伊豆急行線の伊豆高原駅〜伊豆急下田駅間を往復するという企画です。

  • 本證寺(愛知県安城市)|三河一向一揆以前に本多正信が通っていた寺

    本證寺は、愛知県安城市にある浄土真宗・真宗大谷派のお寺です。 徳川家康公の無二の参謀・本多正信は若かりし頃、この本證寺に通っていました。 今回は、そんな正信が若い頃に通っていた寺院・本證寺をご紹介いたします。

  • 小川的場丘城跡(愛知県安城市)|家康公の名参謀・本多正信の出生地?

    本多佐渡守正信ほんださどのかみまさのぶとは、徳川家康公に天下を取らせた名参謀であり、その信頼の厚さは家康公に「友」と呼ばれるほどでした。 家康公と正信の仲は、周囲からも「水魚の交わり」と評されたほど、家康公に信頼されていた謀臣です。

  • 堀秀政陣跡(愛知県長久手市)|「桧ヶ根の戦い」で秀政が布陣した場所

    堀秀政陣跡の記念碑は、愛知県長久手市の桧ヶ根公園内にあります。 秀政は「小牧・長久手の戦い」における「桧ヶ根の戦い」で、徳川方の榊原康政勢や大須賀康高勢らを破りました。 ですがその直後、色金山に布陣していた徳川家康公が御旗山に移動して金扇の馬印を立てると、それを見て戦況の不利を悟り撤退しました。

  • 御旗山(愛知県長久手市)|「桧ヶ根の戦い」後に徳川家康公が布陣した場所

    御旗山は「小牧・長久手の戦い」における「桧ヶ根の戦い」での徳川方敗北の報せを受けた徳川家康公が、色金山から陣を移した場所です。 御旗山は「桧ヶ根の戦い」で勝利した直後の羽柴方・堀秀政の陣からすぐ近くにあり、御旗山に家康公が立てた金扇の馬印を見た秀政は形勢の不利を悟り、分断された池田恒興・元助勢と森長可勢からの援軍要請を無視して撤退しました。

  • 長久手城跡(愛知県長久手市)|「岩崎城の戦い」の最中に焼き討ちにされた城

    長久手城は、戦国時代後期に長久手村一帯を領有していた加藤忠景の居城です。 忠景は天正12年(1584年)の「小牧・長久手の戦い」において、岩崎城主の丹羽氏次から岩崎城を任された弟・丹羽氏重の元で「岩崎城の戦い」に参加し、城兵もろとも討死しました。

  • 鎧掛松・血の池公園(愛知県長久手市)|「長久手の戦い」後に槍や刀の血を洗い落とした池の跡

    『血の池公園』は「長久手の戦い」後に、徳川家康公の家臣・渡辺守綱らが血のついた槍や刀を洗ったと伝わる池の跡地です。 その際、脱いだ鎧をかけた松が『鎧掛松』です。 現在『血の池』は埋め立てられて『血の池公園』となっており、池だった面影は一切ありません。

  • 武蔵塚(愛知県長久手市)|「長久手の戦い」で討死した森長可の供養塚

    『武蔵塚』は「長久手の戦い」で討死した、羽柴方の森長可ながよしの供養塚です。 長可は羽柴方として「小牧・長久手の戦い」に参戦し、天正12年(1584年)4月9日に徳川家康公率いる軍勢と激突し、現在の『長久手古戦場跡』周辺にて討死しました。 長久手古戦場エリアの史跡巡りに便利な、無料のレンタサイクルを借りられる長久手市郷土資料室からすぐ近くにあります。

  • 勝入塚・庄九郎塚(愛知県長久手市)|「長久手の戦い」で討死した池田恒興・元助父子の供養塚

    『勝入塚』は「長久手の戦い」で討死した、羽柴方の池田恒興の供養塚です。 『庄九郎塚』は同じく「長久手の戦い」で討死した、恒興の嫡男・池田元助の供養塚です。 恒興と元助は羽柴方として「小牧・長久手の戦い」に参戦し、天正12年(1584年)4月9日に徳川家康公率いる軍勢と激突し、現在の『長久手古戦場跡』周辺にて討死しました。

  • 長久手古戦場跡(愛知県長久手市)|徳川家康公が秀吉に勝利した「小牧・長久手の戦い」の局地戦が行われた地

    徳川家康公が羽柴秀吉と直接対決した合戦「小牧・長久手の戦い」。 互いににらみ合いを続けているうちに秀吉が和平工作を行い、その後の飛躍も考えると政治的には秀吉が勝利した合戦と言えます。 ですが、合戦そのものでは家康公が羽柴軍に勝利したのをご存知ですか? 「小牧・長久手の戦い」は合戦の期間が長引いた上に、交戦地点も複数あって複雑なのですが、まずは「長久手の戦い」が行われた「長久手古戦場跡」をご紹介します。

  • 大光院新田寺(群馬県太田市)|徳川家康公が建立した新田源氏の祖・新田義重の菩提寺

    大光院新田寺は、新田源氏の末裔を自称した徳川家康公が、その祖先とした新田義重の菩提を弔うために建立した寺です。 大光院に現存する吉祥門は、徳川方が「大坂の陣」にて大坂城を落城させ豊臣家を滅亡させた日に上棟されました。 そのため、縁起が良いとして家康公に『吉祥門』と名付けられました。

  • 東照宮御遺訓は後世の創作だった!?|本当の徳川家康公御遺言とは?

    今日、徳川家康公の御遺言として伝わるものに『東照宮御遺訓』があります。 これは「人の一生は重荷を負て遠き道を行くがごとし。急ぐべからず……」という出だしで有名ですね。 ですが、実は後世の創作だとする説があるのをご存知ですか? 今回は『東照宮御遺訓』と「家康公が遺した本当の御遺言」について、まとめました。 「日光東照宮や久能山東照宮、他には上野東照宮などでも境内に掲示されている『東照宮御遺訓』が偽物の訳ないだろう」とお思いの方も、ぜひ最後までご覧になってみてください。

  • 小山御殿広場(栃木県小山市)|徳川将軍が日光東照宮社参時に宿泊した小山御殿跡

    小山御殿広場は、2代将軍・徳川秀忠、3代将軍・徳川家光、4代将軍・徳川家綱が、徳川家康公を祀る日光東照宮に参拝へ行く際に使用していた『小山御殿』のあった地です。 小山御殿は元和2年(1622年)に、2代将軍徳川秀忠によって建てられました。 御殿とはいうものの、その実態は東西64m・南北100mに渡る敷地の内外に16ケ所の番所を設置し、周囲には2重の土塁を配し、さらにその外側を水掘りで囲むという、平城のような構造でした。

  • 世良田山長楽寺(群馬県太田市)|家康公が庇護した徳川家と東国の禅文化発祥の地

    前回の記事では、徳川家発祥の地とされる場所にある世良田東照宮をご紹介しました。 今回は、その世良田東照宮を境内に建てた長楽寺をご紹介します。 長楽寺は、徳川家康公の側近の1人・南光坊天海が住職を務めた事もありました。 元々は臨済宗の寺として承久3年(1221)に、新田義重の四男・新田義季(後世、家康公が源氏の末裔を名乗る際に徳川家の開祖とされた)が、臨済宗の開祖である栄西の高弟・栄朝を招いて開基しました。 そのため、長楽寺は東国における禅文化発祥の寺であり、常時500人もの学僧が研学修行に励んでいたと言われています。

  • 世良田東照宮(群馬県太田市)|最初の日光東照宮社殿が現存する徳川家発祥の地

    金ピカの豪華絢爛な社殿で有名な日光東照宮ですが、実は最初から今の社殿ではありませんでした。 2代将軍・徳川秀忠が家康公を祀るために建てた最初の日光東照宮は、家康公の遺言により質素な社殿でした。 その後、3代将軍・徳川家光が今の金ピカ日光東照宮に建て替えたのですが、その時に最初の社殿は移築されました。 今回は、その日光東照宮の最初の社殿が現存する、世良田東照宮をご紹介いたします。

  • 須賀神社・小山評定之碑(栃木県小山市)|徳川家康公による小山評定が行われた場所

    慶長5年9月15日(1600年10月21日)、美濃国不破郡関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)にて、徳川家康公率いる東軍と石田三成ら西軍が「関ヶ原の戦い」を行いました。 「関ヶ原の戦い」の約3ヶ月前、慶長5年7月25日(1600年9月3日)下野国しもつけのくに小山おやまに布陣していた家康公は、豊臣軍の諸将を集めて軍議を開きます。 この「小山評定おやまひょうじょう」により結束した東軍は、反転して西へ向かい進軍していきます。 今回は「小山評定」が行われた場所である須賀神社をご紹介いたします。

  • 幕府って何?|鎌倉幕府・室町幕府・徳川幕府(江戸幕府)の違いとは?

    歴史の教科書や各種歴史本から大河ドラマなどの時代劇に至るまで、とてもよく目にする「幕府」という言葉。 ですが「そもそも幕府とは何なのか?」実はよく分からない、とは思いませんか? また、日本史には3つの幕府が登場しますが、鎌倉幕府・室町幕府・徳川幕府(江戸幕府)それぞれにどういう違いがあるのでしょうか?

  • 小山評定跡碑(栃木県小山市)|徳川家康公が「関ヶ原の戦い」前に開いた伝説の軍議とは?

    小山評定跡碑は、栃木県小山市中央町1丁目1-1にある記念碑で、同地は「小山評定」が行われた地です。 日本史上最大の野戦合戦「関ヶ原の戦い」の直前に、上杉討伐軍(会津討伐軍)を反徳川勢力討伐軍に転換させた「小山評定」が行われました。 まさに、関ヶ原の戦い開戦前の見所の1つがここで行われたのだと思うと、感慨深いものがあります。

  • 住吉神社(東京都中央区佃)|佃煮の発祥には徳川家康公が関係していた?

    住吉神社は東京都中央区佃にある、徳川家康公ゆかりの神社です。 家康公と住吉神社のある佃島の村人たちとの縁は、天正年間に家康公が清和源氏ゆかりの霊廟・多田院を参拝する際に、摂津国・田蓑島の漁夫達が漁船に家康公を乗せて神崎川を渡った所から始まります。 しかし、家康公と佃村の村人たちの出会いにはもう1つの説があります。 その縁は天正10年(1582年)に起きた「本能寺の変」からの「神君伊賀越え」にさかのぼるそうです。

  • 徳川家康公騎馬武者像(愛知県岡崎市)|珍しい騎馬武者姿の家康公銅像

    徳川家康公騎馬武者像は、家康公が松平姓から徳川姓に改姓した25歳当時の姿を模した銅像です。 日本最大級の騎馬像であり、家康公の銅像としてはおそらく唯一の騎馬武者姿の銅像です。 令和元年11月2日に完成したため、現在最も新しい家康公の銅像ではないでしょうか。

  • 松本潤さん主演・2023年大河ドラマ『どうする家康』情報まとめ

    令和5年(2023年)の大河ドラマは『どうする家康』に決定しました。 主人公の徳川家康公役は、嵐・松本潤さんが演じます。 このページでは『どうする家康』関連情報を随時まとめていきます。

  • 曹洞宗金寳山安心院(愛知県岡崎市)|源義経との悲恋『浄瑠璃姫伝説』

    曹洞宗金寳山安心院は愛知県岡崎市にある、源義経ゆかりのお寺です。 名鉄名古屋本線「東岡崎駅」下車徒歩5分、徳川家康公の産土神を祀る六所神社のすぐ近くにあります。 岡崎の家康公ゆかりの地巡りをする際は、ぜひ六所神社と共に訪れてはいかがでしょうか。 なお、安心院は家康公の忠臣・成瀬家ゆかりの地でもあります。

  • 六所神社(愛知県岡崎市)|徳川家康公の産土神を祀る松平家ゆかりの神社

    六所神社は、松平家初代・松平親氏の時から産土神として信仰されてきました。 松平家9代目となる徳川家康公の産土神として拝礼が行われたのも、この六所神社です。 古くは征夷大将軍・坂上田村麻呂が、東征の折に祈願しました。 境内の社殿等は徳川幕府三代将軍・徳川家光が造営した当時の物が現存しています。

  • 徳川家康公の読書術|実は読書家だった家康公、何を読んでいた?

    今回は、徳川家康公がどんな書籍を読んでいたかについてまとめました。 家康公は読書家であり、本から多くを学び、それが軍略や治世にも活かされています。 では、家康公はどんな書籍を読んで、何を学んでいたのでしょうか。 家康公が手がけた図書館事業や出版事業とあわせて、ご紹介いたします。

  • 徳川家康公の和歌一覧|家康公の詠んだ和歌とは? どんな和歌を詠んだ?

    今回は、徳川家康公が詠んだ和歌を特集します。 和歌は奈良時代末期に成立した『万葉集』など、日本における伝統芸能でも特に古い歴史を持ちます。 そんな和歌は詠み手の人間性や価値観、経緯や背景、理想や信念が滲にじみ出るものではないでしょうか。 家康公が詠んだ和歌から、家康公の人柄に迫ってみたいと思います。

  • 徳川家康公ゆかりの地めぐり:浜松編|家康公ゆかりの地を1日で観光するモデルコース

    徳川家康公は元亀元年(1570年)に三河国・岡崎から本拠地を移して以降、天正14年(1586年)に本拠地を駿河国・駿府に移すまでの17年間、遠江国・浜松を本拠地としていました。 今回は、そんな浜松の家康公ゆかりの地を巡るツアープラン・モデルコースをご紹介いたします。

  • 江戸時代の料理再現|徳川家康公の死因?「鯛の天ぷら」再現レシピ

    今回は、徳川家康公が亡くなった原因だと言われている『鯛の天ぷら』の再現レシピに挑戦しました。 『鯛の天ぷら』といっても江戸時代初期に家康公が召し上がったものは、今日の一般的な『鯛の天ぷら』とは違ったレシピだったようです。 当時は鯛や食用油が貴重であり、天下人であっても天ぷらを食べる機会は少なかったようですが、現代を生きる私たちは簡単に挑戦できます。

  • 三方ヶ原古戦場(静岡県浜松市)|徳川家康公の生涯唯一の惨敗「三方ヶ原の戦い」

    三方ヶ原古戦場は、若き日の徳川家康公が軍神・武田信玄に真正面から野戦合戦を仕掛け、生涯唯一の惨敗を喫した「三方ヶ原の戦い」が行われた古戦場跡です。 元亀3年(1572)12月22日、家康公の居城・浜松城の北に広がる三方ヶ原台地にて、徳川・武田両軍が激突しました。 この敗北が、後の家康公を作り上げていく大きなターニングポイントとなりました。

  • 江戸時代の料理再現|豚鍋『青天を衝け』渋沢栄一が西郷隆盛と食べた鍋料理に挑戦

    今回は、大河ドラマ『青天を衝け』第15話にて、主人公の渋沢栄一が西郷隆盛に振る舞われた鍋料理『豚鍋』の再現に挑戦しました。 放送直後からTwitterなどで「美味しそう」と話題になった『豚鍋』ですが、再現レシピを探しても中々見つかりませんでした。 そこで、情報の隙間を想像力で埋め合わせて、再現料理に挑戦してみました。

  • 太刀洗の池跡(静岡県浜松市)|家康公正室・築山殿(瀬名姫)を斬首した刀を洗った池

    太刀洗の池跡は、徳川家康公の正室・築山殿(瀬名姫)を斬首した刀を、池の水で洗ったと伝わる跡地です。 織田信長による「信康切腹事件」の際に、築山殿は徳川家家臣の岡本時仲と野中重政に自害を迫られますが、これを拒みました。 結果、築山殿は重政に斬首され、享年38歳でこの世を去りました。 その折、重正は刀に付いた血をこの地にあった池の水で洗い流したため、大刀洗の池と呼ばれるようになったそうです。

  • 宗源院(静岡県浜松市)|「三方ヶ原の戦い」で討死した成瀬正義らが眠る寺

    宗源院は、静岡県浜松市にある曹洞宗のお寺です。 宗源院には、徳川家康公の忠臣で「三方ヶ原の戦い」にて討死した成瀬正義の墓所があります。 また、同じく「三方ヶ原の戦い」にて徳川勢の旗手を務め、その撤退戦の最中に討死した外山正重の墓所もあります。

  • 西来院(静岡県浜松市)|徳川家康公の妻・築山殿(瀬名姫)の墓所

    西来院は、静岡県浜松市にある曹洞宗のお寺です。 西来院には徳川家康公の正室・築山殿(瀬名姫)の霊廟「月窟廟」があります。 築山殿は近年だと、大河ドラマ『おんな城主直虎』にて菜々緒さんが演じて話題になりました。

  • 広沢山普済寺(静岡県浜松市)|「三方ヶ原の戦い」で家康公が焼いた寺

    広沢山普済寺は、静岡県浜松市にある曹洞宗のお寺です。 「三方ヶ原の戦い」で武田信玄に敗れた徳川家康公は、命からがら浜松城に逃げ帰りました。 その晩、家康公は普済寺を焼いて「浜松城が燃えている」と武田勢に思わせ、油断させました。 その直後、犀ヶ崖付近で夜営していた武田勢に対して、大久保忠世らが率いる徳川勢が夜襲をしかけます。 結果、武田勢に痛手を負わせることに成功し、家康公は信玄に一矢報いました。

  • 夏目次郎左衛門吉信の碑(静岡県浜松市)|「三方ヶ原の戦い」で家康公への恩を返して討死した忠臣

    夏目次郎左衛門吉信の碑は、静岡県浜松市にある犀ヶ崖古戦場の向かいにある記念碑です。 夏目吉信は徳川家康公の家臣でしたが、三河一向一揆の際には他の家臣らと共に離反して家康公に刃を向けました。 しかし捕縛された際、家康公の寛大な処置により許されます。 この時の恩義を忘れなかった吉信は、後年「三方ヶ原の戦い」において、家康公が武田信玄に敗れて浜松城へ逃げ帰る際に、家康公の身代わりとなって武田勢と戦い、犀ヶ崖の近くで討死を果たしました。

  • 本多肥後守忠真の碑(静岡県浜松市)|「三方ヶ原の戦い」で家康公を守るために討死した忠臣

    本多肥後守忠真の碑は、静岡県浜松市にある犀ヶ崖古戦場の一角にある石碑です。 本多忠真は徳川家康公の家臣で、あの本多忠勝の叔父です。 忠真は「三方ヶ原の戦い」において、家康公が武田信玄に敗れて浜松城へ逃げ帰る際に、殿(しんがり)を務めてこの地で討死を果たしました。

  • 犀ヶ崖古戦場(静岡県浜松市)|徳川家康公が武田信玄に一矢報いた合戦

    犀ヶ崖古戦場は静岡県浜松市にある、古戦場です。 徳川家康公が武田信玄に野戦を挑むも惨敗し、浜松城まで逃げ帰った「三方ヶ原の戦い」。 その敗走の晩に、徳川勢が武田勢の夜営地を夜襲しました。 今でも、その急峻な崖に古戦場としての趣を感じることができます。

  • 浜松城(静岡県浜松市)|徳川家康公が17年間過ごした「出世城」

    浜松城は静岡県浜松市にある城跡です。 元亀元年(1570年)、徳川家康公は岡崎城から本拠地を移して以降、天正14年(1586年)に本拠地を駿府城に移すまでの17年間に渡り、この浜松城を本拠地としていました。 今回は合計117枚に及ぶ写真を余すことなく掲載して、浜松城の魅力を大特集いたします。

  • 元城町東照宮(静岡県浜松市)|徳川家康公と豊臣秀吉の銅像が並ぶ神社

    元城町東照宮(もとしろちょうとうしょうぐう)は、静岡県浜松市にある神社です。 戦国時代に引間城(曳馬城)があった地に、明治19年(1886年)に建立されました。 かつて、浜松城を本拠地とした徳川家康公を祀っています。

  • 椿姫観音(静岡県浜松市)|徳川家康公と一戦交えて討ち死にした女性

    椿姫観音(つばきひめかんのん)は静岡県浜松市にある御堂です。 引間城(後の浜松城)城主・城主飯尾連竜の死後、その妻・お田鶴の方は城を守るために徳川家康公と一戦交え、そして討ち死にしました。 椿姫観音は、そのお田鶴の方を祀る御堂です。

  • 浜松八幡宮(静岡県浜松市)|敗走した徳川家康公が逃げ隠れた雲立楠

    浜松八幡宮は静岡県浜松市にある神社です。 徳川家康公が「三方ヶ原の戦い」で武田信玄に惨敗し、敗走する際に逃げ隠れた雲立楠が現存しています。 また、浜松城の鬼門を護る神社でもあります。

  • 徳川秀忠誕生の井戸(静岡県浜松市)|二代将軍・秀忠出生の地

    徳川秀忠誕生の井戸は、静岡県浜松市にある秀忠の生誕地とされる場所です。 秀忠誕生の時に産湯として使われた井戸が、この辺りにあったそうです。 残念ながら現在は残っておらず、再現された井戸がある状態です。

  • 遠江分器稲荷神社(静岡県浜松市)|坂上田村麻呂・源頼朝・徳川家康公ゆかりの神社

    遠江分器稲荷神社は静岡県浜松市にある神社です。 古くは征夷大将軍の坂上田村麻呂が東夷征伐の折に神馬を奉納し、源頼朝公が神馬と幣帛を奉納し、徳川家康公が松平忠頼に命じて修造したという由緒があります。 また、家康公を支えた徳川四天王の一人・本多忠勝の屋敷跡が隣にありました。

  • 本多忠勝屋敷推定地(静岡県浜松市)|徳川家康公を支えた徳川四天王最強の武将

    本多忠勝屋敷推定地は、徳川家康公が岡崎城から浜松城に本拠地を移して以降、その家臣・本多忠勝の屋敷があったと思われる場所です。 現在の静岡県浜松市にあります。 忠勝はその生涯において、合戦では無傷だったと伝えられています。

  • 五社神社・諏訪神社(静岡県浜松市)|二代将軍・徳川秀忠の産土神

    五社神社・諏訪神社は、静岡県浜松市にある神社です。 五社神社は、戦国時代初期の曳馬城主・久野越中守が城内に創建したのに始まり、後に徳川家康公が三男・徳川秀忠の産土神としました。 諏訪神社は、奈良時代の征夷大将軍・坂上田村麻呂が東征の折に奉斎したのに始まり、こちらも後に家康公が秀忠の産土神としました。

  • 橘樹郡家跡第32次調査現地見学会に行ってみた感想(川崎市)

    昨日、川崎市教育委員会が行った『橘樹郡家跡第32次調査現地見学会』に参加してみました。 今回は、その概要と感想をまとめたいと思います。 橘樹郡家(たちばなぐうけ)とは、かつて武蔵国橘樹郡にあった郡家の事です。 郡家は、飛鳥時代以降の律令制度において、郡の官人(郡司)が政務を執った役所でした。 田租や正税出挙稲を保管する正倉や、宿泊所などから構成されていました。

  • 宗仲寺(神奈川県座間市)|家康公お手植えの銀杏が残る家康公ゆかりの寺

    浄土宗来迎山峰月院宗仲寺は、徳川家康公ゆかりの寺であり、家康公がお手植えされた銀杏の木が現存しています。 家康公が、鷹狩りの際に立ち寄ったとの言い伝えが残されています。 また、元和3年(1617)家康公のご棺を駿府の久能山東照宮から日光東照宮に移動する際は、この宗仲寺で休憩しました。

  • 昌平坂学問所跡|『新編武蔵風土記稿』を編纂した徳川幕府の学問所

    昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)は、地誌『新編武蔵風土記稿』や『新編相模国風土記稿』を編纂した、徳川幕府直轄の学問所です。 寛政2年(1790年)、神田湯島に設立されました。 正式名称は「学問所」であり「昌平黌(しょうへいこう)」とも称されました。

  • 多摩川浅間神社|源頼朝の妻「尼将軍」北条政子ゆかりの地

    多摩川浅間神社は、東京都大田区にある神社です。 多摩川浅間神社の創建は、鎌倉幕府を開いた源頼朝公の妻・北条政子が頼朝出陣の後を追って同地を訪れた際の出来事に由来しています。 文治年間(1185年〜1190年)に創建されました。 また、近年では映画『シン・ゴジラ』のロケ地としても有名です。

  • 源頼朝公落馬地|源頼朝公の死因は? なぜ死んだ? 怨霊説!?

    今回は神奈川県平塚市にある史跡『源頼朝公落馬地』を訪れました。 2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』は鎌倉幕府執権・北条義時が主人公ですが、その物語は源頼朝公亡き後の鎌倉幕府における「御家人13人による合議制」が舞台です。 では、その鎌倉幕府を開いた源頼朝公は、なぜ亡くなったのでしょうか? その死因は何だったのでしょうか?

  • 『麒麟がくる』室町幕府「最後の将軍」第15代将軍・足利義昭のプロフィール

    絶賛放送中の大河ドラマ『麒麟がくる』が各所で話題ですが、いよいよ後の第15代将軍となる足利義昭が登場しました。 今まで出家して覚慶と名乗っていましたが、第25話「羽運ぶ蟻」にてついに還俗して、足利義昭と名乗り始めます。 日本史の授業では散々な評価の将軍として説明を受けた記憶がありますが、この『麒麟がくる』ではどういう将軍として描かれるのでしょうか?

  • 『麒麟がくる』足利義輝討死シーンの掛け軸「八幡大菩薩」とは?

    大人気放送中の大河ドラマ『麒麟がくる』2020年9月20日放送の第24回「将軍の器」冒頭にて、室町幕府第13代将軍・足利義輝(演:向井理さん)が襲撃を受け、壮絶な討ち死にするシーンが放送されました。 この義輝の討死シーンで、甲冑の後ろにかけられていた掛軸には「八幡大菩薩」と書かれていました。 「八幡大菩薩」とは、一体何でしょうか? 今回は、この「八幡大菩薩」という言葉の意味について、まとめてみました。

  • 扁額コレクション|扁額とは? 神社仏閣の鳥居や本堂の上にある看板

    扁額とは、神社の鳥居や社殿、寺院の本堂などに掲げられている看板のことです。 扁額の読み方は「へんがく」です。 扁額のうち、特に神社の扁額は神額、寺院の扁額は寺額と呼びます。 また、天皇の直筆による扁額は勅額と呼びます。 この記事では、筆者がこれまで訪れた神社仏閣で見つけた扁額をひたすら紹介いたします。

  • 雲光院(東京都江東区)|徳川家康公側室の才女・阿茶局の菩提寺

    今回は東京都江東区にある、浄土宗龍徳山雲光院を訪れました。 雲光院は徳川家康公の側室・阿茶局の発願により、慶長16年(1611年)に増上寺の高僧であった潮呑上人を開山上人として開創されました。 阿茶局の法号である「雲光院」の名が、そのまま寺の名称となっています。

  • 白幡八幡大神|徳川秀忠が関ヶ原の戦いや大坂の陣で戦勝祈願した禰宜舞(ねぎまい)

    江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』によると、二代将軍・徳川秀忠が「関ヶ原の戦い」や「大坂の陣」の折に戦勝祈願のために「禰宜舞(ねぎまい)」を舞わせた神社との事です。 この「禰宜舞」は一子相伝にて代々受け継がれ、今日でも毎年7月と9月に披露されています。 今日を生きる私たちが、400年前に家康公や秀忠が祈願した舞を観ることができる――歴史ロマンあふれる魅力を感じます。

  • 中原御殿跡(神奈川県平塚市)|裏門が現存する徳川家康公の御殿跡

    今回は徳川家康公が江戸と京都を往来する際に宿泊した、中原御殿の跡地を訪れました。 中原御殿は、平塚から江戸城虎ノ門を繋ぐ中原街道筋に建てられた御殿です。 現在、中原御殿の跡地には石碑『相州中原御殿之碑』が建立されているのみですが、中原御殿の裏門が近隣にある善徳寺の三門として移築されて現存しています。

  • 「守護・地頭」「守護大名・守護代」「戦国大名」「譜代大名・外様大名」の違いとは?

    現在大人気放送中の大河ドラマ『麒麟がくる』でも、ドラマ内で「守護大名」や「守護代」という言葉がたびたび登場しています。 また、似たような言葉で「守護(守護・地頭)」や「大名」、あるいは「戦国大名」や「譜代大名」「外様大名」という言葉が有名かと思います。 今回は、それぞれの言葉の意味や特徴、それぞれの違いについてまとめてみました。

  • 方広寺鐘楼(京都東山)|徳川家康公を呪う「国家安康・君臣豊楽」の梵鐘

    お寺の鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の言葉が時の天下人・徳川家康公を激怒させ、大坂の陣は起こり豊臣家が滅亡した―― 学生時代、歴史を動かしたこの碑文を、日本史の教科書や資料集で見た人も多いのではないでしょうか。 今回は、京都・東山の方広寺を訪れ、ついにこの歴史的梵鐘を見ることができました。

  • 徳川家康公の旗印|厭離穢土欣求浄土の意味と込められた想いとは?

    家康公の旗印「厭離穢土欣求浄土」とは、一体どういう意味なのでしょうか? 今回は徳川家康公の旗印に書かれた「厭離穢土欣求浄土」という言葉の意味と、その言葉に込められた家康公の想いに迫ってみます。

  • 杉山社(杉山神社)川崎市多摩区|家康公の謀臣・本多正信ゆかりの神社

    今回は、地域にある神社が実は、徳川家康公の謀臣・本多佐渡守正信ゆかりの神社でしたというブログです。 正信は唯一、家康公の寝所に帯刀したまま入室することを許されていた程、家康公から絶大な信頼を受けていた名参謀です。 実は筆者が家康公の次に好きな偉人は、この本多正信です。

  • 武士の髪型|なぜ武士はちょんまげ(丁髷)に月代(さかやき)なのか?

    絶賛放送中の大河ドラマ『麒麟がくる』でも、登場する武士の髪型がいわゆるちょんまげ(髷)と月代という髪型の武将が多く見られます。 月代とは、前頭部から頭頂部にかけての範囲の頭髪を剃った髪型のことです。 また、ちょんまげ(髷)とは、月代で剃った残りの頭髪を結った髪型のことです。 なぜ、武士はこのような独特な髪型にしていたのでしょうか。

  • 東明寺(神奈川県川崎市)|徳川家康公が名付けた寺

    攝取山浄土院東明寺は神奈川県川崎市幸区塚越2-118にある、浄土宗のお寺です。 東明寺という名前は、中原街道沿いにある西明寺にて徳川家康公が名付けました。

  • 竹千代手習いの間|『麒麟がくる』人質時代の徳川家康公が太原雪斎に手習いを受けた部屋

    竹千代手習いの間とは、徳川家康公が松平竹千代と名乗っていた幼少の頃、臨済寺の僧侶にして今川義元の名参謀・太原雪斎から手習いを受けていた部屋の再現展示です。 令和2年4月26日放送の大河ドラマ『麒麟がくる』紀行第15回でも、この部屋の再現展示が紹介されました。 竹千代手習いの間は、駿府城公園の東御門・巽櫓に設立された資料館で展示されております。 家康公は今川義元の下に送られて駿府で人質として過ごしていた頃に、雪斎から様々な知識を学び得ており、後の家康公の基礎が出来上がった時期でもありました。

  • 江戸時代の料理再現|真の八杯豆腐 江戸時代の料理本『豆腐百珍』

    今回は、江戸時代にベストセラーとなった料理本『豆腐百珍』に書かれている豆腐料理「真の八杯豆腐」の再現に挑戦しました。 材料も調理工程も至ってシンプルなものとなっています。 なお、調理に際しては参考文献を下地としております。

  • 二ヶ領用水|徳川家康公が小泉次大夫に作らせた神奈川県最古の用水路

    二ヶ領用水とは、徳川家康公が小泉次大夫に命じて作らせた用水路であり、主に現在の神奈川県川崎市を縦断するように流れている神奈川県最古の人工用水路です。 慶長4年(1599年)に普請が始まり、慶長16年(1611年)に竣工した12年に及ぶ難工事でした。 二ヶ領用水という名前の由来は、江戸時代2つの領(稲毛領と川崎領)に流れていた事に由来します。

  • 徳川家康像(静岡市葵区)|駿府城公園の徳川家康公銅像とお手植えミカン

    徳川家康公の像は各地にありますが、本銅像は家康公が晩年を過ごした駿府城の跡地に建てられた銅像です。 現在は駿府城公園の一角にあります。 駿府城は徳川家康公によって天正13年(1585年)に築城され、翌天正14年(1586年)に本丸御殿が完成し家康公が移りました。

  • 史跡徳川将軍小杉御殿跡|徳川家康公も利用した中原街道筋の御殿

    史跡徳川将軍小杉御殿跡は、かつて中原御殿のあった跡地のことであり、現在は神奈川県川崎市中原区小杉御殿町1丁目の中原街道沿いにその記念碑が建立されております。 中原街道はまだ東海道が整備される前の時代、徳川家康公が江戸ご入府や鷹狩りなどに利用し、小杉御殿も利用しておりました。

  • 二ツ橋地名由来の碑|徳川家康公の詠んだ和歌が地名の由来となった場所

    二ツ橋地名由来の碑とは、神奈川県横浜市瀬谷区瀬谷1丁目27にある、地名の由来を示した記念碑です。 二ツ橋という地名の由来は、徳川家康公が慶長18年(1612年)に詠んだ和歌によるものだそうです。 場所は横浜市瀬谷で、現在は中原街道と厚木街道の交差点となっております。

  • 【麒麟がくる】第1話『光秀、西へ』|大河ドラマあらすじと感想

    令和2年1月19日(日)放送の大河ドラマ『麒麟がくる』第1話、『光秀、西へ』のあらすじと感想です。 歴史好きとして注目した点や、徳川家康公ファンとして作中の家康公を追っていきたいと思います。 以下、ネタバレもあります。

  • 戦国時代の料理再現|焼き味噌 織田信長・豊臣秀吉・徳川家康公「三英傑」が愛した料理

    今回は、美濃・三河出身の三英傑——織田信長・豊臣秀吉・徳川家康公が愛した戦国時代の料理「焼き味噌」の再現に挑戦しました。 今日、焼き味噌のレシピにはピーマンなどの野菜をふんだんに使ったレシピもありますが、今回はあくまで戦国時代風の焼き味噌を目指しました。

  • 本能寺跡|『麒麟がくる』明智光秀が織田信長を討った「本能寺の変」

    本能寺跡は京都府京都市中京区元本能寺南町346にある、戦国時代に本能寺が建っていた跡地の石碑です。 大河ドラマ『麒麟がくる』主人公として注目を浴びる明智光秀が、主君・織田信長を倒した「本能寺の変」はここで起きました。 「本能寺の変」は日本史上最も有名な謀反、と言えるのではないでしょうか。

  • 【麒麟がくる】第4話『尾張潜入指令』|大河ドラマあらすじと感想

    令和2年2月9日(日)放送の大河ドラマ『麒麟がくる』第4話、『尾張潜入指令』のあらすじと感想です。 歴史好きとして注目した点や、徳川家康公ファンとして作中の家康公を追っていきたいと思います。 以下、ネタバレもあります。

  • 上野東照宮|徳川家康公を祀る黄金の東照宮

    上野東照宮は寛永4年(1627年)に藤堂高虎が、当時上野にあった自身の敷地内に創建したのが発祥です。 その後、慶安4年(1651年)に家康公の孫である三代将軍・徳川家光が改築したものが、現在まで残る社殿となっております。 近年は、期間限定で夜間ライトアップも行われております。

  • サイトリニューアルのご挨拶

    この度、当サイトは『徳川家康公ファンの歴史ブログ』として、リニューアルさせて頂く事となりました。 今後は、敬愛する徳川家康公ゆかりの地などの史跡紹介や、戦国時代・江戸時代の話など、日本史関連のテーマを中心としたサイトとして運営いたします。

  • 法政大学通信教育部退学のご挨拶

    この度、私takaは諸般の事情により令和元年度末をもって、法政大学経済学部商業学科を退学する事と致しました。 当ブログは従来の記事を残しつつも、今後は私の趣味として徳川家康公関連の記事や、史跡巡りなど、日本史関連のテーマを主としたサイトとして細々と運営していきたい所存です。

  • 近況報告(令和元年11月〜12月)

    当ブログをご覧下さる皆様、ご無沙汰しております。 11月からのここ2ヶ月間、仕事で忙殺されておりブログにまで手が回らない状況が続いております。 まあ、早い話が原因はこれです。

  • 2019年度後期メディアスクーリング中間リポート結果発表

    2019年度の後期メディアスクーリング受講科目のうち、中間リポートのあった科目について評価は以下の通りでした。

  • 経営管理論Ⅱ:第5回〜第6回(秋期スクーリング2019)

    予定では、第5回は「環境適応理論Ⅰ(F.E.フィードラー、P.ハーシー&K.H.ブランチャード)」となっていたが、まだ前回の内容が終わっていないのでその続きからとなった。 マーチ&サイモンは、組織が環境から情報を収集し、これを処理して意思決定を行い、環境適応を試みるとし、行為を分類した。

  • 「法政大学発祥の地」記念碑|明治13年設立の東京法学社跡

    「法政大学発祥の地」記念碑とは、法政大学の前身となる東京法学社が明治13年に設立された場所に建てられた、法政大学発祥地の記念碑です。 JR御茶ノ水駅で下車して目の前の明大通りを明治大学側に進むと、東京都千代田区神田駿河台1丁目の明大通り歩道上にあります。

  • 頭殿権現社|太田道灌が勧請し伊奈忠次が営繕した伊奈氏屋敷跡の権現社

    頭殿権現社は長禄年間(1457〜1460)に太田道灌が勧請し、天正19年(1591)に伊奈忠次が陣屋に入った後に営繕したと言われています。 なお、伊奈氏屋敷跡は平成29年より「忠次プロジェクト」の一環として、町道が散策路として整備されたとの事です。

  • 経営管理論Ⅱ:第3回〜第4回(秋期スクーリング2019)

    バーナードの組織論(続き) 前回の授業で取り扱ったバーナードの近代的管理論について、3つの組織過程を復習(「専門化」「誘因」「コミュニケーション」)し、さらに前回の続きを学習した。 また、授業後半ではサイモンの意思決定論を取り扱った。 「意思決定の理論」の系譜としては、バーナードの理論がサイモンにつがなっていき、今日にも大きな影響を与えている。

  • 船橋御殿跡東照宮(千葉県船橋市)日本一小さい東照宮

    船橋御殿跡東照宮は、千葉県船橋市本町4丁目29-7にある船橋御殿の跡地に建つ東照宮です。 船橋御殿は徳川家康公によって、鷹狩や領内視察などの宿泊や休憩所として慶長19年(1614)頃に建てられたと推定されています。 その跡地に建つ船橋御殿跡東照宮は「日本一小さい東照宮」だそうです。

  • 武蔵国府跡(国司館地区)史跡広場「国司館と家康御殿史跡広場」(東京都府中市)

    「国史跡 武蔵国府跡(国司館地区)史跡広場」は、平成30年11月25日に「国司館と家康御殿史跡広場」としてオープンした史跡です。 この史跡は、飛鳥時代〜奈良時代の初め頃(7世紀末〜8世紀初頭)に武蔵国府の国司館(こくしのたち)があった跡地です。 また、徳川家康公により天正18年(1590年)に建てられ、その後、正保3年(1646年)に焼失した「府中御殿」の跡地でもあります。

  • 経営管理論Ⅱ:第1回〜第2回(秋期スクーリング2019)

    2019年度秋期スクーリング『経営管理論Ⅱ』の講義を受講開始したので、興味のある項目を中心にまとめたいと思います。 本科目は春期スク水曜6時限目、経済学部商業学科では専門選択必修科目となっております。 担当は春期スクーリングの経営管理論Ⅰに続いて、松本潔(マツモトキヨシ)先生で、大変人当たりの良い語り口で授業して下さり好印象の先生です。

  • 伊奈氏屋敷跡(埼玉県北足立郡伊奈町)伊奈忠次の築いた陣屋跡

    伊奈氏屋敷跡は埼玉県北足立郡伊奈町大字小室217-5にある、関東郡代・伊奈忠次が天正19年(1591)に築いた陣屋跡です。 なお、伊奈氏陣屋跡は平成29年より「忠次プロジェクト」の一環として、町道が散策路として整備されたとの事です。

  • 家康ゆかりの茶堂(観音堂)埼玉県さいたま市大宮区

    家康ゆかりの茶堂(観音堂)は、埼玉県さいたま市大宮区三橋2丁目にある千手観音像を祀る観音堂です。 この観音堂前の道を徳川家康公が通った際、里人から渋茶を振る舞われて喜んだ家康公が茶堂と名付けたそうです。 JR大宮駅から西武バスに乗り、バス停「三橋二丁目」で下車すると目の前です。

  • 関宿城博物館(千葉県野田市)『家康、江戸を建てる』関連スポット

    千葉県立関宿城博物館は、利根川と江戸川の分岐点に建設された「川の歴史と文化を探る」博物館であり、利根川を曲げた伊奈忠次らの活躍も描かれている『家康、江戸を建てる』著者・門井慶喜先生の『徳川家康の江戸プロジェクト』で紹介されているスポットです。 利根川流域における洪水・治水の歴史や産業・文化を展示する博物館として、平成7年に開館しました。

  • 伊奈忠次 忠治墓(埼玉県鴻巣市)利根川を曲げた男たち

    伊奈忠次 忠治墓は、埼玉県鴻巣市本町8丁目2-31にある天照山良忠院勝願寺の墓所に建立された、伊奈忠治夫妻および伊奈忠次夫妻の4基の宝篋印塔の墓です。 徳川家譜代家臣にして関東郡代を務めた伊奈忠次は、利根川東遷事業でも活躍しました。 というのも、江戸の地を始めとした現在の東京一体は、かつて湿地帯で農業にも適さない土地でした。

  • 鴻巣御殿跡(埼玉県鴻巣市)日本一小さい東照宮・鴻巣御殿東照宮

    鴻巣御殿跡は、埼玉県鴻巣市本町4丁目8-26にある鴻巣御殿の跡地です。 鴻巣御殿は徳川家康公によって、鷹狩や領内視察などの宿泊や休憩所として文禄2年(1593)に建てられました。 その跡地に建つ鴻巣御殿東照宮(御成町東照宮)は「日本一小さい東照宮」だそうです。

  • 履修申請の抽選結果(2019年度後期メディアスクーリング)

    先日、2019年度後期メディアスクーリングの履修申請を済ませておきました。 その結果が本日、発表されました。 また、往生際悪く「メディアスクーリングの落選に関する分析」と題して、履修登録落選について雑な分析をしてみました。

  • 徳川家康陣地跡の碑(神奈川県小田原市)〜小田原城の北条氏を包囲

    徳川家康陣地跡の碑とは、神奈川県小田原市寿町4-14-15に建てられた石碑で、この陣地跡は天正18年(1590年)に豊臣秀吉の小田原攻めが行われた際、徳川家康公が陣地を置いた地に建立された石碑です。 碑の総高は335cm、碑石の高さは222cm、碑の幅・厚さは幅130cm・厚さ28cmとなっております。

  • 2019年度後期週末スクーリング履修科目について

    先日、Web上で『法政通信』2019年9月号が公開されました。 そのP.18から後期週末スクーリングの案内が掲載されております。 早速履修科目を決定いたしました。 また、巻末の「りぽたんの部屋」に初投稿が初掲載されました。

  • 法政大学通信教育部のおトクな授業料オススメ支払い方法

    今現在「結局のところ、授業料をどう振り込めばいいのか?」という話を少しまとめておこうと思い立った次第であります。 以下、歴戦の通教生ならば既にご存知の方も多かろうと存じますが、簡単にまとめておきたいと思います。

  • 【ブログ開設1周年】これまでの振り返りと今後の展望など

    昨年、平成30年8月28日にこのブログを開設いたしましたが、本日で開設1周年を迎えました! 我ながら「よくもまぁ、ここまで続いたものだ」と思いますが、これも一重にこのようなブログを読んでくださる皆様方のおかげでございます。 改めまして、日頃のご愛顧を厚く御礼申し上げます。

  • 履修申請の抽選結果(2019年度秋期スクーリング)

    先日、2019年度秋期スクーリングの履修申請を済ませておきました。 その結果が昨日、発表されました。 第1希望:経営管理論Ⅱ(松本潔先生)→……

  • 『絶対行きたくなる!日本不滅の名城「江戸城」』の史跡に行ってみた

    城郭考古学者として有名な千田嘉博奈良大学文化部教授ら3名の方々が、実際に史跡を訪れながら解説してくださる豪華な番組でした。 そこで、番組内で扱った場所の一部を実際に訪れてみましたので、番組の感想等と併せて書き残したいと思います。

  • 履修状況一覧(2019年度前半)

    そろそろ2019年度も前半戦が終了したので、本年度前半の履修状況を一覧にしてまとめてみました。 これは私の法政通教生活史上、最高の半期でした。

  • 2019年度春期スクーリング成績発表

    本日(8月21日)夜、ようやく春期スクーリングの成績が発表されました。 結論、履修科目は2科目全て単位修得に成功致しました。 同時発表された前期メディアスクーリングの結果と合わせて、残り単位数40単位となりました。

  • 2019年度前期メディアスクーリング成績発表

    本日(8月21日)夜、ようやく前期メディアスクーリングの成績が発表されました。 結論、履修科目は4科目全て単位修得に成功致しました。 同時発表された春期スクーリングの結果と合わせて、残り単位数40単位となりました。

  • 2019年度後期メディアスクーリング履修登録

    法政大学2019年度後期メディアスクーリングの履修申請が開始されました。 後期メディアスクーリングに関する詳細は『法政通信』7・8月号P.30〜85にて、既に発表されております。 なお、履修申請期間は2019年8月20日(火)~8月29日(木)とのことです。 私は今回、以下の通り履修申請を完了いたしました。

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