本能寺址
本能寺址。言わずと知れた本能寺の変の舞台。光秀の「首」と「胴」を追った最終地点は、光秀「三日天下」の始まりの地へ振り出し・・・。小栗栖で討たれた明智光秀の「首」と「胴」は本能寺に運ばれ、晒された(「天正十年夏記」)。その後、光秀の遺骸は、羽柴秀吉、織田信孝の命により「首」と「胴」が縫合され、六条河原で斎藤利三と共に磔にされたという。応永22年(1415)御開山日隆聖人は、本門八品の正義を弘通せんがため、油小路高辻と五条坊門の間に一寺を建立して「本応寺」と号されたが、後に破却されたので、永享元年(1429)小袖屋宗句の外護により町端に再建、次いで永享5年(1433)如意王丸の発願により、六角大宮に広大な寺地を得て移轉再建、本門八品能弘の大霊場として「本能寺」と改称された。その後、天文5年(1536)天文法乱によっ...本能寺址
2019/03/23 22:13